江原啓之の書いたこと(1)
江原啓之の『日本のオーラ』ですが、靖国関係以外の部分にもツッコミどころが満載なので、紹介しないのがあまりにも勿体無く^^;;、ご紹介します。
「第二章 主体性欠如世代の親、無垢世代の子ども ―子どもの問題と『物質主義的価値観』」より(こういう書き方が、また現代になんとなく問題を感じていて、しかし深くは考えていない人に訴えるんでしょうねえ)。この章の本題もまた問題点ありまくりなのだが、そこはおいておく。
この章には、「霊」の種類について書いてある。江原が一番危惧しているのは「人霊の自然霊化」であると述べた上で、「少し専門的になります」と断った上で、こう続ける:
で、この章の本題は、人間が物質主義に覆われ、自然霊界に対する感謝の心を忘れ、高級な自然霊はこの世から離れていき、未浄化な低級自然霊ばかりが残ってしまったのだ、と。そして感動や感性に乏しい人の心は、低級な自然霊と感応して、容易に同化してしまう、というわけだ。これが「人霊の自然霊化」の意味だそうだが、要するに、雑誌でよく見るような、三流評論家がテキトーに時代を解釈したものに、「霊」というコトバを被せたものにすぎないのだ、ということは、江原の文章の中身を見ればすぐにわかるだろう。
さて、わけがわからないのが、次の文章。
前世なんかない、ということでいいのですかね。いや、ないんですけどね、そんなものは。
「第二章 主体性欠如世代の親、無垢世代の子ども ―子どもの問題と『物質主義的価値観』」より(こういう書き方が、また現代になんとなく問題を感じていて、しかし深くは考えていない人に訴えるんでしょうねえ)。この章の本題もまた問題点ありまくりなのだが、そこはおいておく。
この章には、「霊」の種類について書いてある。江原が一番危惧しているのは「人霊の自然霊化」であると述べた上で、「少し専門的になります」と断った上で、こう続ける:
この世にはさまざまなたましいが存在します。人間のたましいは「人霊」、犬や猫のたましいは「動物霊」です。では、「自然霊」とは何かと言いますと、この世に姿を持ったことのない霊です。稲荷(狐)、竜神なども自然霊です。狐や竜と言っても、動物ではなく、そのような姿をとって人間の前に現れるエネルギー体と考えていただくといいでしょう。つまり、霊には少なくとも三種類あって、「人霊」「動物霊」「自然霊」である、そして自然霊はこの世に姿を持ったことのない霊で、神もその一つである、と。いや「エネルギー体」って何?とかツッコみたいところではあるのだけれど、そこはおいておく。
「自然霊」にも、高級なものから低級なものまであります。私たちが「神」と呼ぶのは超高級なエネルギー体です。「狐憑き」と呼ばれる霊障で人間を困らせていた狐霊は、低級な自然霊です。この低級な自然霊がいまや日本、いや世界じゅうに増えています。(p.23)
で、この章の本題は、人間が物質主義に覆われ、自然霊界に対する感謝の心を忘れ、高級な自然霊はこの世から離れていき、未浄化な低級自然霊ばかりが残ってしまったのだ、と。そして感動や感性に乏しい人の心は、低級な自然霊と感応して、容易に同化してしまう、というわけだ。これが「人霊の自然霊化」の意味だそうだが、要するに、雑誌でよく見るような、三流評論家がテキトーに時代を解釈したものに、「霊」というコトバを被せたものにすぎないのだ、ということは、江原の文章の中身を見ればすぐにわかるだろう。
さて、わけがわからないのが、次の文章。
人霊と自然霊の違いは、その増え方にあります。人霊は母親がお腹を痛めて子どもを生むことで増えます。そこには情愛といったものが存在します。しかし、自然霊は「分霊」といって、分裂することで増えていきますから、そこには情はありません。いいものはいい、悪いものは悪い、白か黒か、二つに一つといった判断を下すのが特徴です。ええと、あれ?「人霊」って人のたましいなんだよね?「前世」があるってことは、生まれる前から「たましい」があって、それが赤ちゃんだか胎児だかに乗り移るかなんかして、再び「この世」に登場するのが江原の世界観だと思っていたのだけど、「人霊は母親がお腹を痛めて子どもを生むことで増えます」って…。
