坂本龍馬の誕生地です。

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坂本龍馬
さかもとりょうま
(1835―1867)

幕末の志士。天保(てんぽう)6年11月15日、土佐国(高知県)高知城下本丁(ほんちょう)一丁目に郷士坂本八平の次男に生まれた。実名は直柔(なおなり)、変名は才谷梅太郎(さいだにうめたろう)。本家は富商才谷屋で、曽祖父(そうそふ)兼助が郷士(ごうし)株を取得して分家した町人郷士。領知197石など家産があり裕福であった。幼少時愚鈍の評があったが、城下築屋敷(つきやしき)の日根野(ひねの)弁治道場での剣術修行でたくましくなった。1853年(嘉永6)3月、江戸に出て北辰(ほくしん)一刀流千葉定吉道場に剣を学び、1年余で帰国。1856年(安政3)8月、ふたたび江戸に出て剣技を磨き、剣士として知られ、北辰一刀流の免許を得、1858年9月帰国。1861年(文久1)8月土佐勤王党が結成されるやこれに加盟。10月剣術修行を名目に出国、翌1862年1月には長州萩(はぎ)に久坂玄瑞(くさかげんずい)を訪(とぶら)い、帰国後3月24日脱藩。大坂、京都を経て江戸へ出た。
 在郷当時、海外事情に詳しい絵師河田小龍(しょうりゅう)の通商航海論に共鳴していた龍馬は、江戸で異色の幕臣勝海舟(かつかいしゅう)を訪い、その見識に感激して入門、単純な攘夷(じょうい)論を捨て、航海術を修業し、勝の信頼を受け、勝を補佐して活動した。1863年には、勝の主唱による神戸海軍操練所の設立に東奔西走、10月その塾頭となったが、1864年(元治1)10月には勝の突然の失脚によって、操練所は解散された。この間、龍馬は松平春嶽(しゅんがく)(慶永(よしなが))、横井小楠(しょうなん)、三岡八郎(由利公正(ゆりきみまさ))、大久保一翁(忠寛(ただひろ))ら開明の人士らの知遇を得、西郷隆盛(さいごうたかもり)とも知り合った。
 操練所解散後、龍馬は薩摩(さつま)藩の保護を受け、1865年(慶応1)5月ごろ、同志を率いて長崎に商社(亀山(かめやま)社中)を設けて通商航海業に乗り出し、これを媒体として倒幕のため薩長2藩を同盟させる運動に奔走、中岡慎太郎(しんたろう)と協力して翌1866年1月20日には京都で薩長同盟を成立させた。その直後の23日、伏見(ふしみ)寺田屋で幕吏の襲撃を受け、寺田屋の養女お龍(りょう)の機転で危うく難を免れ、お龍と結婚した。薩長同盟の成立は幕府の長州再征を失敗に導いた。
 1866年土佐藩が貿易のため長崎に設けた土佐商会に出張してきた参政後藤象二郎(しょうじろう)(かつての土佐勤王党の弾圧者)と龍馬は翌1867年1月に会談。山内容堂(ようどう)の公武合体路線の行き詰まりから方向転換を求めていた土佐藩は、龍馬と中岡慎太郎の脱藩の罪を許し、龍馬は海援隊長、中岡は陸援隊長となった。6月、後藤とともに藩船で京都に向かう船中で龍馬は、大政奉還、公議政治などの新国家構想をいわゆる「船中八策」としてまとめたが、これが土佐藩論を動かし、10月山内容堂は将軍徳川慶喜(よしのぶ)に大政奉還を建白、慶喜はこれをいれて朝廷に奉還を上奏、朝廷は10月15日これを許可し大政奉還は実現した。その後も龍馬は土佐、長崎、福井などを奔走、新政府の構想を練っていたが、11月15日夜、京都の下宿近江屋(おうみや)で中岡慎太郎と会談中、幕府見廻組(みまわりぐみ)に襲われて斃(たお)れた。年33。贈正四位。[関田英里]
『平尾道雄著『坂本龍馬・海援隊始末記』(中公文庫) ▽池田敬正著『坂本龍馬』(中公新書) ▽山本大著『坂本龍馬』(1974・新人物往来社)』
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吉田茂が揮毫しています。

高知空港にある吉田茂像をみてきた
http://s.ameblo.jp/fist-history/entry-12065328794.html