前回のブログで大人と子供の関係について、一冊の絵本から感じたことをご紹介したところ、やはりそういったことに熱心だったり、悩んでいらしゃる方から、いくつかご感想やご質問をいただきました。ありがとうございました。
子供が変わったのではなく、大人である親や学校の先生が変わった時に、子供が成長した。ということで締めくくりましたが、この部分について考えさせられたというお声が多かった。僕はあくまであの絵本から感じたことを感想文的な気持で書いたつもりでしたが、現実的に受け止めて下さった方も結構いたということだと感じました。
そして今回いただいたメッセージの中で最も多かったのが、叱っても叱っても主人公である『ぼく』は全く変わらなかったのだから、叱ることの効果がなかった、という部分に対してのご感想。
『でも、叱ることはやっぱり必要』『叱らなかったら、それがいけいないことだということを学ばないのでは?』といった内容。確かにこれはその通りですよね。叱らないで育てることなんて出来るのかな、と僕も思います。
叱ること以上に効果があることはなにか?と聞かれても、とてもとても僕なんかはそれを語れるような人間ではありません。そこでアドラー心理学に基づいた考えをお伝えしたいと思います。
フロイトやユングと並んで心理学の巨匠と称されるアルフレッド・アドラーとその後継者によって構築され、特に育児や教育という分野で大きな発展を遂げた『アドラー心理学』においては、罰したり、叱ったりすることを否定している。
アドラー心理学をわかりやすく解説している本、『アドラー心理学入門』によれば子供に恥をかかせたり、面目を失わせたりすることで、行動を改善するよう影響を及ぼすことができると、決して信じてはならない。そういった効果は一時的な効果でしかなく、叱る人がいなければ不適切な行動をとるだろうし、不適切な行動はしないまでも、積極的に適切な行動をしなくなることもある。ということだ。
また親が叱るということは、子供の問題行動に『負の注目』を与えることになり、その問題行動を助長する原因になったり、関係を悪化させることにつながるという。人は叱られるよりは、まず認めらる、褒められるという『正の注目』を得たいと思う方が普通だ。しかしそれが得られないのならば、無視されるよりは『負の注目』を得ようと、わざと不適切な行動をとるというのだ。
よく『愛情があるから叱る』と言うが、これは確かにその通りで、最も辛いのは無視されることだ。『正の注目』が得られないなら、せめて『負の注目』を得ようとしてしまうということだ。無視に比べれば、叱られることの方が愛情によっぽど近い。
当然ながら不適切な行動に対して『正の注目』を与えることは無意味。例えば公共の騒いではいけないような場所で、子供がはしゃぎ回る。よくある光景ですよね。そこで厳しく叱りつける親もいれば、反対に叱らずに、にこやかな表情で『ダメだよ~、そんなことしたら怒られるよ。ちゃんと言うこと聞いてね~』と言う親もいる。
すると走り回っていた子供が親の元へ駆け寄ってきて、親を叩いたり大声で何かを話しかけ続けたりして、『どうしたの~?しょうがないね~』と、やはり笑いながら子供を見ている。口では注意しているが、態度はその逆。
叱らずに諭したいという気持もあるかもしれないが、これは不適切な行動に対して『正の注目』を与える行為であり、子供の行動が改まることは期待できない。
またアドラー心理学では上下関係ではなく、対等な横の関係を重視していることから、叱るという行為は上下を作ることになるし、上記の親のように、にこやかに諭そうとするのも一種の上下関係とも考えられる。
では、どうすればいいのか?アドラー心理学では、不適切な行動を改めさせようとするのではなく、適切な行動にスポットライトを当てる、つまり『正の注目』を与えることが必要だという。適切な行動によって注目を得られれば、不適切な行動をしてまで注目を得ようとしなくなっていく。それによって不適切な行動を減らしていけると考えるのです。
では適切な行動とは何かというと、それは『普通であること』です。どんなにやんちゃでワガママな子供だって、1日中不適切な行動ばかりしているというわけではない。良いことをしているわけでも、悪いことをしているわけでもない、普通の時がありますよね。そこに注目するのです。
いい子だと思われたくて褒められるようなことをしなくても、悪いことをして叱られるようなことをしなくても、『普通のあなたがいいんだよ』ということを教えてあげるということでしょうか。子供は親から注目されていたいでしょうから、そのためには良いことにせよ、悪いことにせよ、特別目立つことをしないと親の注目を得られないのではなく、普通でいることで注目が得られるんだということを知るようになればいい。アドラー心理学ではこれを『普通であることの勇気』という表現をしている。
先の、はしゃぎ回る子供の例が、お母さんとスーパーに買い物に来た時だとしたならば、はしゃぐ前に『あ、今日は大人しく一緒についてきてくれて助かるなぁ。おかげでちゃんと買い物ができて、お母さん嬉しいな、ありがとうね!』と認めてあげる。
大事なのは褒めるのではないといこと。『いいこだねぇ、立派だね』とか『よく出来たね』といういう言葉は上下関係を作ることになり、『親が期待している結果をださなければ』と思うようになり、そうでないと注目してもらいえないということにもなる。
先ほどの、はしゃぐ前の言葉では、まず『大人しいね』と事実を言う。それに対して『嬉しいな』と自分の主観を伝える。そして『ありがとう』と感謝する。子供が走り回って手を焼くことなく、一緒に仲良く普通に買い物出来ることは、事実嬉しいなのだから嘘にもならない。
僕ら大人は、子供が不適切な行動をとった時に叱ったり、良いことをした時に褒めたりするが、普通にしている当たり前の状態も嬉しいし、安心できるということを見逃していることが多いのではないだろうか。
まぁ、もちろんその前に子供が不適切な行動をしてしまうこともあるから、やはり、叱るという『負の注目』を与えなくてはいけない時もあると思います。しかしそれは出来るだけ短く切り上げたり、それだけになってしまわないように気をつけつつ、
『普通であることに正の注目を与える』
ことを少しずつでも増やしていければよいのではないでしょうか。これが唯一の正しい考え方などというつもりはもちろんありませんし、考え方の1つとして僕が知っていることをお答えさせていただきました。
僕はアドラー心理学を知り、勉強しはじめてまだ日が浅いし、本を数冊ばかり読んだ程度ですので、もし間違った解釈に気づいたり、ご指摘があった場合には、このブログ上で訂正させていただきたいと思います。
最後に文中にできてきた、当たり前の状態である『普通であることの勇気』について、このブログを書くにあたって参考にさせていたもらった本、『アドラー心理学入門(著者:岸見一郎氏)』の本文を引用させていただき終わりにしたい。
~以下引用~
褒めるのと違って、すなわち、評価するのではなく、喜びを共有すること、自分の気持を伝えることは勇気づけになります。当たり前だと思って見逃しがちな行為に対して「ありがとう」とか、「うれしい」とか「助かった」といってみます。
(中略)
このような言葉は気恥ずかしくてなかなかかけられないという人は多いです。ありがとうといおうとしたら顔が引きつるという人もいます。しかしその気恥ずかしさはまず自分が克服するのだ、と考えたいのです。
~引用終わり~
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