前世なんかない、ということでいいのですかね。いや、ないんですけどね、そんなものは。
江原啓之と靖国(3)
というわけで、やっと靖国の話が絡んできます。
さて、「死んだら靖国で会おう」ということで亡くなっていった人たちが、「靖国神社に祀られることをスピリチュアル的な意味で捉えていて、神様の元に行くような想いでいたとしたら、やはり靖国神社に祀ってあげなければ、かわいそう」なので、そういう人たちは靖国に「祀られていていいと思います」と述べる。ここには靖国神社の戦争推進「装置」としての役割についてはなんら批判的な文言はないが、そこはおいておく(『靖国問題』高橋哲哉がわかりやすい)。
ところが、同じ祀られるにしても、スピリチュアルの観点からは、その「動機」によって意味が変わるのだそうだ。つまり、「霊的」に靖国が捉えられていればいいのだが、靖国に祀られることが、まるで勲章をもらうかのように捉えられていたら、それは「物質主義的価値観」であり、祀られる意味は減じられると説く(いや、まさにそれも戦争推進「装置」としての重要な役割の一つであると思うのだが)。
で、この話はここで唐突に終わる。「動機」によって祀られる意味の大小が変わるということの意味は語られない。
かわって、A級戦犯の問題が出てくる。
まず、靖国の見解、つまり、分祀しても、もとの霊は靖国にも残り、いなくなるわけではない、というのが紹介される。
それに対し、江原はこう述べる。
ここから話は国際政治になる。おそらく、分祀に反対している人々を説得しようというつもりなのだと推測されるが、その意図はいいとして、ロジックが幼稚すぎる。
もしこうした分祀を実行したら、あるいは首相が靖国参拝を中止したら、中国の「内政干渉」に屈するのではないか、という意見があるが、そうではない、と。中国にも問題がないわけではないが、
江原は、現代中国の言い分は、しかし物質主義的な政治カードと化してきているとした上で、それでも、首相が靖国に行かずに済むならば行かなくてもいいのではないか、と言う。
しかし、どうしても「英霊」に感謝を表す「形式」にこだわりたければどうするか。
「首相公邸に遥拝所を作って、祈りを捧げるというのもひとつの方法だと思います」いやいやいや、明後日の方向というのか想像のナナメ上というのか、とんでもない提案をしてくれるものだ。もちろん、政教分離の問題は江原も指摘しているが、首相公邸は首相の家でもあるのだから、信仰の自由から言っても「我が家」に遥拝所を置くのは問題ないのではないか、と言うのだ。
最後のまとめがまたすごい。
というわけで3回にわたって「靖国」について江原が書いたことを見てきた。
一見してわかるように、その結論は、「分祀すべき」「首相は参拝すべきでない」という穏当なものだ。
しかし、それを導くロジックは無茶苦茶であり、その端々から漏れる江原の理解は実に浅薄なものだ。
これが、江原が心底そう思って、たんに本人が無茶苦茶だから無茶苦茶なロジックを展開してしまったのか、そういう結論にしておけば、「ロハスな人々(笑)」に市場を拡げられるかも、というマーケティング戦略なのかはわからない。しかしいずれにしても、この人は戦争についてもっと勉強したほうがいい。
連休中に押入れ整理していて出てきたので、その意味も込めて、水木しげるの「総員玉砕せよ!」を挙げておく。あのような形(すいません読んでください)で「自決」に追い込まれた兵士たちも大勢いたのである。そのような人々についてまで、オーラだの「たましい」だの軽々しく語るのは、私は許せない。
さて、「死んだら靖国で会おう」ということで亡くなっていった人たちが、「靖国神社に祀られることをスピリチュアル的な意味で捉えていて、神様の元に行くような想いでいたとしたら、やはり靖国神社に祀ってあげなければ、かわいそう」なので、そういう人たちは靖国に「祀られていていいと思います」と述べる。ここには靖国神社の戦争推進「装置」としての役割についてはなんら批判的な文言はないが、そこはおいておく(『靖国問題』高橋哲哉がわかりやすい)。
