違憲判断
ちょっと遅くなったけど。
イラクでの空自の活動に対して、高裁で違憲判断が出された。きわめてまっとうな判決で、歓迎したい。
『朝日』の記事 (4/17 20:44)によると、要点は以下のようになっている。
さらに「多国籍軍の武装兵員を戦闘地域であるバグダッドに空輸する」と、戦闘地域での活動であると明言している。小泉が吐いた「自衛隊のいるところが非戦闘地域」という迷言を、これも明確に否定した。
いつごろからか、政府の話す言葉から論理がどんどん消えだしているように感じる。答弁において、本音はともかく、建前上は法にのっとり、自由と民主主義の共通認識にのっとり、論理を構築していたと思う。無論、無理矢理な論理も当然多く、事実を捻じ曲げたり、故意に無視したり、強引な解釈を散りばめたりと無茶苦茶をやってはいた。しかし、それでも形式的にでも論理を積み上げることを尊重していたような気がする。
小泉のように屁理屈以下の理屈で強引に物事をすすめ、それを「なんとなく」良いものと勘違いして熱狂的に支持する人々がいる。安部、福田と首相は変わり、どこに重点を置くかも一見変わったが、一皮めくれば本質は同じだ。うわべに惑わされないようにしたい。
イラクでの空自の活動に対して、高裁で違憲判断が出された。きわめてまっとうな判決で、歓迎したい。
『朝日』の記事 (4/17 20:44)によると、要点は以下のようになっている。
判決はまず、現在のイラク情勢について検討。「イラク国内での戦闘は、実質的には03年3月当初のイラク攻撃の延長で、多国籍軍対武装勢力の国際的な戦闘だ」と指摘した。特にバグダッドについて「まさに国際的な武力紛争の一環として行われている人を殺傷し物を破壊する行為が現に行われている地域」として、イラク復興支援特別措置法の「戦闘地域」に該当すると認定した。「補給活動も戦闘行為の重要な要素」というのは、以前から強く言われていたこと。政府はこれを「後方支援だから戦闘行為ではない」と強弁してきたが、明確にこれは否定された。
そのうえで、「現代戦において輸送等の補給活動も戦闘行為の重要な要素だ」と述べ、空自の活動のうち「少なくとも多国籍軍の武装兵員を戦闘地域であるバグダッドに空輸するものは、他国による武力行使と一体化した行動で、自らも武力の行使を行ったとの評価を受けざるを得ない」と判断。「武力行使を禁じたイラク特措法に違反し、憲法9条に違反する活動を含んでいる」とした。
さらに判決は、原告側が請求の根拠として主張した「平和的生存権」についても言及。「9条に違反するような国の行為、すなわち戦争の遂行などによって個人の生命、自由が侵害される場合や、戦争への加担・協力を強制される場合には、その違憲行為の差し止め請求や損害賠償請求などの方法により裁判所に救済を求めることができる場合がある」との見解を示し、平和的生存権には具体的権利性があると判示した。
さらに「多国籍軍の武装兵員を戦闘地域であるバグダッドに空輸する」と、戦闘地域での活動であると明言している。小泉が吐いた「自衛隊のいるところが非戦闘地域」という迷言を、これも明確に否定した。
いつごろからか、政府の話す言葉から論理がどんどん消えだしているように感じる。答弁において、本音はともかく、建前上は法にのっとり、自由と民主主義の共通認識にのっとり、論理を構築していたと思う。無論、無理矢理な論理も当然多く、事実を捻じ曲げたり、故意に無視したり、強引な解釈を散りばめたりと無茶苦茶をやってはいた。しかし、それでも形式的にでも論理を積み上げることを尊重していたような気がする。
小泉のように屁理屈以下の理屈で強引に物事をすすめ、それを「なんとなく」良いものと勘違いして熱狂的に支持する人々がいる。安部、福田と首相は変わり、どこに重点を置くかも一見変わったが、一皮めくれば本質は同じだ。うわべに惑わされないようにしたい。
戦後の日本を支えてきた人たち
後期高齢者医療制度(政府は急に「長寿医療制度」などというゴマカシもいいところの名称に変えてきたが)の保険料の天引きが始まったこともあってか、このブログに「後期高齢者」と「扶養家族」のキーワードの組み合わせでこられる方々が急増している(このエントリ
とこのエントリ
で触れた)。切実なのだと思う。こうやって取れるところから金を取り、派遣派遣で労働者を不安定にさせる一方で、大企業には減税し、赤字必至の高速道路やらバカデカイ橋を作ってゼネコンを儲けさすわけだ。
ところで、大槻義彦氏のブログの最新のエントリ「赤城の子守唄」 には感銘を受けた。短いエントリだからぜひ読んで欲しい。大槻氏が検査入院した際、隣の病室にいる80過ぎの末期ガン患者がずっと「赤城の子守唄」のテープをかけていたのだが、夜中に時々唄にまじって「くやしいなあ…」という声が聞こえてきたというのだ。
