Live with Max. -23ページ目

Live with Max.

世の中のあらゆることは、人間関係に行きつく。
そんな視点でいろんなことを考えながら書いています。

 ~2014年1月に更新した記事より再投稿です。~


 僕が個人的なことでよくお世話になっている水野さん(仮名)へ、応援のメールを送った時のこと。

 水野さんは自分の夢を実現するために必要な資格試験を翌日に控えていた。僕は別にこれといった支援をしてきたわけではないが、どのような試験で、そのためにどれだけ頑張ってきたかを少しは知っていたし、何としても合格してほしいと願い続けていた。

 その試験の話を聞いてから3回くらい、それに関するお話をする機会があったが、その度に水野さんから『不安です』という言葉が返ってくる。それだけ難しい試験のようだし、いくら準備を重ねてもそう感じるのは無理もないかも知れない。

 そして、前日に一言、応援したいと思ってメールをしたところ、『不安で仕方ない』という返事がまた返ってきた。不安な気持ちを人に話すことで、少しでも自分を落ち着かせることができるからだろうか、それとも合格できなかったらどうしようという気持ちとプレッシャーで、本当に不安でしょうがないのだろうか。

 またしても『不安』という言葉がでてきた水野さんの心境を思い、メールを読みながら僕も身の置きどころがないような気持ちになった。
 大丈夫なはず。夢に向かって、水野さんはそうとう努力されてきたはずだ。なのにギリギリまでそんな不安な気持ちでい続けなくてはいけないなんて、あんまりじゃないか!僕は知らずのうちに個人的な思い入れにまみれた愚痴を頭の中で呟いていた。

 しかし試験前に不安な気持ちになるのは決しておかしなことでも、理不尽なことでもない。どんなに準備をしっかりしてきたとしても。

『その努力が結果として報われるまでは』

そんな気持ちになっても不思議ではない。

 と言いたいところなのだが、そこでふとした疑問がわいてきた。何かを成し遂げるには困難がたくさんあるのは分かる。悩み、もがきながら、耐えて、一歩ずつ進んでいかなくてはいけないのも分かる。それが当然だと思っていた。

 でも、極端な思い入れとはいえ、水野さんを応援していた僕には、『いや、それはおかしいじゃないか』と思えてきた。

 『努力が結果として報われるまでは』、不安で苦しまなくてはいけないのはおかしいじゃないか。イヤイヤではく、自らの意思で、他のことの時間を割いて一生懸命勉強し、努力し続けているのに、それが終わるまでは報われずに不安ばかり。努力し続けることも素晴らしいのに、そのこと自体にもっと価値を感じられてもいいはず。
 自分のことだったら『弱音はくな、辛いのは当たり前』と言い聞かせられるだろうが、人のことになると、心配と応援の気持ちが混ざって、そんなことにまで文句を言いたくなってしまう。



 落ち着かない気持ちでそんなことを思っていると、そこからこんなことを考えてはじめた。


 目的を達成すること、ゴールすることは、大切だけど、その時だけが価値のある瞬間じゃなくて、不安や困難が続こうと、一日一日が、一歩一歩、全てに価値がある。そのために未来のゴールを目指すと考えることが出来たならば、その一歩の意味というのは大きく変化するのではないだろうか。

 いや、ゴールすることができなかったとしても、たとえ明日には、そのゴールを目指すことができなくなると知ったとしても、今できることに集中するんだ。おそらくそのことに理由などない。その行為そのものこそ価値がある。だから続けるんだ。

 それはどうかな?と思う人もきっとたくさんいるだろうけど、『誰かを好きになること』にたとえると、少しは僕が感じたことも伝わるかも知れない。
 その気持ちが報われる(相手も自分を好きになってくれる)、あるいは報われる可能性があると分かっていなければ、好きでい続けることは意味がないのだろうか。
 自分の想いを伝えることすら困難なほど遠い存在の人、好きになってはいけない相手や立場ということもある。もしくは架空の人物であったり故人であったり。それは確かに苦しいかもしれない。 
 でも、それは意味がないからといって好きでいることをやめる理由になるだろうか?相手を想い続けること、その行為そのもにも、自分にとっての意味があるからであって、その結果どうなるという理由があるわけではない。僕はそんなふうに思う。

 スティーヴ・ジョブズはあの有名なスピーチで、過去に残してきた数々の点を、未来の自分が振り返った時、それが線で繋がっていることに気づくと言った。『目の前のこと、今に集中する。そうすれば先のことは考えなくても、その積み重ねが自ずと未来へと繋がる。道が拓ける』僕も今までそんふうに考えてきた。
 でも、それだけじゃない。線になるかどうかは分からなくていい。信じられなくてもいい。点を作り続けること、そのことに意味があると感じられるならば、ゴールに向かう過程での不安や苦しみと戦わなくてはいけないとしても、『これを味わうために、ゴールを目指しているんだ』と考えることはできないだろうか。そういう生き方に意味があると。

  水野さんからのメールを読んだあと、そんなことを数日間、考え続けていた。回数は少ないが、試験の話をするたびに、『不安』だと、おそらく無意識に僕に話していた水野さんの努力し続ける『その姿勢こそが尊い』のだと、その日に伝えることができていれば、少しは勇気づけられただろうか。そんな悔しさが頭を過ぎった。


 『目標を達成するために、不安や困難があるのではない。それを味わうために目標を目指す。』

 苦しいときは、そう自分に問いかけてみるのはどうだろうか。

 努力が報われる瞬間だけに価値があるのではなくて、すべてに価値は存在する。そう思うのと思わないのとでは、一日一日、一歩一歩の価値の大きさにも違いがでてくるはず。不安や苦しみを手放し、生きていく勇気が増していくはず。


 
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 初夢は、職場のパソコンがウィルス攻撃をくらい、対応で死ぬほどたいへんな目に合う夢でした。気が小さいので、意外をこういうの気にするタイプです笑


 新年あけましておめでとうございます!