ところが、同じ祀られるにしても、スピリチュアルの観点からは、その「動機」によって意味が変わるのだそうだ。つまり、「霊的」に靖国が捉えられていればいいのだが、靖国に祀られることが、まるで勲章をもらうかのように捉えられていたら、それは「物質主義的価値観」であり、祀られる意味は減じられると説く(いや、まさにそれも戦争推進「装置」としての重要な役割の一つであると思うのだが)。
で、この話はここで唐突に終わる。「動機」によって祀られる意味の大小が変わるということの意味は語られない。
かわって、A級戦犯の問題が出てくる。
まず、靖国の見解、つまり、分祀しても、もとの霊は靖国にも残り、いなくなるわけではない、というのが紹介される。
それに対し、江原はこう述べる。
しかし、スピリチュアル的な考えに立てば、分祀は可能です。というのは、靖国神社は、戦争で亡くなった方のたましいと交流、面会する場所です。その観点に立てば、実はお墓と一緒だとも言えるわけです。お墓には遺骨が入っているわけですが、そこにたましいは存在していません。たましいがいるとしたら、生前から「死んだから、たましいは墓にいるのだ」という考え方に執着を持っていた人のたましいぐらいです。ということで、「分祀は可能」だそうである(実際に可能かどうかについては、靖国の教義なりなんなりの問題があるのでおいておくが、祀るということが遺族をはじめとする生き残った人々のためにあるのだとすれば、その人たちの意思を優先してやれよ、とは思う。結局は人間が作ったルールなのだから[靖国の人々はそう思わないんだろうけどね])。
では、お墓とは何かといえば、それはたましいと交信するためのアンテナの役割を果たすものです。(中略)神道の教義や思想がいかなるものであれ、たましいと交信するのであれば、「あなた方のアンテナはこちらですよ」と新しいアンテナに移せばいいだけです。霊的な世界観で言えば、分祀ができないということはありえません。
ここから話は国際政治になる。おそらく、分祀に反対している人々を説得しようというつもりなのだと推測されるが、その意図はいいとして、ロジックが幼稚すぎる。
もしこうした分祀を実行したら、あるいは首相が靖国参拝を中止したら、中国の「内政干渉」に屈するのではないか、という意見があるが、そうではない、と。中国にも問題がないわけではないが、
ただ一つ言えるのは、中国の取る態度は虐待を受けて育った子どものトラウマに似ていると思うのです。だと。無論日本は「虐待」どころではない無茶苦茶を長年東アジアの国々に対し行ってきたのだが、それをマトモに反省しようとせず、隙あらば戦前を賛美し、教育勅語などの戦前体制の象徴のようなものを復活させようとする日本政府に対し、その行動を「トラウマ」とはあまりにもひどくないか。
江原は、現代中国の言い分は、しかし物質主義的な政治カードと化してきているとした上で、それでも、首相が靖国に行かずに済むならば行かなくてもいいのではないか、と言う。
しかし、どうしても「英霊」に感謝を表す「形式」にこだわりたければどうするか。
「首相公邸に遥拝所を作って、祈りを捧げるというのもひとつの方法だと思います」いやいやいや、明後日の方向というのか想像のナナメ上というのか、とんでもない提案をしてくれるものだ。もちろん、政教分離の問題は江原も指摘しているが、首相公邸は首相の家でもあるのだから、信仰の自由から言っても「我が家」に遥拝所を置くのは問題ないのではないか、と言うのだ。
最後のまとめがまたすごい。
このような論議をしている中、はたして英霊たちは今の日本の様子をどう思っているのでしょうか。もし政治家が「英霊たちに感謝を捧げたい」と思うのであれば、日本をよくしていくことが彼らの死に応える行為のはず。親が子を殺し、子が親を殺す。若者が働かずニートになる……そんな国を作るために彼らは命をかけたわけではないからです。いやいやいや、誰がニートにさせてんねん!