大槻氏は言う。
こういうのを、「人の道に外れる」というのではなかったか。
そして、「人の道に外れ」た人々が、「もっと道徳教育を!」と叫ぶこの矛盾。
我々が選んでしまったのが、こういう「人の道に外れ」た政府なのだ。直視せねばなるまい。
***
大槻氏についてはニセ科学批判の仕方について色々あるけれども、しかし批判する動機の根底においては、やはりこういう問題意識が共通してあるのではないか。ニセ科学を信じる人が科学と違う部分に魅かれて信じるように、ニセ科学を批判する人も、その多くは科学でないものを科学で言っているからという理由で批判しているのではないのではないか。ニセ科学を信じてしまうことによって人々が被る被害-悪徳商法に限らず、例えば水伝を信じることによる被害のような、曖昧な「被害」も含めて-に心を痛めているからではないのか。
もちろん、ニセ科学が蔓延することで、限られた「パイ」が奪われ本来の科学に割けるリソースが減るという問題は大きい。しかし、それは極論すれば副次的な作用であって、仮にニセ科学が蔓延しようがしまいが科学に割かれるリソースに変化がなくたって、きっとニセ科学を批判すると思う。その上で科学にとってもいいことがあるならばさらに良い、と。
無論、これは私の場合は、ということであって、皆がそうであるとは思わないし、またそうである必要もないと思う。ただ、科学でないからという理由で批判するのであれば、私だっておそらく「と学会」的に生暖かく見つめてニヤニヤ笑って眺めるだけだろう(実際、UFOの写真集や宇宙人の死体写真集なるものとか持ってますが、そういうのを見るときは笑いながら見るわけで)。ニセ科学の批判というのは、それだけでは済まない何かがあるから批判するのだ、と(少なくとも私の場合は)思うのだ。
ところで、大槻義彦氏のブログの最新のエントリ「赤城の子守唄」 には感銘を受けた。短いエントリだからぜひ読んで欲しい。大槻氏が検査入院した際、隣の病室にいる80過ぎの末期ガン患者がずっと「赤城の子守唄」のテープをかけていたのだが、夜中に時々唄にまじって「くやしいなあ…」という声が聞こえてきたというのだ。
大槻氏は言う。
戦争で奪われた青春。奪われた肉親。しかし、彼の人生が台無しにされたのは、この時ばかりではなかった。そして、いま「後期高齢者医療制度」によって、具体的にこの国を支えてきた人々が切り捨てられようとしている。
やがてくる高度経済成長。早朝から深夜まで、雑巾のようにこき使われた。
このような日本の繁栄は戦死者の犠牲のもとに築かれた、と、この国の指導者はうそぶくがそうではなかった。戦死を免れて生き延びた人たちが犠牲になって働いたのだった。
こういうのを、「人の道に外れる」というのではなかったか。
そして、「人の道に外れ」た人々が、「もっと道徳教育を!」と叫ぶこの矛盾。
我々が選んでしまったのが、こういう「人の道に外れ」た政府なのだ。直視せねばなるまい。
***
大槻氏についてはニセ科学批判の仕方について色々あるけれども、しかし批判する動機の根底においては、やはりこういう問題意識が共通してあるのではないか。ニセ科学を信じる人が科学と違う部分に魅かれて信じるように、ニセ科学を批判する人も、その多くは科学でないものを科学で言っているからという理由で批判しているのではないのではないか。ニセ科学を信じてしまうことによって人々が被る被害-悪徳商法に限らず、例えば水伝を信じることによる被害のような、曖昧な「被害」も含めて-に心を痛めているからではないのか。
もちろん、ニセ科学が蔓延することで、限られた「パイ」が奪われ本来の科学に割けるリソースが減るという問題は大きい。しかし、それは極論すれば副次的な作用であって、仮にニセ科学が蔓延しようがしまいが科学に割かれるリソースに変化がなくたって、きっとニセ科学を批判すると思う。その上で科学にとってもいいことがあるならばさらに良い、と。
無論、これは私の場合は、ということであって、皆がそうであるとは思わないし、またそうである必要もないと思う。ただ、科学でないからという理由で批判するのであれば、私だっておそらく「と学会」的に生暖かく見つめてニヤニヤ笑って眺めるだけだろう(実際、UFOの写真集や宇宙人の死体写真集なるものとか持ってますが、そういうのを見るときは笑いながら見るわけで)。ニセ科学の批判というのは、それだけでは済まない何かがあるから批判するのだ、と(少なくとも私の場合は)思うのだ。
ニセ科学の非科学性を指摘することで信者は減るか?