 自分的に怒涛の12月が過ぎ、少々一息。振り返るとこのブログの更新から遠ざかっていることも気にしつつ。忙しくて文章を書いている時間が無いと思っていたが、一息ついて素直に考えてみると、実はそれだけではなかったなぁ。

 今まで数年に渡り、キープし続けてきた更新日を守れなくなっていた自分が嫌になってしまっていたのだ。たくさんのアクセス数やメッセージを目にして「大勢の人が読んでくださっている」「更新を待ってくださっている」と、そう勝手に自分へ酔ってしまっていたのだろう。

 大丈夫、今日は更新できなかったけど、明後日までには何とかと思いつつ一週間が経過しそうになり、次は必ず更新日に合わせようと思っていたら、また同じように何とか明日か明後日には。。。そんなことの繰り返し。

 読んでくださっている方の数を意識しながら、僕の中では更新日を守ることは読者の方への「約束」みたいなものになっていた。自分の文章力を過信し、できもしない約束をし続けている。自分へ酔ってしまった僕はいつのまにかそんなことまで考えては嫌になり、さらに文章を考えようとするエネルギーは減り続けていった。

 ブログを書くことで、そこまで思うなんて自意識過剰じゃないかとも自分でも思ってしまうが、読んで下さっている方には読み続けていただけたらと思うし、ブログということではなく単純に「継続できない自分」ということが尾を引いてきた。
 
 別に新年の目標というわけではなく、たまたま年末年始の休みで少し気が休まりそんなことを考えるに至った。もう一度自分をリセットしようと。できない自分にダメの烙印を押さずに、いつでもやり直そう。その気持ちが大事だ。
 
 またそんなことを言って続かなくなったりしたら、おんなじ事との繰り返しで恥を書くだけじゃないか、それでまた文章を書くことから遠のくんじゃないの?そんな自分の声がしてくるが、それでも定位置に戻ろう。意識過剰に自分のことだけを考えるのはやめて、リセットしよう。

 新年は多くの目標が生まれるが、多くの挫折が生まれるタイミングでもある。だが毎年同じことを思っては3日坊主だからなんて考える必要もあるまい。多くのやり直しが生まれるタイミングにしよう。できない自分を嘆かず、やり直す自分を褒めてあげよう。

 そう、僕はそういうスタンスだった。ずっとそうしてきたのに。ブログだけじゃない、忙しさを理由に気づかいないうちにやめてしまったことがいくつかあるなぁ。今、はっとそんなことに気づいた。今までしてきたことを思い出そう。新しいことよりも、自分の生活の中では僕はそれを取り戻したい。


 さぁ、ブログの更新はどうなるのか?今はバランスの良い緊張感を感じます。。。昨年は思うような更新ができずに残念でしたが、僕の駄文にお付き合い下さりありがとうございました。

 今年も書きたいです!宜しくお願い致します(*⌒∇⌒*)





 

 
大事を成さんと欲する者は、
まず小事を務むべし。

大事を成さんと欲して小事を怠り、
その成り難きを憂いて、
成り易きを務めざる者は、
小人の常なり。

それ小を積めば
大となる。

~二宮尊徳~




 敬愛する二宮尊徳先生の言葉。


 僕は複数のメルマガを長い間購読していたが、ここ数か月はすっかりそれらに目を通すことがなかった。どんどん未読がたまっていくから、面倒で差出人だけを見てごみ箱、ごみ箱、ごみ箱である。あとでまとめて読もうなんて以前は思っていたが、自分はそれをしないということに気づいたからだ。

 今日も同じようにたまっている未読を削除していると、なぜか分からないが1通のメルマガにふと目がとまった。件名にあった「コツコツ星人」という言葉が何故か気になり、開封したのです。
 読み始める前からに「小さなことをコツコツと」という内容だと、すでに察していたが、冒頭にでてきたのが、この二宮尊徳先生の言葉だった。


 全体的な意味としてはやはり「小さなことをコツコツと積めば、大きなことへつながる」ということだが、読んだ瞬間に思わず両目を思い切り強く閉じてため息をついてしまった。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
大事を成さんと欲して小事を怠り、
その成り難きを憂いて、
成り易きを務めざる者は、
小人の常なり。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この部分である。


 最近、自分の仕事に変化がでてきて、それに対しどのように貢献していけばいいかを考える時間がどんどん増えてきた。そんな時についつい遠くを見すぎてばかりいる自分に、この言葉を思い出して気付かされた。

 『あ~、いけない、いけない』そう頭の中で小さくつぶやき、思わず全力で目を閉じてしまった。



 ルーティンワークを侮ることなかれ。毎日繰り返される同じこと疎かにしてはいけない。壮大なビジョンを持つことが必要な時もあるし、それを課せられることもあるだろう。それでもなお、まずは今日やるべきこと、できることにしっかりと務めよう。

 小事を怠るは小人の常。自分はそれなりに努力して、一生懸命考えているつもりでいたが、この言葉を思い出した瞬間に深くグサりと胸に突き刺さった。

 『よし、落ち着こう。足元をみるんだ。』そう自分に言い聞かせながら、思わず笑ってしまった。僕はコンバットのレッスンでちょくちょくこんなっことを言う。『しっかりと立っていることが大事だ。スタンスがしっかりしていれば、常にチャンスはある!』と。
 しかし今の自分はなんてフワフワしているんだろう、笑い事ではないがおかしくなってしまった。

 
 ルーティンワークを常にきっちりと行うことができている人に、ずっとそれをやり続けることを命ずる人などいないだろう。そういう人を放ってはおけないのだ。必ずそれ以上の違う役割や世界が待っているはずだ。

 同じことの繰り返しに嫌気がさしたり、放り投げたくなったりしている人にも是非送りたい二宮先生のお言葉だ。


 そのメルマガの購読を解除していなくて良かった。ふと気になってメルマガを開封したことなんてなかったような気がするが。なんだか、救われたような気持ちがした。
 しっかり足元をみよう。そのメルマガを読み終え、「初心に帰るとは正にこういう気分なのか」と、初めてそんな実感と落着きを感じたような気がした。


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 今日はセールスに関するお話。こんなテーマ、はじめてかな。

 すこし更新から遠ざかっていましたが、文章を考えることが完全に億劫になってしまっていた。忙しかった間にちょっといろんなことがあったのでそのことについて書いてみたい。


 実は先月引越しをしました。もともとマイホームを購入することなど、全然考えていなかったのですが、とあるマンションのパンフレットを見て、「あ、これいい」と思ったんですね。
 実際にはそう思ってから買うと決めるまでに迷ったこともあったのですが、ちょっとした条件が合わさっただけで、マイホームのことなんか考えていなかった僕が、突然本気で『買いたいなぁ』と思い始めたのだから不思議なもんです。衝動買いみたいなもんです。