というわけで3回にわたって「靖国」について江原が書いたことを見てきた。
一見してわかるように、その結論は、「分祀すべき」「首相は参拝すべきでない」という穏当なものだ。
しかし、それを導くロジックは無茶苦茶であり、その端々から漏れる江原の理解は実に浅薄なものだ。
これが、江原が心底そう思って、たんに本人が無茶苦茶だから無茶苦茶なロジックを展開してしまったのか、そういう結論にしておけば、「ロハスな人々(笑)」に市場を拡げられるかも、というマーケティング戦略なのかはわからない。しかしいずれにしても、この人は戦争についてもっと勉強したほうがいい。
連休中に押入れ整理していて出てきたので、その意味も込めて、水木しげるの「総員玉砕せよ!」を挙げておく。あのような形(すいません読んでください)で「自決」に追い込まれた兵士たちも大勢いたのである。そのような人々についてまで、オーラだの「たましい」だの軽々しく語るのは、私は許せない。
- 靖国問題 (ちくま新書)/高橋 哲哉
- ¥756
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- 総員玉砕せよ! (講談社文庫)/水木 しげる
- ¥700
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江原啓之と靖国(2)
前回
のつづき。
江原啓之『日本のオーラ』の中の、「第六章 靖国問題について ―戦死者の『大我』と参拝者の『動機』」について見てみる。
まず冒頭、次のように語られる:
さて、江原の問題意識は、最初に靖国に祭られている「御霊(みたま)」のうち、「自死」した人々について向けられる。
彼ら・彼女らの行為について、江原はこう結論づける。
ここには多くの問題点があるが、まず「死にたくて死んだのではありません」と言うのであれば、なぜそれでも死なねばならなかったのかを追及すべきだろう。「○○を守るため」あるいは「辱めを受けるくらいなら」という理由が語られているが(実際それを口実に「自死」に追いやられたわけだが)、「~という思想が日本にあったわけです」とまるでそれが自然物であるかのように語るところが罪深い。その思想を植えつけたものの責任、というのがあるわけである。それを抜きに、まるで崇高な動機で自ら死を選んだ、かのように書くのは、つい最近判決の出た「沖縄『集団自決』裁判」の原告側の論理と同じであろう。
ついでに現代人の自殺の多くが「逃げ」であるというのもかなり一方的な決め付けであると思うが、それはここではおいておく。
そして、「実際、私も沖縄に行って、ひめゆり学徒隊が自決した壕も見に行きましたが、未浄化のたましいは視ませんでした」と言う。
沖縄の実態を上のように単純化して、その上で未浄化のたましいは視なかった、などと言うのは、結論先にありき(『自死』は崇高な動機に基づくもの、という)のものでしかない。
***
ちょっと長くなってきたので、続きはまた次回。
あと2,3回は必要な気配。(^^;;
江原啓之『日本のオーラ』の中の、「第六章 靖国問題について ―戦死者の『大我』と参拝者の『動機』」について見てみる。
まず冒頭、次のように語られる:
終戦記念日が近くになってきますと、毎年首相や国務大臣の靖国参拝が論議を呼びます。この靖国神社に関する問題について、スピリチュアルに見た場合に、どのような解釈ができるかを語ってみましょう。後でみるように、「スピリチュアルに見た場合」もなにもなく、様々な報道で指摘されていることの折衷案的なものが出てくるだけなのであるが、とにもかくにも社会問題について目を向けようという姿勢だけは評価する、と言っておく。
さて、江原の問題意識は、最初に靖国に祭られている「御霊(みたま)」のうち、「自死」した人々について向けられる。