と言えばもちろん減らないだろう。残念ながら。「非科学ですよ」と言って信者が減るならそんな簡単なことはないわけで。もっとも、そうなっちゃうほうがちょっと怖い、という気もする。いずれにしても、そんな能天気な人は、実際にニセ科学を批判している人の中にはそうそういないだろう。
ではなんのために、ニセ科学のうちの非科学に関する部分を批判するのか。
ニセ科学を信じている人にとって、本質的に重要なのはもちろん科学かどうかではなくて、その結論だろう。血液型性格判断を信じる人は、人を単純にカテゴライズしてわかった気になりたいわけだし、マイナスイオン製品に魅かれる人の多くは、理屈はともかく健康に寄与するかもという期待を込めるわけだろう。そして水伝の場合は「良い言葉」を使わせたがったり、表面的でも何でも「愛」や「感謝」という言葉に触れて良い気分になりたいわけだ(もちろん、それはどういうニセ科学かに依存するけれども)。
では、ニセ科学において、科学を装うことの意味は何か、と言えば、それは多くの場合、信じる人にとっての「心の支え」なんだと思う。つまり、「こんな話、信じちゃっていいのかしら」という疑問が心のどこかに湧いたときに、「大丈夫、信じていいんだよ」と言ってくれる存在としての「科学」が重要なのだろう。信じたいものを信じる、のだけれども、どこかで「本当かな?」となったときに「本当だよ」と言ってくれる存在。だから、ニセ科学にとって「科学」であることは本質ではない。深く信じてしまえば、信じたことそれ自体が支えになるだろう。「それは非科学だ」と言われても、「それでもいいもん」となってしまう。
で、そんなことは百も承知で批判しているわけで。
批判することで何を期待しているかといえば、
(1)ニセ科学のケーススタディをすることで、ニセ科学がどういう構造を持ち、どのように人を騙すかのパターンを知ることができる。これによって、別のニセ科学をも見破ることができるようになる。
(2)土台が間違っていることを明確に示すことで、信じそうになっている人に踏みとどまらせる。
(3)批判の声をあちこちで上げることで、ニセ科学が蔓延する土壌を切り崩す。
(4)その他
ということになるだろう(「その他」は他にも多分あるだろうから書いといた)。ちなみに(1)の観点から、導入として色々な事象に対して科学かニセ科学かの○×表みたいなものを作るのが無意味とは思わない。まずは事例を知ることが重要だと思うので。
ニセ科学を批判するより、科学の面白さを伝えるほうが、言うほうだって楽しいに決まっているし、科学それ自体への理解がもっともっと広まって欲しいと思う。しかし、おそらくは、残念ながら科学への理解がどれだけ深まっても、それだけではニセ科学はなくならないと思う。「科学を伝えること」と「ニセ科学を批判すること」は、深く関連してはいるけれど、別個のことだ。より良い世の中のためには、どちらもやらなきゃならないのだと思う。
まあこういうことは今までも散々議論されてきていることなので、特に新しい議論というわけでもないのだけれども、ちょっと整理、ということで。
ではなんのために、ニセ科学のうちの非科学に関する部分を批判するのか。
ニセ科学を信じている人にとって、本質的に重要なのはもちろん科学かどうかではなくて、その結論だろう。血液型性格判断を信じる人は、人を単純にカテゴライズしてわかった気になりたいわけだし、マイナスイオン製品に魅かれる人の多くは、理屈はともかく健康に寄与するかもという期待を込めるわけだろう。そして水伝の場合は「良い言葉」を使わせたがったり、表面的でも何でも「愛」や「感謝」という言葉に触れて良い気分になりたいわけだ(もちろん、それはどういうニセ科学かに依存するけれども)。
