![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150824/15/fist-history/6a/e0/j/o0800045013405290085.jpg?caw=800)
武市瑞山先生殉節の地にいってきました。
ご覧のように今は四国銀行が建っています。
武市瑞山(半平太)道場跡にいってきた
http://s.ameblo.jp/fist-history/entry-12065326036.html
武市半平太旧宅、墓にいってきた
http://s.ameblo.jp/fist-history/entry-12083494040.html
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150824/15/fist-history/c3/e9/j/o0800045013405290105.jpg?caw=800)
武市瑞山は坂本龍馬と比べ、龍馬は剣術の達人でありながら生涯人を斬ったことがないのに対し、瑞山は「人斬り以蔵」こと岡田以蔵らを使って暗殺を指揮したことから、現代の評価は芳しくはありません。
しかし瑞山は身分制度が厳しい土佐という土地において、郷士(白札)という下級士族の身分から一時であったにせよ、天下を動かしたのは紛れもない事実であり、この一事においても武市瑞山の偉大さはわかるというべきかと思います。
また司馬遼太郎の小説などの影響でよく誤解されるのは、獄中で仲間を裏切れないと拷問に堪え忍ぶ岡田以蔵を、信頼できずと毒殺を図るも失敗。これを恨んだ以蔵が仲間と罪状を暴露したことで瑞山始め同士が処刑されるとの話を信じている人が多いのですが、これらは誤りです。
確かに土佐勤王党のメンバーから岡田以蔵は信用できないから毒殺すべきとの提案はなされましたが、武市瑞山はこれを拒否し、毒殺もなされていません。
以蔵は土佐勤王党の同志が拷問に堪え忍ぶ中、女性でも堪えた拷問にも泣き叫び、即座に口を割って裏切ったのが真相です。
何れにせよ三年にも渡って拷問に堪えた土佐勤王党は、岡田以蔵の自白をもって壊滅することになります。
彼らは自白の有無に関わらず有罪と決しました。
瑞山は処刑が近いのを察し、たらいの水に顔を映して二枚の自画像を書いて詩を賦して自宅へと送ります。
その一つがこの絵となります。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20151015/19/fist-history/2a/49/j/o0182030013455154589.jpg?caw=800)
「花依清香愛 人以仁義栄 幽囚何可恥 只有赤心明」
(花は清香に依って愛でられ、人は仁義を以て栄ゆ。幽囚何ぞ恥づべき、只赤心の明かなるあり)
これに添えた手紙には、
さてじぶん絵をかき候処、ちとちと男ぶりがよすぎてひとりをかしく候。かがみで見てみるとますますやせて、口ひげはぬ(延)びほふ(頬)はかど出て、まことにやつれはて申候、されどもこころは大丈夫に候まゝ、こればかりは御気遣被されまじく云々
と気丈な面を覗かせています。
これは瑞山が心中期するところがあったからで、牢番の門谷貫助という者に、
切腹は一文字にかき切る法だけのやうに思ふ者があるけれども、なほ外に十文子と三文字の法がある
と形をやって見せ、「自分が切腹する時には、十文字か三文字の法でやるつもりだ。法を知らぬ世間の者に、死に臨んで心臆し、切り損じたように思われては心外だ。お前がよく覚えて居て、同志の者へ武市がかねてからこのように申していたと伝えてくれ」と述べていました。
瑞山の処刑が決定したと聞いた、妻の富は悲嘆の中にも動じることなく、死出の晴れ着を差し入れます。
瑞山はそれを見て「おお!この事、この事!」と妻の最後の心遣いに感謝したと言います。
そして慶應元年(1865)7月3日、南会所大広間の北の隅に板を敷き、瑞山はそこに死装束を纏い静かに着座します。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20151015/19/fist-history/6b/06/j/o0350026313455154599.jpg?caw=800)
武市半平太、去る酉年以来天下の形勢に乗じ、密かに党與を結び、人心煽動の基本を醸成し、爾来京都高貴の御方へ容易ならざる儀屡々申上げ、はた又御隠居様へ屡々不屈の儀申上候事共、総て臣下の分を失し、上威を軽蔑し、図家を紊乱し、言語道断重々不届の至り、きっと御不快に思し召され、厳科に処せらるべき筈の処、御慈悲を以て切腹仰付けらる
「有難くお請け仕ります」
瑞山は軽く一礼すると、袴を押下げ着衣を披いて、匕首を取って割腹。続いて二度、三度!見事な三文字の割腹を果たしました。
その鮮血はほとばしり、検視の役人の袴をを血に染めました。
武市瑞山、享年37歳。
辞世の句は
ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり
その書簡に言います。
この日本国は天子様があってその下に将軍があり、将軍の下に大名があり、大名の下に家老・士と順序がある事ゆえ(中略)我々どもは(中略)土佐藩の美名が天下に輝くように土佐藩の御為にすることが即ち殿様初め天子様への忠義なのです。
「天皇気狂い」とあだ名された彼は、生きていれば、間違いなく維新三傑ならぬ四傑となったであろうことは明らかであり、その死は、惜しんで余りあると言えるのではないでしょうか。