 こういう物件があれば購入していただろう、とういことではなく、逆にその物件を知ったことによって、これが自分が欲しいものだ!と気づかせてもらったような感じだったんですね。絶対にこの条件じゃなかったら、欲しいだなんてこれっぽちも思わなかっただろう。

 今日は別にそんなことを報告するために書いているわけではなく、こういうところにマーケティングのヒントがあるなぁと実感したことを書き残しておきたいなぁと思ったのです。
 商品やサービスを売るのではなくて、価値を売っている。お客様の欲求・ニーズに訴求することが大切だというのは間違いではない。そこをうまく伝えなくてはいけない。
 
 でもですね、商品やサービスが売れない理由第一位は、やっぱりこれだろう。

『その商品やサービスをお客様が知らない』

 セールスの勉強をしている人ほど、意外とこれを見落としてしまうところかもしれない。お客様が知らなければ、見込みもゼロ。だから見込み客が増えるほど売れるチャンスも大きくなる。
 もちろん売り方が悪かったら、その見込客を逃してしまう可能性もある。が、しかし、それでも買う人がいるとすれば、その理由は何なのか?

 答えは、『適切なターゲットだった』しか残っていない。

 話をマンションに戻します。売手は、決して僕のような人物をターゲットにしたわけではなく、普通によくあるマンションのパンフレットでした。しかし、たまたま、本当にたまたまでした、その物件が僕にとって『偶然の巡り合わせ』としか言いようがないほど都合が良かったんですね。
 
 家を購入するなら、場所や中身はある程度自分で希望できなくはありませんが、僕はそんなイメージを持っていたわけではなく、その物件を見てはじめて『これなら欲しい』ということを『知った』のです。自宅を購入する予定なんか全然なかったのにです。

 僕のケースはたまたまなのですが、逆にいうと『ターゲットさえ間違わなければ、セールス方法が不適切でも売れる』と言ってもいい。ちょっと乱暴な言い方かもだけど。

 例えば、僕の場合、まずモモと一緒に住めるかどうかが重要だからペットOKでないと困る。どんなに立地が良くて、機能性が良くて、デザインも素晴らしく、尚且つちょーお買い得な価格だとしても全く興味がないわけです。
 でも、買う買わないは別として、ペットOKということさえ知ることができれば、『へーどんなところだろう』と思うんですね。
 だから『ペットと暮らしている人に、このマンションを知ってもらおう』というように、誰がそこに住むのかさえ考えればいい。
 
 要するに、ターゲットは誰で、その人に知ってもらえているかどうか。すべてのセールスは『知らない』を『知っている』に変えるためだけに行われればいい。


 ・商品やサービスはターゲットさえ間違わなければ売れる。
 ・あとはいかに知ってもらい、覚えてもらうか(認知度アップ)。


 そういうことなんじゃないかなぁ。満足そうにお庭で遊ぶモモを見ながらそんなことを考えてみた。


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 先日、はやぶさ2号が3度目の正直でようやく打ち上げられたことが話題になりましたね。そして今回は帰還が2020年末の予定だという。東京オリンピックとともに日本へ大きな感動をもたらしてくれることを信じている人もそうとういるだろう。

 映画化されたほど感動的だった最初のはやぶさの興奮を、僕も思いださずにはいられない。今度はどのような旅になるのだろうか。




2010年6月に書いたブログより


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    あきらめないことの大切さ


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2003年5月に小惑星「イトカワ」へ向けて旅立った惑星探査機「はやぶさ」が先日、奇跡の帰還を果したことを、皆さんご存知かと思います。






「はやぶさ」の目的は約3億キロものかなたの直径僅か500メートルしかない「イトカワ」の小石を地球へ持ち帰ること。この小石は、月の石では分からない地球誕生のナゾを解き明かしてくれるklm可能性があるという。



3億キロというと想像もつかないが、太陽までの約2倍.



【涙無しには語れないストーリーの始まり】


帰還を果した「はやぶさ」だが、「奇跡」とまで言われるくらいトラブルの連続だった。

1.出発早々に4つあるエンジンの1つが故障し3つでの飛行を余儀なくされる。

2.観測規模最大の太陽フレアに遭遇し、各種電子機器に異常が発生。

3.3機ある内の姿勢制御装置が2機故障し、姿勢制御不能に。

4.燃料噴射によって立て直しに成功するが、当然帰還に必要な燃料が危機的に。

5.漏洩した燃料気化による温度低下で,バッテリーが放電、通信が途絶える。

6.その後、何とか通信が復活するも、帰路のルートの関係で3年の帰還のズレを余儀なくされる。

7.その後、何とか地球に向かうものの、帰還に必要となるエンジンが故障、帰還不能に。



最大の危機は上記の5だろう。機体の向きを変える補助エンジンで燃料漏れが発生、機体の制御ができず、太陽電池パネルを太陽に向けられなくなったうえ、アンテナの向きもずれてしまう。通信できない「はやぶさ」は行方不明になる。


約7週間にわたって、通信不可能になったそうだ。
これは本当に絶望的だったに違いない。



なぜなら...



いったん通信が途絶えた探査機の通信が復旧した前例は無い




というのが過去の歴史だから。

致命的とも言えるトラブルに見舞われながらも、帰還を果したのは

『スタッフの知恵と努力』
『団結力』
『絶対にあきらめなかった執念』


に他ならない。



毎日電波を送りまくり、7週間後に僅か20秒間だけ交信可能になり、何とか軌道修正に成功。




結局、往復4年の計画のところを7年間かけての帰還となった。
映画以上のドラマだ。


僕が思わず涙ぐんだのは、リーダーの川口さんが口にした言葉。


『はやぶさ』自身に助けられた。忠実に指令に従ってくれること以上に反応を示してくれた。われわれが乗り越えたというより、『はやぶさ』が協力してくれた」


川口さんをはじめとするスタッフ全員が「はやぶさ」と一体化していたことがこの言葉から感じ取れる。


通信が復活した瞬間までのスタッフの疲労と緊張が極限に達した状態、そして軌道修正に成功した時の歓喜が想像出来る。




そして「はやぶさ」は帰還した。


出発から7年たった、6月13日、惑星で採取したであろうサンプルが入ったカプセルを、地球に射出した後、役目を終えた「はやぶさ」は大気圏に突入し、燃え尽きた。


7年間、宇宙を45億キロも彷徨い、自分に課せられた仕事を一生懸命、命をかけてまっとうし、そして燃え尽きた。


今回の「はやぶさ」の帰還は、


★☆夢や想いをあきらめないことの大切さ★☆

というものを、教えてくれているような気がした。


自分自身の持っている夢や目標、想いを達成するには、常に困難の方が多いのが普通だ。

その行く手を阻まれ、その手段や方法をあきらめざるをえないこともあるだろう。そしてそれだけでなく、その夢や想いそのものまでもあきらめてしまった自分が、過去にいたことを思いだす。