では、ニセ科学において、科学を装うことの意味は何か、と言えば、それは多くの場合、信じる人にとっての「心の支え」なんだと思う。つまり、「こんな話、信じちゃっていいのかしら」という疑問が心のどこかに湧いたときに、「大丈夫、信じていいんだよ」と言ってくれる存在としての「科学」が重要なのだろう。信じたいものを信じる、のだけれども、どこかで「本当かな?」となったときに「本当だよ」と言ってくれる存在。だから、ニセ科学にとって「科学」であることは本質ではない。深く信じてしまえば、信じたことそれ自体が支えになるだろう。「それは非科学だ」と言われても、「それでもいいもん」となってしまう。
で、そんなことは百も承知で批判しているわけで。
批判することで何を期待しているかといえば、
(1)ニセ科学のケーススタディをすることで、ニセ科学がどういう構造を持ち、どのように人を騙すかのパターンを知ることができる。これによって、別のニセ科学をも見破ることができるようになる。
(2)土台が間違っていることを明確に示すことで、信じそうになっている人に踏みとどまらせる。
(3)批判の声をあちこちで上げることで、ニセ科学が蔓延する土壌を切り崩す。
(4)その他
ということになるだろう(「その他」は他にも多分あるだろうから書いといた)。ちなみに(1)の観点から、導入として色々な事象に対して科学かニセ科学かの○×表みたいなものを作るのが無意味とは思わない。まずは事例を知ることが重要だと思うので。
ニセ科学を批判するより、科学の面白さを伝えるほうが、言うほうだって楽しいに決まっているし、科学それ自体への理解がもっともっと広まって欲しいと思う。しかし、おそらくは、残念ながら科学への理解がどれだけ深まっても、それだけではニセ科学はなくならないと思う。「科学を伝えること」と「ニセ科学を批判すること」は、深く関連してはいるけれど、別個のことだ。より良い世の中のためには、どちらもやらなきゃならないのだと思う。
まあこういうことは今までも散々議論されてきていることなので、特に新しい議論というわけでもないのだけれども、ちょっと整理、ということで。
「創氏改名」
- 創氏改名―日本の朝鮮支配の中で (岩波新書 新赤版 1118)/水野 直樹
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私が読んだり聴いたりするものは、No Image のものが多いような気がするのは気のせい?(^^;;
それはともかく、創氏改名の実態についてのいい勉強になった。
1940年に行われた創氏改名。それは、「創氏」の部分と「改名」の部分に分けて考えなければならない。日本の支配にとって特に重要視されたのは「創氏」のほうで、端的に言えば、それは朝鮮の人々が伝統的に「姓」でつながれた宗族集団の強い結束のもとにあったのを、(当時の)日本流の「氏」制度に置き換えることが目的であった。つまり、天皇制に基づく支配、「家長」が支配する個々の「家」が天皇に忠誠を誓うという構図にしたい日本政府(特に朝鮮総督府)にとって、血でつながれた宗族集団は支配にとって邪魔であり、解体すべき対象とされたのである。
そこで、形式上は「自発的」に創氏を届け出るということにしながら、実態として様々な強制がなされ、最終的には(法で定められた届出をする6ヶ月間のあと)役所の職員が職権で戸主の姓を氏とした。反発は大きかったが、おそらく1940年という併合後30年が経過し日本支配末期(とはいえあと5年も続くのであるが)という時期であったためか、抵抗は個人レベルに留まったようである。創氏を届け出なかった知事が解任されたり、知事に創氏に反対する旨話したりしたことで逮捕されたり、陰に陽に強制されたようだ(どのように強制されたか、どのような抵抗があったかについては、詳述されている)。
興味深いのが、創氏を押し付けた日本側が、必ずしも一枚岩ではなかったことである。創氏改名への反対が日本国内でも強かったそうである。しかし、その理由は決して民主的なものではない。反対が強かったのは主に警察で、要するに、名前が「日本風」になってしまうと、取締りが難しくなるから、というのである。「内鮮一体」のスローガンのもとで、実態は激しい差別がまかりとおっていたわけだ。