(祭神として祀られている)その中には、自死した方も数多くおられます。私は「自殺してはいけない」と主張しています。一概には言えないのですが、自殺したたましいは、幽現界をさまようことが多く、なかなか浄化することができません。では、戦争において自決を選んだたましいも浄化されないのでしょうか。この後、自死、自決でなくなった方々の例として、神風特攻隊や人間魚雷の乗組員だけでなく、「ひめゆり学徒隊」の話が簡潔に述べられる。そして、その中には、集団自決した人たちもいた、と。また、「樺太で電話交換手だった九名の女性が祀られて」いるとして、彼女らは日本の降伏後、ソ連軍が攻撃してくる中、最後まで日本と連絡を取り続け、最後に自決した、と書く。
彼ら・彼女らの行為について、江原はこう結論づける。
こうして亡くなった方々については、「自殺」であるとは、言えません。自ら命を絶つ行為は同じであっても、たましいの視点でみたときに大切なのは、「動機」だからです。そして、亡くなったたましいが浄化できるかどうかは、どれだけ現世に執着を持つかによるのである、と述べている。
現代人の自殺の「動機」の多くは、苦難からの「逃げ」であることが多いのではないでしょうか。しかし、先の特攻隊やひめゆり学徒隊の人たちは、死にたくて死んだのではありません。特攻隊であれば「国を守るため」「家族を守るため」に死んでいったわけですし、ひめゆり学徒隊であれば「辱めを受けるぐらいだったら、自ら命を絶つ」という思想が日本にあったわけです。その時代的な背景の中で死なざるを得なかったのと、「自殺」とではまるで意味が違います。
ここには多くの問題点があるが、まず「死にたくて死んだのではありません」と言うのであれば、なぜそれでも死なねばならなかったのかを追及すべきだろう。「○○を守るため」あるいは「辱めを受けるくらいなら」という理由が語られているが(実際それを口実に「自死」に追いやられたわけだが)、「~という思想が日本にあったわけです」とまるでそれが自然物であるかのように語るところが罪深い。その思想を植えつけたものの責任、というのがあるわけである。それを抜きに、まるで崇高な動機で自ら死を選んだ、かのように書くのは、つい最近判決の出た「沖縄『集団自決』裁判」の原告側の論理と同じであろう。
ついでに現代人の自殺の多くが「逃げ」であるというのもかなり一方的な決め付けであると思うが、それはここではおいておく。
そして、「実際、私も沖縄に行って、ひめゆり学徒隊が自決した壕も見に行きましたが、未浄化のたましいは視ませんでした」と言う。
沖縄の実態を上のように単純化して、その上で未浄化のたましいは視なかった、などと言うのは、結論先にありき(『自死』は崇高な動機に基づくもの、という)のものでしかない。
***
ちょっと長くなってきたので、続きはまた次回。
あと2,3回は必要な気配。(^^;;
江原啓之と靖国(1)
先週ぐらいだったか、たまたま古本屋で江原啓之の「日本のオーラ 天国からの視点」を見つけてパラパラとめくってみたところ、その中に「靖国問題について 戦死者の『大我』と参拝者の『動機』」という章があったので、興味を持ってしまい仕方なく購入した(730円もしたよ!)。
なんで興味を持ったかというと、勿論、私自身がもともとそういう社会問題に興味を持っていた(映画『靖国』の件もあるし)というのもあるのだが、それよりも、江原が自分の土俵ではないところ、しかも長年の議論が蓄積されている「靖国」という問題にどのように向き合うのかを見れば、より江原の思想の本質が見えるのではないか、という思いがあったというのが大きい。スピリチュアルの土俵内で語られても、いくらでも逃げられてしまうからね。
ところが色々と忙しくて読めてないもんで、エントリを上げられなかったのです。しかしこのままズルズルと先延ばしするより、少しでも書き始めようということで、ちょっとだけ書きます。憲法記念日だし。もう日付変わるけど。
たぶん、2,3回ぐらいに分けて書くことになると思います。
で中身に入る前に、どうしてもふれておきたいことがあるので、今回は先にそちらについて書く。
「第一章 どんなことが起きても生きていく力 ホリエモンと『八つの法則』」という章の冒頭である(ホリエモンについてはここでは触れない)。
なにが言いたいかというと、まあここでこれに絡めていう必要もないのだが、この本の冒頭にあるから触れてみるということなのだが(我ながらクドイな^^;;)、ポルターガイストの話である。