しかし夢や想いに到達する道筋は、あきらめなければ無数に存在する。1つのルートが閉ざされても、別なルートが残されているはず。


もし、これから困難にぶち当たった時には、この「はやぶさ」を思い出し、あきらめずに前進していきたい。




僕は、そんな勇気を「はやぶさ」から貰った気がする。

 今月、何回か久々にとんでもない『物』忘れをしてしまった。

 財布を持たずに県外へ出かけてしまったり、結婚式のご祝儀袋をどこにしまったか出発前に探さなくていいように、わざわざホテルの机の上に出しておいたのに、それを持たずに出発して会場に行ってから気付き、慌ててホテルへ戻ったり。

 誰でもちょっとした物忘れや『あれ???』って時はあると思うのですが、最近ちょっと怖いなぁと思い『しっかりしなきゃ!』と考えてたのですが、こんなことを書いてたのを思いだした。

これは効果ありましたよ。もうしばらくこんなことしてなかったけど、再開しようと思います。



~以下は2012年2月のブログを加筆修正したものです。~

 僕が自覚している短所は、『物』忘れが多いことです。人が言ったことや、自分がしたことをうっかり忘れてしまうこともあるのですが、特に多いのが『物』なのです。


 実は先日、上司に『もうそれは直らないんじゃない?』と言われました。
それを言われた時は、『すいません、気をつけます』と、言ったのですが上司の次の言葉に、耳を疑いました。

『もう自分は「物」には興味ありません、ってことでいいんじゃない?その代り、他に色んなことを考えているってことで。』


 もしかして遂に上司に呆れられたか?と焦りましたし、「いやいやそんなことでいいんだろうか?」と感じたんですね。

 でもですね、僕の上司は、いつも事実を脚色せずに、ありのままを指摘してくれる人だ。だから僕も素直にその言葉を受け入れて考えてみました。すると上司の言葉は確かにその通りなのかも知れないと思えてきたのです。

 何故なら、『直したいと思っているなら、とっくに直っているはず』と思ったからです。そしてその時、はじめて気づきました。残念なことに、僕は自分で「短所」と自覚していることを直そうとしている「つもり」だっただけだ。

 僕が「そんなことでいんだろうか?」と思ったのは上っ面だけの建前に過ぎない。だとしたら直るはずがありませんよね・・・


『物には興味が無いってことで、いいんじゃない』

 これは決して褒められることではありませんが、正直、人からそいう言われて、気が楽になった。直そうとしていないんだから、自分はそういう人間だと受け入れよう。そう素直に思えたんですね。

 ところで、受け入れるということは、『自分はこういう人間だ。だから〇〇しよう』というように、意識と思考を働かせることが出来る状態だと僕は思うのです。


 『自分は〇〇だ。』だけでは、単なる認識であって、『だから〇〇出来ない、苦手だ』という言い訳にしかならない。そういうこと言うのだけは、個人的に嫌いだ。結論を他人に納得させようとして、自分が楽しているだけに思えてしまう。

 結果、そういう人間には周囲もあまり指摘をしなくなってくるし、人間としての成長も寂しいものになるでしょう。


 そこで、その日、自宅に帰ってから考えてみました。自分はそういう人間である。まさに上司の言葉通り、「物」に興味が無いということだ。そう思うことにしました。


 では、それを踏まえて僕はどうすればいいのか?それを考えていた時に、ふと、こんな疑問が沸いた。


『物忘れを直したい』そう思っていること自体がそもそもの間違いなのでは!?



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直したい習性を直す時に必要な行動とは?

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 例えば、学校に行く時、ノートや教科書、宿題を忘れてしまう子供がいるとする。

『忘れ物をしないようにしよう』忘れ物をする習慣がついてしまっている子供にとっては、こういうことを思っても多分僕と同じ結果でしょう。


 では、『算数のノートだけは、毎日欠かさずランドセルに入れる』だったらどうでしょう?


 忘れ物をするという習性を直すのではなく、〇〇だけは常に持っていくというような新しい習慣を始める。これを繰り返すことで、直したい部分にもそれまでと違った意識や変化が生まれてくるのではないだろうか。


 もともとそれを直すこと自体に関心が無いのだから、無理に直そうとしても、結局また忘れてしまうのがオチだ。ということで、僕は自分の習性を踏まえて、どんな行動をとるのか?

毎日ノートに以下のことをメモすることにしました。

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・自分が忘れる「物」を1つ

・ただし、2日連続で同じ「物」は書かない

・それを20秒以内に書く

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 これをさっそく始めてみたのです。1日たった20秒ですから面倒なことは全くない。書けても書けなくてもいい。2個思いついても1個しか書かない。

★何を忘れるのかを1日1回、20秒だけ意識する

ということを習慣にすることにしたのです。

何故なら、


★人は意識していることしか、情報として処理できない

からです。



 これによって潜在的にしか意識できなかったことが、表面化することだけは、間違いないと思うのです。

 たいていの人は、自分には『◯◯という良くないクセや習性がある』と感じていると思います。そしてそれはずーっと続いていて、気をつけなきゃと思った経験もたくさんあるでしょう。そういったことを一気に直すのって簡単じゃありません。にも関わらず、それをしようとしている時点ですでに躓いているのではないでしょうか。


 もちろん、すぐに直す必要性があるものや、緊急を要することもありますので、すべてがそうだとは思いません。でもそいういった事を除けば、習性を直すということだけに集中してもうまくいかないものなんじゃないでしょうか。