様々な力学の結果、創氏(及び改名)は、あくまでも日本「風」が推奨された。もともと日本にはない氏をつけるように、という強い示唆が与えられたのである。このように、同化政策をすすめつつ、区別可能な氏に留めることで、差別的扱いを続行したのである。
著者は朝鮮での戦時体制構築のための手法を「自発性の強要」と特徴付けているが、これは現代日本でも同じだろう。1988年暮から翌89年にかけて、前天皇が死去する前後、「自粛」がまさに強要されていたことを思い出す。映画「靖国」の自体も同じような側面を見て取ることができる。「自発性の強要」は、日本の支配について語る重要なキーワードかもしれない。
この本執筆の動機のひとつは、2003年の麻生太郎発言、「創氏改名は、朝鮮の人たちが『名字をくれ』と言ったのがそもそもの始まりだ」だそうである。このような見方が実に一面的であることはこの本を読めば納得できる。その一方、当時の宣伝では、当然ながら朝鮮の人々が「自発的に」「喜んで」創氏改名を行ったように描かれている。それを見て育った当時の日本人-いまの年配の人々-にとっては、おそらくそれが「常識」になってしまっているのだろう。南京事件が日本から遠く離れた場所で起こった事件であり、そのため美化された情報を長い間信じ込まされた人々の多く(か一部か)が、戦後になっても(今に至るまで)多くの虐殺・強姦・略奪があったことを認めようとしないのと似ているのかもしれない。朝鮮の人々の、創氏改名に対する抵抗はほとんど報道されなかったのであるから。
根深い問題は、やはり根深くなるだけの理由があるのだとあらためて感じる。
「露点」の定義?
買った↓
で、パラパラ見ていたのだけれども。露点のところでちょっと違和感が。
まず「露点」とは何かを説明しておくと、これは湿度に等価な量で、何度で結露するか、という温度。露点温度とも言う。湿度が高ければちょっと気温が下がってもすぐ結露するし、乾燥していれば相当気温が下がらないと結露しない。
じゃ湿度とは何か、というと、水蒸気圧(気圧のうち水蒸気が作る分圧)がその温度での飽和水蒸気圧の何%か、というもの。飽和水蒸気圧というのは、それ以上水蒸気を詰め込んでも気体でいられずに液体(あるいは固体)になってしまう圧力。理想気体の状態方程式としてPV=nRT(圧力x体積=モル数x気体定数x絶対温度)というのがあったと思うけれども、両辺Vで割れば、P∝ρTとなる(ρは質量密度、kg/m^3とか)。だから、温度が一定ならば、詰め込んだ気体分子の量に比例して圧力は増す。
ちなみに飽和水蒸気圧は温度だけで決まる。これは理想気体の状態方程式という条件に加え「飽和している」という条件が加味されるので、圧力、密度、温度という3つの変数のうち独立なのが1つだけになるからである。
さて、温度Tの関数であるところの飽和水蒸気圧をe_s(T)、水蒸気圧をeとすると、露点温度Tdは e_s(Td)=e という方程式を満たす温度 Td で定義される。つまり、圧力一定で空気の温度を下げたときに、ちょうど飽和に達する(湿度100%になる)温度が露点温度というわけ。
で、上の本の2つめ、第2分野のpp.242-243を見ると、どうも露点温度が e_s(Td)=e ではなくて、飽和水蒸気圧に対応する飽和水蒸気量(密度)をρ_s(T)と置き、水蒸気量をρとしたとき、ρ_s(Td')=ρとなるように定義されているようなのだ(混乱を避けるため、こちらの定義の露点温度をTd'とした)。ちなみにe_s(T)とρ_s(T)は理想気体の状態方程式で移れる。つまり e_s(T)∝ρ_s(T)*T となるはず。