「スピリチュアリズム」、あるいは「心霊主義」の勃興に大きく寄与したのが、1848年ニューヨーク州ハイズビルでフォックス一家に起きた事件である(なお、江原の本では「ハイズビュー」となっているが、綴りは Hydesville なので、ハイズビルと書くべきだろう。ネイティブの発音を聞くとおそらくハイズビューのように聴こえるのだろうけど、日本人はなかなかL(エル)の音が聞き分けられないのでまあ仕方ないといえば仕方ない)。
その年の前年に越してきたフォックス家では、その家にまつわる悪い噂を迷信深い母親が聞きつけてから、ラップ音がするようになった。また、娘たちがラップ音と「対話」し、死体が地下室に埋められていると言ったから大騒ぎになったが、掘っても死体は出ず、人間の髪らしいものと、人のものかよくわからない骨が数本出ただけであったという。 また、ラップ音自体も、娘たちが関節を鳴らしていただけであったようである。
しかし、長女が「交霊会」を開くようになり、一家は大もうけしたという。
以上は『霊感・霊能の心理学』(中村希明)によるものであるが、この著者、ブルーバックスから『怪談の科学』なども出していて、なかなか面白い。
しかし、江原によると、この事件は画期的であったのだという。なぜならば、「それまで霊的現象は非科学的なものとして捉えられていました。しかし、このポルターガイストの事件は、新聞に取り上げられ、騒動になったことで、初めて科学のメスが入ったのです」だからだそうだ。
しかし上に書いたように、メスが入ったおかげで、これが霊的現象などではなく、単なるイタズラであったことが解明されてしまったのだ(なお、江原のこの本によると、地下室を掘り出して出てきたものは、人骨と行商人のカバンであるという。「霊」によれば、殺されたのは行商人である)。
この事件についての詳細は、wikipediaの「フォックス姉妹」 でも見ていただくとして、江原が何と言っているかというと、「ハイズビューで起きた出来事については、例えばラップ音も姉妹が自分たちの骨を鳴らしただけだったのではないかとか、いまだに否定的なことも言われていますが、今となっては検証もできません」である。検証できないのであれば、それが「霊的現象」であるとは言えないはずなので、これをもって霊的現象の存在を言うのは間違っているが、それ以上に、すでに当時からトリックが明かされていたし、むしろいまだに肯定的なことを言えるのが驚きでもあるのだが、一旦信じてしまえばどんなに否定的な結果を聞いても都合よく解釈してしまう好例ということなのだろう。
最後にもう一つだけ、江原の言葉を取り上げる。
なんとなく江原を「いいなあ」と思っている人は、その思想の根幹には、上で述べたような霊魂の概念があることを知っておくべきだろう。一見(あくまでも一見にしか過ぎないが)倫理的に見える発言も、永遠の霊魂という思想があってこそのものなのである。そこを切り離しては、江原の本質は見えてこない。
というわけで、次回、靖国の話に進みます。
なんで興味を持ったかというと、勿論、私自身がもともとそういう社会問題に興味を持っていた(映画『靖国』の件もあるし)というのもあるのだが、それよりも、江原が自分の土俵ではないところ、しかも長年の議論が蓄積されている「靖国」という問題にどのように向き合うのかを見れば、より江原の思想の本質が見えるのではないか、という思いがあったというのが大きい。スピリチュアルの土俵内で語られても、いくらでも逃げられてしまうからね。
ところが色々と忙しくて読めてないもんで、エントリを上げられなかったのです。しかしこのままズルズルと先延ばしするより、少しでも書き始めようということで、ちょっとだけ書きます。憲法記念日だし。もう日付変わるけど。
たぶん、2,3回ぐらいに分けて書くことになると思います。
で中身に入る前に、どうしてもふれておきたいことがあるので、今回は先にそちらについて書く。
「第一章 どんなことが起きても生きていく力 ホリエモンと『八つの法則』」という章の冒頭である(ホリエモンについてはここでは触れない)。