『習性』を変えるには、それに正面からぶつかるのではなく、何か別な新しい習慣を始めることによって直したい習性が改善されていくようにする。


 これが出来れば、今の自分が良くないと思っている習性をイナスに捉えてしまうこともなく、かといって、それを良いこととして楽観的に見ることにもならない。

 仕事でも「ついうっかり」のミスを減らすことに役立つかも知れない。ボディブローのようにジワジワと効いてくれることを期待して、毎日20秒メモを習慣にしています。


 しかし、上司の『物』忘れの習慣を『それでいいんじゃない、そいうことにしておけば』なんて発想は、僕からすれば絶対に考えつかないし、むしろ「そんなことでいいのかよ!」って思ったくらいでした。


 でも僕にとっては深かった。物忘れについて、言い訳をするようなことはなかったが、

『あ~、直そうと思っているフリをしていただけだったなぁ』ということを初めて痛感しましたし、新しい習慣を始めてみよう!という行動にまで繋がったんですよね。


 自分を素直に見直すためには、周囲の言葉や考えを頼りにしてみることが改めて大事だなぁと思わされました。


 因みに妻に聞いたところ、僕のこの短所の原因は『常に考え事ばかりしているから』だそうです。『何をしている時でも、それがあからさまに分かる』とまで言われてしまいました(汗)


 今日は、我が社のFB友達が投稿していた記事をご紹介します。目を通したあと、背筋が伸び大きく息をついた。

<以下引用>
【”貢献”こそが存在意義】

 「今日、何に貢献出来たか?」

 ”貢献する事”、それが人間の存在意義だと思います。
 仕事を通して社会に貢献する。
 遊びを通して友人や同志に貢献する。
 孝行を通して家族に貢献する。

 どんな事でも良いのでしょうが、”一日一貢献”をモットーに生きていくべきなのかなと”フト”思いペンを取った次第でございます。

<中略> 

 何でもいいです。
 人間の存在というのは“周囲との関係性”で出来ています。
 無人島で自分の存在意義は示せません。
 もちろん、誰にも貢献する事など出来ません。(”無人”島ですから・・。)
 ”貢献”どころか”迷惑”ばかりかけてしまっているという方も中にはいるかも知れません。(かく言う私も)

 しかし、まずは”貢献”という意識を持つ事から始めていかねばと思っております。
 自分の言動、自分の行動が周囲をプラスに引っ張っていける。
 そんな事を目指して日々生きていきたいと思う今日この頃でした。

<引用終わり>

 人間の存在意義とは、『貢献』であるということ。その理由は『人間の存在というのは“周囲との関係性”で出来ています。』と述べられている。確かにこれは間違いないことだと思える。

 『もっと時間が欲しい』だとか『お金がほしい』だとかと言っている人に、好きなだけのお金と時間を与えても、無人島では幸せにはなれないだろう。他の人が存在してくれるだけでも嬉しいと感じるに違いない。行為ではなく、存在だけでも人は貢献できる。

 『貢献』という言葉を聞くと、実際はなんだスゴイ大きなことのように感じてしまうかもしれない。だがこのように述べられている。

『どんな事でも良いのでしょうが、”一日一貢献”をモットーに生きていくべきなのかな』

 "人間の存在意義"であるのに、『どんなことでも良い』といっているのですよ。何でもいいのなら、人生の意味ってなんなんだろう?そんな疑問がわいてきませんか?

 でもですね、それこそが答えなのかも知れない。人生に「コレだ!」という意味などないということ。
 何かに向かって生きているという『線』ではなくて、今をどう生きたのかという『点』の連続でしかない。何か目標を持ってそれを成し遂げたいとしても、今日という一日は、いつかくるその時ためにあるのではなくて、今日できることをするためにある。準備期間などなく『いま、ここ』も本番。だから『どんなことでも良い』。一日一貢献で。そう考えていいのではないでしょうか。

 しかし、他の人へ貢献しようとすること、何か良いことをしようとすることは、時に大きなエネルギーを奪われる。
 それを恥ずかしいと思って行動するために勇気が必要だったり、『いい人ぶっている』『ひけらかしている』などといった妬みを受けて嫌われたり足を引っ張られたり。そういう人も必ずいるものです。
 周囲のために良かれと思って発言や行動しても、それが受け入れてもらなかった経験がは多くの人にあるのではないでしょうか。

 自分が良いと信じているこを自由にしようと思えば、多かれ少なかれそういうことは起こる。それは自由の代償といえるかも知れない。
 だけどそれを恐れること、誰にも嫌われないようにするということは、不自由だ。自分が良いと信じた、自分が選んだ道ではなく、他者がどう思うかに縛られ、他人の人生を生きるようなものになってしまう。

 自由に生きることを選ぶことは迷いも生じる。だけど『他の人への貢献』こそが人間の存在意義であるならば、それが前提であることについては自分の自由に生きていいと思う。迷うことなく自分が良いと信じたことを選び、嫌われる人には嫌われれてもいい。過去も未来も関係なく、他者の顔色を伺うこともなく『いま、ここで』できる一日一貢献をしていいと思う。

 貢献こそが人間の存在意義であるならば、自分が誰かの役に立てていると感じた時、人はそんな自分を好きになれると思うからです。
 自分を好きになることができれば、それまで避けていた、あるいは苦手だった人間関係にも積極的になれる。そしていつでも他の人を助けようと思えるのならば、それはすべて自分にとって仲間という存在になる。そう思えた時、世界の見え方が変わってくる。

 他の人に働きかけ、自らの主観によって『自分は誰かの役に立っている』と思えればそれでいい。感謝されなければいけないというわけではない。


 なんか『一日一貢献』ってすごくいい言葉だ。どんなことでもいい、今日なにかに貢献できたのなら、そのために今日という一日があったということ。『いま、ここ』を生きていこう。そんなことを感じた。


 最後に僕が折にふれて読み返している言葉。あのマザーテレサも引用したケント・M・キースの逆説の10ヶ条の中から3つほどご紹介して終わりにします。



 『なにか良いことをすれば、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。それでもなお、良いことをしなさい。』

 『今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。それでもなお、良いことをしなさい。』

 『人が本当に助けを必要としていても、実際に助けの手を差し伸べると 攻撃されるかもしれない。それでもなお、人を助けなさい。』




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※2010年12月20日のブログの内容を少しだけ編集して再投稿です。

 最近、身の回りで色々な課題が浮上してきていて、じっくりと考え込んでしまう時間がとても長く感じることが多いです。そんな中で、思い出したことがあったので、そのことについて書いてみたいと思います。