ひょっとしてTd=Td' になるのかとも思ったが、どう考えても Td' < Td になる。直感的には、Td' の定義のほうは圧力ではなくて体積一定(密度一定)で温度を下げていくので、Td(圧力一定の時の露点温度)まで下がったとき、水蒸気圧も下がってしまい、Tdでの飽和水蒸気圧に達していないはずで、もっと温度を下げないと飽和に達しない。つまり、Td'<Td のはず。
p.242の文章自体は問題がないと思うのだけれども(詳しい定義とかは書いてないし)、p.243の図9-1を解釈すると、上で書いたようなρ_s(Td')=ρという露点温度の定義になっているとしか思えないのだ。
うーん、何か勘違いしているかな。
圧力(水蒸気圧)で水蒸気量を考えるのは結構難しいと思うので、飽和水蒸気量(密度)で考えると言うのはアリだとは思うのだけれど。でも、図を描くときは正しいものを描かないといけないと思うのだけどな。
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で、パラパラ見ていたのだけれども。露点のところでちょっと違和感が。
まず「露点」とは何かを説明しておくと、これは湿度に等価な量で、何度で結露するか、という温度。露点温度とも言う。湿度が高ければちょっと気温が下がってもすぐ結露するし、乾燥していれば相当気温が下がらないと結露しない。
じゃ湿度とは何か、というと、水蒸気圧(気圧のうち水蒸気が作る分圧)がその温度での飽和水蒸気圧の何%か、というもの。飽和水蒸気圧というのは、それ以上水蒸気を詰め込んでも気体でいられずに液体(あるいは固体)になってしまう圧力。理想気体の状態方程式としてPV=nRT(圧力x体積=モル数x気体定数x絶対温度)というのがあったと思うけれども、両辺Vで割れば、P∝ρTとなる(ρは質量密度、kg/m^3とか)。だから、温度が一定ならば、詰め込んだ気体分子の量に比例して圧力は増す。
ちなみに飽和水蒸気圧は温度だけで決まる。これは理想気体の状態方程式という条件に加え「飽和している」という条件が加味されるので、圧力、密度、温度という3つの変数のうち独立なのが1つだけになるからである。
さて、温度Tの関数であるところの飽和水蒸気圧をe_s(T)、水蒸気圧をeとすると、露点温度Tdは e_s(Td)=e という方程式を満たす温度 Td で定義される。つまり、圧力一定で空気の温度を下げたときに、ちょうど飽和に達する(湿度100%になる)温度が露点温度というわけ。
で、上の本の2つめ、第2分野のpp.242-243を見ると、どうも露点温度が e_s(Td)=e ではなくて、飽和水蒸気圧に対応する飽和水蒸気量(密度)をρ_s(T)と置き、水蒸気量をρとしたとき、ρ_s(Td')=ρとなるように定義されているようなのだ(混乱を避けるため、こちらの定義の露点温度をTd'とした)。ちなみにe_s(T)とρ_s(T)は理想気体の状態方程式で移れる。つまり e_s(T)∝ρ_s(T)*T となるはず。
ひょっとしてTd=Td' になるのかとも思ったが、どう考えても Td' < Td になる。直感的には、Td' の定義のほうは圧力ではなくて体積一定(密度一定)で温度を下げていくので、Td(圧力一定の時の露点温度)まで下がったとき、水蒸気圧も下がってしまい、Tdでの飽和水蒸気圧に達していないはずで、もっと温度を下げないと飽和に達しない。つまり、Td'<Td のはず。
p.242の文章自体は問題がないと思うのだけれども(詳しい定義とかは書いてないし)、p.243の図9-1を解釈すると、上で書いたようなρ_s(Td')=ρという露点温度の定義になっているとしか思えないのだ。
うーん、何か勘違いしているかな。
圧力(水蒸気圧)で水蒸気量を考えるのは結構難しいと思うので、飽和水蒸気量(密度)で考えると言うのはアリだとは思うのだけれど。でも、図を描くときは正しいものを描かないといけないと思うのだけどな。