なにが言いたいかというと、まあここでこれに絡めていう必要もないのだが、この本の冒頭にあるから触れてみるということなのだが(我ながらクドイな^^;;)、ポルターガイストの話である。
「スピリチュアリズム」、あるいは「心霊主義」の勃興に大きく寄与したのが、1848年ニューヨーク州ハイズビルでフォックス一家に起きた事件である(なお、江原の本では「ハイズビュー」となっているが、綴りは Hydesville なので、ハイズビルと書くべきだろう。ネイティブの発音を聞くとおそらくハイズビューのように聴こえるのだろうけど、日本人はなかなかL(エル)の音が聞き分けられないのでまあ仕方ないといえば仕方ない)。
その年の前年に越してきたフォックス家では、その家にまつわる悪い噂を迷信深い母親が聞きつけてから、ラップ音がするようになった。また、娘たちがラップ音と「対話」し、死体が地下室に埋められていると言ったから大騒ぎになったが、掘っても死体は出ず、人間の髪らしいものと、人のものかよくわからない骨が数本出ただけであったという。 また、ラップ音自体も、娘たちが関節を鳴らしていただけであったようである。
しかし、長女が「交霊会」を開くようになり、一家は大もうけしたという。
以上は『霊感・霊能の心理学』(中村希明)によるものであるが、この著者、ブルーバックスから『怪談の科学』なども出していて、なかなか面白い。
しかし、江原によると、この事件は画期的であったのだという。なぜならば、「それまで霊的現象は非科学的なものとして捉えられていました。しかし、このポルターガイストの事件は、新聞に取り上げられ、騒動になったことで、初めて科学のメスが入ったのです」だからだそうだ。
しかし上に書いたように、メスが入ったおかげで、これが霊的現象などではなく、単なるイタズラであったことが解明されてしまったのだ(なお、江原のこの本によると、地下室を掘り出して出てきたものは、人骨と行商人のカバンであるという。「霊」によれば、殺されたのは行商人である)。
この事件についての詳細は、wikipediaの「フォックス姉妹」 でも見ていただくとして、江原が何と言っているかというと、「ハイズビューで起きた出来事については、例えばラップ音も姉妹が自分たちの骨を鳴らしただけだったのではないかとか、いまだに否定的なことも言われていますが、今となっては検証もできません」である。検証できないのであれば、それが「霊的現象」であるとは言えないはずなので、これをもって霊的現象の存在を言うのは間違っているが、それ以上に、すでに当時からトリックが明かされていたし、むしろいまだに肯定的なことを言えるのが驚きでもあるのだが、一旦信じてしまえばどんなに否定的な結果を聞いても都合よく解釈してしまう好例ということなのだろう。
最後にもう一つだけ、江原の言葉を取り上げる。
こうしたスピリチュアリズムの根幹を表しているのが、英国スピリチュアリスト連盟の七大綱領と言われているものです。この綱領に沿って生きているのが、スピリチュアリストです。七大綱領の一番元にあるのは、私が言うところの「霊魂の法則」、つまり人間の霊魂は永遠であるということなのです。私がテレビに出演すると、いろんな方から反響がありますが、以前ご年配の方から「せっかくいいことを言っているのだから、霊のことを言うのはやめなさい」というご意見をいただいたことがありました(笑)。しかし、霊魂が永遠であることを除いてしまったら、倫理を論ずることと何の変わりもありません。ここだけは絶対に譲ることができないところです。つまり、霊魂というものが、「魔法的とか呪術的なもの」ではない、おそらく科学的と言いたいのであろうが、そういうものとして江原の思想は組み立てられているということである。
スピリチュアリズムについて私がお願いしたいのは、魔法的とか呪術的なものとは誤解して欲しくないこと。そして、ただ「たましいは永遠である」ことを何となくでもいいから、感じていただければ充分であるということです。
なんとなく江原を「いいなあ」と思っている人は、その思想の根幹には、上で述べたような霊魂の概念があることを知っておくべきだろう。一見(あくまでも一見にしか過ぎないが)倫理的に見える発言も、永遠の霊魂という思想があってこそのものなのである。そこを切り離しては、江原の本質は見えてこない。