 捉え方によっては、日ごろ感じている心のモヤモヤが、スーっとなくなっていくのを感じられるかも知れませんよ。


 皆さんも、日常生活や仕事において、色々と自分自身に課題・問題が振りかかってくることはあると思います。苦しいこと、辛いこと、イヤなこと。そんな事ばかりが続くことだってある。


 前向きに考えれば、

『そういった苦労があるから幸せを感じることが出来る。』

 ということを、口にしたり、思ったりすることもできるかも知れない。


 しかし、時にはそうは思えない理不尽なことや、非がないのに嫌な思いをしたり。そんな時もありますよね。


『なんで自分がこんな目に...』

『一体どうしろってんだよ???』

つい感情的になってしまうような出来事です。

 酷い時には、完全に周囲から陥れられてしまい、まったくもって不当な扱いを受けてしまうようなこともあります。

 かつての僕は、思い込みが強いうに、思慮の浅い人間でした。物事を一点だけから捉えて、「おかしい!」と思えばすぐに感情的になってまくし立ててしまうこともしばしば。


 でも、そういった問題って、そんなことをしても、絶対に解決になんか至らないんですよね。それだけはハッキリとしていました。それを全く知らなかったんです。


 そんな私を見事に更生させ、当時よりマシな大人になるきっかけを与えてくれたのが、上司の「ある言葉」でした。

 以前に仕事上で、自分が原因で大問題を起こしてしまい、それなりの処分というか、お叱りを受けた時があったんですね。

『あぁ、何でこんなことになってしまうんだ』

『どうして僕が...』

『なんであの人がそんなことを...』


 という自問ばかりをしながら、毎日を過ごしてしまっている時でした。


 そんな時、その上司から一通のメールがきました。当時の僕が直面している立場について、こんなメッセージがありました。


『いろいろあったけど、全てを糧として、頑張って欲しいです』

 一見普通のメッセージですが、心理的に負のスパイラルに陥っていた私には絶対に不可能だったことが、この文章にありました。

 こんな自分でも、こうやって励ましてくれる人がるなんて...最初は、そう思っていただけだったのですが、何度かメールを読み返しているうちに、その言葉に突然目が止まったんですね。

★全てを糧として

 つまりこの上司は、私に 『気付け、そしてこのことから学びなさい』そいう言っているのだと思いました。そこで、僕の気持ちが180度変わりました。決して開き直ったわけではありません。

 今の自分の現状を「糧」と捉えなくてはいけないのなら、


【何故こんなことになってしまったのか?と考えることをやめて、こうなったのは当然だと考えるべき。】

 そうしなくてはいけないということだと思ったのです。


 当時の僕は、不満、不服、理不尽、そんな気持ちでいっぱいだった。しかしそんな気持ちを爆発させたところで状況は解決しない。それは表にださず、黙って自分に科せられたことを受け入れるしかなと思っていた。


 そんな僕が、『自分が今、こんな目に合っている正しい理由は何か?』ということを、そのメールをきっかけに考えはじめた。

 辛いことや、苦しいこと、理不尽なこと。私達は生きている限り避けて通れないことでしょう。

 ★それらを【全ては必然だ】と捉えることによって、初めて分析が出来る。

 そんな気がしたんですね。
 言い訳、愚痴、不平不満、嘆き、被害者を演じる、という反応を示すか。それとも、そういった行為から抜け出して、自分がその状況にいるのは誰のせいでもなく当然と考えてみるか。

 どちらが自分を成長させらえるか? どちらが幸せな人生を送れるのか?いや、幸せとは言い切れないかもしれないが、人生をうまく生きていく方法は明らかではないだろうか。

 明らかに不当だ、理不尽だ、という出来事に直面していようとその答えは明白だろう。ところが、そこに辿り着くのが、不思議なくらい時間がかかることもある。


 しかし、幸いなことに、どのような感情を作り出すのか?その現実をどのように自分に解釈させるのか?最終的にそれを選ぶことが出来るのは、自分自身だけだ。

 困難な出来事や、例え理不尽なことでも、それらは、それを糧として『気付け!学べ!』というメッセージなんだと受け取る。私は、そんなことを当時の出来事と、上司のメールから学ぶことが出来た。

※その出来事はとてもお披露目出来るような内容ではありませんので、すいません。



 まぁ、その結果自分自身がどれだけ成長しているのか?ということを考えると、それはお恥ずかしくて、これまた、ここに書けるようなものではなく、毎日が糧との出会いのようなもんです(笑)



 ですが、そういう考え方が、普段から意識出来るようになったというだけでも以前の私にに比べれば、ちょっとはマシな人間になれたかなぁ、という気はしています。


 ちなみに、これは物事を何でもプラスに捉えよう!ということではありません。プラスに捉えることを前向きだとか、ポジティブだとか、そんなことは思いません。

 現実的に考えることで、事態は打開出来るということ、それが前向きに人生を生きるために必要だと感じた。このことを知れば、悩む時間は少なく、現実を受け入れ、それに対処する思考や行動に力を注げるのではないでしょうか。

 実際のところ、理不尽としか言えないような不幸な出来事はあるし、それでも、全てのことには意味があるだとか、神様が与えた試練だとか、そんなことを今の僕は思わない。ただ自分の人生が悪い方向へ傾いてしまったことをその出来事のせいにすることは避けていきたい。いまでも当時の出来事を思い出し、たまにそんなことを考える。








部下の女性社員の気難しい言動・態度に悩む上司のHさん。どのように立ち向かおうとしたのか?

前回のブログで書いたその内容に対し、数件、メッセージといただきましたが、その中でこんな内容がありました。

『ブログの内容だけでは、その女性社員が全て問題なのかどうかは分かりませんが、そんな扱いづらい社員にそこまで気をつかってあげるのもどうかと感じます。わたしの職場にも同じような女性がいますが、本人は全く気づいていないものの、周囲からはそういう人だと見られていますから。そんな相手ならば、態度を改めるようビシッと要求した方がよいのではないでしょうか。』


 メッセージ、ありがとうございました。今日は、このメッセージから感じたことを書きたいと思います。
 
 周囲に被害をもたらすようであれば、問答無用で、相手の非を改めさせなくてはいけないこともあるかも知れませんが、前回のお話は、そういった部分ではなく、あくまで対人関係の問題という部分にフォーカスした内容でした。

