中江兆民の生誕地にいってきました。

高校時代は左翼のイメージが強く、著書を読む気がしませんでしたが、食わず嫌いはいけないと、大学時代に『三酔人経綸問答』を読んで見方が変わりました。

『三酔人経綸問答』とは、洋学紳士(紳士君)、豪傑君、南海先生が酒席で議論する物語で、紳士君は武装放棄や非武装論を説き、豪傑君は中国大陸への進行を主張。両者の議論を聞き、現実主義の南海先生が相互の意見を調停するという内容です。

岩波文庫で出ていますが、解説では、紳士君の主張が中江兆民が言いたい内容だと述べています。しかし、実際に読んでみると南海先生が中江兆民そのものであり、岩波書店版はかなり意図的に話の流れを曲解し、兆民を左翼のシンボル(非武装、武装放棄)としたい意図が透けてみえました。

以来、中江兆民=左翼(現代的な意味での)という短絡的な見方を捨て、中江兆民全集を全巻読んだところ、天皇陛下への崇敬の念は存分に持ち合わせており、著書を読まずに先入観で観ていた自分の不明を恥じた思い出があります。
※ただし、この話を他の人にしたところ、「いや、兆民は左翼だ」と言う人もおり、中々人の思想の立ち位置というのは難しいと思ったこともあります。


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中江兆民
なかえちょうみん
(1847―1901)

明治時代の自由民権思想家。名は篤介(とくすけ)(篤助)、兆民は号。土佐藩足軽の子として高知に生まれる。藩校に学び、藩の留学生として長崎、江戸でフランス学を学ぶ。1871年(明治4)司法省から派遣されフランスへ留学。1874年に帰国し仏学塾を開く。東京外国語学校長、元老院権少書記官(ごんのしょうしょきかん)となるが、1877年辞職後は官につかなかった。1881年西園寺公望(さいおんじきんもち)らと『東洋自由新聞』を創刊し、主筆として自由民権論を唱え、1882年には仏学塾から『政理叢談(せいりそうだん)』を刊行し、『民約訳解』を発表してルソーの社会契約・人民主権論を紹介するほか、西欧の近代民主主義思想を伝え、自由民権運動に理論的影響を与えた。同年自由党の機関紙『自由新聞』に参加し、明治政府の富国強兵政策を厳しく批判。1887年『三酔人経綸問答(さんすいじんけいりんもんどう)』を発表、また三大事件建白運動の中枢にあって活躍し、保安条例で東京を追放された。1888年以降、大阪の『東雲新聞(しののめしんぶん)』主筆として、普通選挙論、部落解放論、土著民兵論、明治憲法批判など徹底した民主主義思想を展開した。憲法の審査を主張して、1890年第1回総選挙に大阪4区から立候補し当選したが、第1議会で予算削減問題での民党一部の妥協に憤慨、衆議院を「無血虫の陳列場」とののしって議員を辞職した。その後実業に関係するが成功しなかった。『国会論』『選挙人目さまし』『一年有半』などの著書があり、『理学鉤玄(りがくこうげん)』『続一年有半』では唯物論哲学を唱えた。漢語を駆使した独特の文章で終始明治藩閥政府を攻撃する一方、虚飾や欺瞞(ぎまん)を嫌ったその率直闊達(かったつ)な行動は世人から奇行とみられた。無葬式、解剖を遺言して、明治34年12月13日に没した。[松永昌三]
『『中江兆民全集』全17巻(1983~85・岩波書店)』
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