というわけで、次回、靖国の話に進みます。
憲法9条と911陰謀論
kikulogのエントリ「憲法9条と911陰謀論、または安斎先生はどう考えておられるのだろう」
を見て、一言だけでも書いておこうと思ったので書きます。
私は憲法第9条は維持すべきであると考えています。
そして、「911陰謀論」(ここでは、911テロはアメリカの自作自演である、的な陰謀論に限定しています)を、9条改悪に反対する運動に持ち込むのには反対です(ちょっとまわりくどい書き方てすみません)。
「911陰謀論」を信じている人でも9条改悪には反対してほしい。
でも、それは「911陰謀論」を受容するのとは違います。むしろ、陰謀論は9条を護るのには悪影響すら与えかねない。荒唐無稽な「911陰謀論」は否定されるべきものでしょう。
だから、多様な意見を持っている人が「9条護れ」の一点で集まっている場では、「911陰謀論」は持ち出さないで欲しい。そして、たぶん、陰謀論の蔓延に反対している人は、そういう場では「911陰謀論」について何かを言うことはないと思います。
言論の自由はあるので、陰謀論について言うな、と言うわけではない。もちろん、言うからには批判されるのは当然覚悟して欲しいと思うわけですが。9条護れで集まっている人に向かって、わざわざ分断するような発言をするな、と言いたいのです。
「911陰謀論」について主張したり議論したりしたければ、それにふさわしい「場」があるはずです。
私は「911陰謀論」にも反対しています。だから、陰謀論に与する人は少しでも減ってくれると嬉しい。だけど、それはそれとして、少なくとも、「場」をわきまえて発言してくれ、と言いたいのです。
***
色々考えてたことがあったのですが、幸い、『digital ひえたろう』で書こうと思っていたことに深く関連するエントリが上がっていたので、そちらにコメントという形で書かせてもらいました(長文ですいません>管理人さん。どうもありがとうございます)。リンクをはっておきますので、読んで頂けると幸いです。エントリともども、重要な論点だと思っていますので。
→「9条護憲派はオトモダチごっこを早く卒業しないと」
私は憲法第9条は維持すべきであると考えています。
そして、「911陰謀論」(ここでは、911テロはアメリカの自作自演である、的な陰謀論に限定しています)を、9条改悪に反対する運動に持ち込むのには反対です(ちょっとまわりくどい書き方てすみません)。
「911陰謀論」を信じている人でも9条改悪には反対してほしい。
でも、それは「911陰謀論」を受容するのとは違います。むしろ、陰謀論は9条を護るのには悪影響すら与えかねない。荒唐無稽な「911陰謀論」は否定されるべきものでしょう。
だから、多様な意見を持っている人が「9条護れ」の一点で集まっている場では、「911陰謀論」は持ち出さないで欲しい。そして、たぶん、陰謀論の蔓延に反対している人は、そういう場では「911陰謀論」について何かを言うことはないと思います。
言論の自由はあるので、陰謀論について言うな、と言うわけではない。もちろん、言うからには批判されるのは当然覚悟して欲しいと思うわけですが。9条護れで集まっている人に向かって、わざわざ分断するような発言をするな、と言いたいのです。
「911陰謀論」について主張したり議論したりしたければ、それにふさわしい「場」があるはずです。
私は「911陰謀論」にも反対しています。だから、陰謀論に与する人は少しでも減ってくれると嬉しい。だけど、それはそれとして、少なくとも、「場」をわきまえて発言してくれ、と言いたいのです。
***
色々考えてたことがあったのですが、幸い、『digital ひえたろう』で書こうと思っていたことに深く関連するエントリが上がっていたので、そちらにコメントという形で書かせてもらいました(長文ですいません>管理人さん。どうもありがとうございます)。リンクをはっておきますので、読んで頂けると幸いです。エントリともども、重要な論点だと思っていますので。
→「9条護憲派はオトモダチごっこを早く卒業しないと」