 しかし、このメッセージを読み返しながら感じたのは、『ビシっ』と改善を要求し、相手がそれに従ったとして、それで問題は終わりなのだろうか?ということでした。

 たとえば前回ブログで登場したHさんの部下は、Hさんのミスに食いついたり、あら探し、揚げ足とりといったことにエネルギーを使ってくる。その理由は過去の出来事かもしれないし、Hさんの仕事の能力や人格への嫉妬かもしれないし、ただ倫理的に嫌いなのかも知れない。
 『なんで上司のくせに。。。』『上司なんだから。。。。』という感じで、最初から不満をぶつけたり、問い詰めることしか考えてなさそうな相手のようでした。

 組織において上位者がそのような立場も経験することは多いでしょうし、そこから学ぶこともあると思いますが、いずれにせよ聞く限りでは、上司であるHさんを助けよう、サポートしようなどという気持ちなどないんですね。

 そのような相手に対して、態度や言動の改善を求め、従わせたところで、それで問題が解決されるのだろうか?人間関係が改善されていなければ、逆に新たな問題の芽を生むだけではないだろうか。
 一見すると仕事上での問題であるように見えることも、実は全て対人関係に結びつくといってもいいと僕は思うのです。人は、他人の言動に関する『内容』よりも、それをしているのは、言っているのは誰なのか?という『人物』の方に大きな関心があるからです。ウワサ話などはその典型的な例でしょう。

 Hさんと女性社員を例にとると、上司の言動や人間性に対して不満があるのではなく、最初から不満をぶつけてやろうという目的があって、それに見合う材料を探していることになります。
 女性社員の立場からすれば、『そんな馬鹿なことあるはずがない、Hさんがそう思わせるような言動をとるからだ』と言いたくなるでしょう。
 本当はHさんという『人物』に対して不満をぶつけようとしているのに、『言動だけ』に重大な原因があるかのように自らを説明したくなるものです。

 なぜ、そう言い切れるのかというと、不満をぶつけたり態度にださずに、Hさんに至らない点があるならそれをサポートしようという言動・態度という選択肢もあるはずだからです。組織におけるリーダーとメンバーのそのような関係だってあるのが自然です。

 『いやいや、それでも現実問題として、人物というよりは、相手の言動そのものに腹を立てたくなることだってあるのでは?』

 確かにそういうこともあるかも知れません。しかしそのようなマイナス面を、いかにしてプラスに変えるかとういうことを、腹を立てて不満を相手にぶつける前に持ってくる努力もできるはずなのです。それをするかしないかこそが現実的な問題ではないでしょうか。

 つまり、相手の言動に問題があるからそのような努力ができないのではなく、そういう努力をしたくない自分がいるのだと考えなくてはいけない。その努力をする勇気を持てない自分がいると。
 そんな相手のために自分が変わろうとするくらいなら、不満があろうと自分の主張を曲げない方がよっぽど楽だからです。
 ところが、その一歩を踏み出さない限り、いつまでたっても『わたしではなく、あの人が悪い』という不毛なエネルギーを費やし続けることになることは自明ではないでしょうか。

 だから対人関係の問題が解決されれば、すべての問題は解決されるといっても過言ではないと僕は思う。自分の主張の正しさにとらわれ、それを判断基準にし、相手との関係の在り方を置き去りにすることは避けたいのです。

 そして対人関係の在り方を変えたいのであれば、自分の考えや気持ちが正しいといったことはひとまず忘れておきたい。それを示すことができたところで意味はない。たとえるなら、論理だけを振りかざし、メンバーに自分の意見を理解させようとしているリーダーシップと似たようなものだ。
 どんなに自分の意見が正しかったとしても、誰もあなたという人間を慕ってくれなかったら、あなたの意見どころか、リーダーとして存在する意味もないだろう。

 仕事上の上下関係はあろうと、自分や他者に至らない部分や失敗などがあっても、互いにその穴を埋め合うことができる良好な関係を築くのか?それとも『あの人が悪い』と言い続けるのか?前者を選ぶのならば、自分が変わることを決意するしかない。変われるのは自分だけだ。

 僕自身がそんなふうにできているかといえば、正直にいうと反応的な感情を表に出してしまう時は少なくない。でもそんな心構えでいたいと思っているだけで、気づくことはできるんですね。『あ、いま自分は相手のせいにしてしまった』と。

 大きな理由があるわけではないが、自分の考えや行動の正しさの前に相手との関係を考えることを優先したい、ただそうありたいなぁと、僕は思うのです。

 最後にたまにブログで紹介しているアドラー心理学に関する書籍からの引用で終わりたいと思います。


~以下引用~
『人はいわば真空の中で生きているのではなく、必ず対人関係の中で生きています。私たちの言動は他者の存在を前提とし、他者へ影響を与え、何らかの反応を他者から引き出します。

 <中略>人に応じて関係のあり方を変えられなければ、その人の対人関係は困難なものになるでしょう。実際には人と人の関係は変わり、人へ影響を与え人から影響を受けます。先に、自分しか変えられないと書きましたが、そうであれば、自分が変わればそれに応じて、相手も多かれ少なかれ変わらざるをえません。

 人を変えるために自分を変えるというのは間違いだと私は考えていますが、自分の言動が変われば、相手がかわることはありえます。人を変えるために自分を変えるというのは、支配的な考えですが、私さえ我慢すればいいというのでもありません。自分が変わることで、すぐにではなくても、結果としてまわりの人との関係は変わり始めるのです。』
~引用終わり~

【困った時のアドラー心理学(中公新書ラクレ)/著者:岸見一郎】

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とある飲み会での会話。 

 某大手企業で管理職を務めるHさん。現在の職種についてから、最初は業務に忙殺され、そのことに精一杯だったが、Hさんの課題は徐々に別なことへと移っていく。

『最近ヤバいですよ。ストレスがたまってしょうがないです。』

 表情も口調は明らかに感情がこもっていて、本当にまいっているような感じだ。Hさんの悩みは職場にいる女性社員との対人関係。細かいことでHさんへ詰め寄ってきたり、ちょっとしたことですぐに不機嫌な態度をとる。その女性社員の扱いに手を焼いているとのこと。

『本当に嫌がらせみたいなものですよ!』ちょっと強い口調で言うHさん。

 立場的にも自分は感情的になってはいけないと考え、忍耐強くその女性に気遣い、コミュニケーションをとるように努力したと言う。ところが相手はまったく変わらず、Hさんのあら探し、揚げ足取りとも思えるような言動を続けてくることに、ほとほと嫌気がさしてしまった。

『そこで、もう諦めて、中立的な接し方を意識して、何とかこれ以上振り回されないようにしていこうと思ったんですが、何だか以前にもまして態度があからさまになって、さらに激しくなっているような気がするんですよ。もう勘弁してほしいですよ。』

 お酒が入っているものの、真剣な表情でそんな感じのことを言って、僕から目線を外しながら大きくため息をつくHさん。

 当の女子社員からすればそういう態度になるのは、Hさんのせだと思っているだろうが、Hさんが、感情をださずに気をつかいながらコミュニケーションをとろうとしてた気持ちが僕には良く分かる。

『それでも、やっぱり自分が変わるしかないですね。相手がどうだからとかじゃなくて、良いと信じたことを続けるだけ。』

 僕はそんなことを心のなかで思ったが、Hさんの人柄の良さを知っているだけにそうあっさり返すわけにもいくまい。ただ1つ思ったのは、あきらめて中立的な接し方を意識した結果、以前にもまして態度があからさまになってきたということ。

 手に負えない、もうそっとしっておこう。対人関係でそんな選択をしようとした経験、僕にもあったような。しかし、それで相手の良くない言動・態度をエスカレートさせてしまったのだとしたら、どうしたらよいのだろうか。

 相手が理不尽な言動をとってきても感情的にならず、当たり障りない中立的な接し方に徹することも必要だと思えるかもしれないが、それが逆に人間関係を悪化させる要因として働いてしまっていないだろうか。そんなことを思わず考えさせられた。

 感情的にならない、というのは確かに必要だけど、中立であったり当たり障りない接し方は、もしかしたら相手にとって『何もしていない』のと同じであり、無である。相手が関係について良くしようと考えてくれる可能性を完全に打ち消してしまうことになるのかも知れない。Hさんのような立場であれば、それで良しとするのも難しいはずだ。

 人は自分のしたことに対して、リアクションがほしい。自分がフェイスブックに書き込んだことに対して誰が「いいね」をつけてくれたのか。仕事で目標を達成した時には評価してほしい。自分が話したことについて相手がどう感じたか知りたい。そんな欲求があって自然だ。

 わざと「いいね」をつけない、誰かが仕事で目標達成しても感謝やおめでとうと言わない、相手の発言に対して感じた本当のこともウソすらも言わない。こういう例を考えてみると、相手に何もしない、当たり障りない反応というのは、ネガティブなストロークそのもの。

 相当ストレスをためているようなHさんに、そんなこと言っていいのだろうかと一瞬考えた自分こそが、今まさに当たり障りないことを口にしようとしているような気がしてしまい、思い切って言ってみた。

『その中立的な接し方ってのが、間違っていたのかもですね。』と僕。
『そうですねぇ、なんか良くないような気はしてました。どうにもならないと。やっぱり相手としっかり話し合うしかないですかね?』
『それもあるかもしれませんが。その前に、その女性社員の良い所って思い浮かびますか?』
『う~ん、態度は良くないけど、仕事はしっかりやってくれてはいますが、良い所じゃなくて、それは当たり前ですかね。』

 僕は、「相手との関係を改善すると決めた側が相手の良い点を見つけていかなくてはいけない」というアドラー心理学の本で読んだ言葉を思い出しそれを伝えてみるつもりだった。しかしHさんの『それは当たり前ですかねぇ』という言葉を聞いてハッとした。

『その社員、Hさんに対する態度以外は、普通なんですか?』
『え?。。。。う~んまぁ、ちょこちょこはあるけど、大きな問題ってわけではないですが。』

『さっき、当たり前って言いましたけど、そこじゃないですかね。』
『何がですか?』
『やって当たり前、できて当たり前って、上司にとってはそうかも知れませんが、その女子社員も含めた部下にとっては、そうではないかも知れないですよ。Hさんは今、部下がたくさんいると思いますが、逆に自分が部下の立場だった時ってどうでしたか?』ちょっと口調を強める僕。

『あ~~~ぁ、はいはい、内海さんの言いたいことは確かに分かりますね。』そう言いながら、なんとも自然な笑顔を見せるHさんが印象的だった。過去の自分を思い出したのだろうか。

『内海さん、よくそういうことまで考えられますね。』とHさん。しかしそれはとんでもない誤解だ。僕だってHさんの『当たり前』という言葉を聞いてハッとして、自分がまったくそんなことを考えていなかったことにヒヤッとしたのだから。無責任な話だったかも知れない。

 人間、その気になれば他人の欠点を見つけることなどたやすいことだ。ほとんどは当たり前で、普通にしているのに、1つ自分が気になることがあるだけで、『あの人は、◯◯がダメだ』と、ごく一部の悪い部分だけを膨らまして評価しがちではないだろうか。普通だからこそ、当たり前だからこそ、そのことについては何も感じなくなってしまう。

  そうではなく、その人の大部分をしめる『あたりまえ』に対してこそ、無になってはいけないのではないだろうか。『無』や『中立』は、自分は他人へ何も影響を与えていないつもりでも、他人からすればそうではないことだってある。

 仕事での上司と部下、家庭での親子や夫婦、交友に至るまで、すべてに同じことが当てはまりそうだ。 当たり前だから何も言わないのではなく、そこに気づき感謝したり喜んだり。そしてそれを表現しなくては。中立的な『無』は、相手にとっては自分に感心がない無視の『無』となるかも知れない。

『Hさん、上司って中立的な立場をとることが必要なようなように感じる時もあるけど間違っていたかもです。常にポジティブな投げかけができるかどうか?それこそが大事な役割かもですね。』

『普通の部分に着目ですね。』とHさんが、まぁやってみるかといった感じで鼻から強く息をもらした。しかし表情は少し自信がありそうに僕には映った。さすがだ、ここに書いたようなことを説明しなくても話が早い、通じていた。

 自分を自己評価したらどうだろう。僕は【短所:長所:普通=1:1:8】くらいかな。いや、短所は長所の倍の2かな。謙遜じゃ無しに。相手の大部分を占める普通ではなく、せいぜい1か2程度の欠点や長所を拡大してみているようでは、悪化した関係を改善することは容易ではないかもしれない。

 僕も大いに考えなくてはならないところがありそうだ。Hさんの一言で、大事なことに気づかせていただいた。手が止まっていたビールを飲み干して、小刻みに頷きながらそんなことを思った。



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