クローンの人格
前回紹介した大槻さんの著書「子供は理系にせよ!」の中で、一つ気になった部分について(この本の本題とは無関係)。
臓器移植などの科学(医学)がいかに進歩しているかを述べた後、次のように大槻さんは言っている。
すると、新しい脳にも直前までの自分の脳の状態がコピーされているので、コピーされ活動を開始した瞬間に、それまでの経験をすべて持った脳が出来上がることになる。まるで世界5分前仮説 みたいだけど。
となると、その新しい脳では、「新しい人格」が誕生するはずだ。なぜなら、コピー元の自分の人格はそのままなのだから。
というわけで、脳を取り替えるということは、単に自分の脳細胞が若返ると言うことではなく、「自分」は死ぬが、「自分と同じ記憶を持ったコピー」が生き続ける、ということになるはずなのだ。
だから、脳を取り替えることは、不老長寿になることを(ストレートには)意味しない。
パソコンを新しく取り替えるときも、古いパソコンのデータを新しいパソコンに移し換えるように…とたとえ話も、これだって古いパソコンは古いパソコンとしてそのままいき続けるわけだ。
結局、「意識は脳の働きの産物」という立場を取るならば、脳を取り替えて若返ると言うことは不可能なはずだ。それがもし可能というのであれば、それは逆に霊魂のような意識を司る物質的存在があることを暗に認めていることになる。霊魂を移し変えることによって、自分の意識も新しい脳に移る、というわけ。
しかし、脳の機能によって意識が産出されているとすると、新しい脳にいくら古い脳のデータを移しても、それは新しい脳で古いデータを基盤にして新しい意識が生じるだけで、それはもはや「自分」ではない。
ただし、ドライに考えれば、たとえ自分が死んでも、自分とまったく同じものが行き続けるのであれば、それで良しとする立場もあるのかもしれない。でも、これって、世の中における自分の位置、というものを保存したい、という発想でしかないような気がする。自分の影響力を世の中に残したい、ということだから。
まあ大槻さんがどう思っていようと関係ないし、このあたりはSFなりなんなりのテーマとして古典的なものだろうから、考えてる人はいっぱいいるでしょう、きっと。ちょっと気になったので、あえて書いてみた。
ちなみにクローン人間については、ルパン三世の劇場用映画「ルパンVS複製人間」のマモー!ミモー!じゃなくて、マモーの劣化コピーの人格がいい味を出していましたね。マモーの本家(というのかわからんが)がどうやって意識を継続させていたのかはわかりませんが。
ついでに、自分の影響力を残したいと言う欲望の醜悪さについては、銀河鉄道999の中の話、「交響詩『魔女の竪琴』」が秀逸でした。
臓器移植などの科学(医学)がいかに進歩しているかを述べた後、次のように大槻さんは言っている。
かくして近い将来、脳すら入れ替えることができるかもしれない。そのときになって、心や人格、あるいは記憶などは新しい脳でどうするのか?脳のメカニズムがまだよくわからないし、意識が古典力学的な決定論に支配されているのか量子論的な確率論に支配されているのかもわからないので(なお波動関数の時間発展と言う意味では、量子論も決定論的である)「すべての情報」を移し換えるのが可能なのかどうかはわからないが、仮に可能だとしよう。
もちろん脳という臓器を新しくしただけではダメなのだから、脳にしまいこんだすべての情報を新しい脳に送りこまねばならない。たぶん、これも可能になるだろう。コンピューターを新しくしたとき、すべての情報を古いほうから移し換えるように。(p.62)
すると、新しい脳にも直前までの自分の脳の状態がコピーされているので、コピーされ活動を開始した瞬間に、それまでの経験をすべて持った脳が出来上がることになる。まるで世界5分前仮説 みたいだけど。
となると、その新しい脳では、「新しい人格」が誕生するはずだ。なぜなら、コピー元の自分の人格はそのままなのだから。
というわけで、脳を取り替えるということは、単に自分の脳細胞が若返ると言うことではなく、「自分」は死ぬが、「自分と同じ記憶を持ったコピー」が生き続ける、ということになるはずなのだ。
だから、脳を取り替えることは、不老長寿になることを(ストレートには)意味しない。
パソコンを新しく取り替えるときも、古いパソコンのデータを新しいパソコンに移し換えるように…とたとえ話も、これだって古いパソコンは古いパソコンとしてそのままいき続けるわけだ。
結局、「意識は脳の働きの産物」という立場を取るならば、脳を取り替えて若返ると言うことは不可能なはずだ。それがもし可能というのであれば、それは逆に霊魂のような意識を司る物質的存在があることを暗に認めていることになる。霊魂を移し変えることによって、自分の意識も新しい脳に移る、というわけ。
しかし、脳の機能によって意識が産出されているとすると、新しい脳にいくら古い脳のデータを移しても、それは新しい脳で古いデータを基盤にして新しい意識が生じるだけで、それはもはや「自分」ではない。
ただし、ドライに考えれば、たとえ自分が死んでも、自分とまったく同じものが行き続けるのであれば、それで良しとする立場もあるのかもしれない。でも、これって、世の中における自分の位置、というものを保存したい、という発想でしかないような気がする。自分の影響力を世の中に残したい、ということだから。
まあ大槻さんがどう思っていようと関係ないし、このあたりはSFなりなんなりのテーマとして古典的なものだろうから、考えてる人はいっぱいいるでしょう、きっと。ちょっと気になったので、あえて書いてみた。
ちなみにクローン人間については、ルパン三世の劇場用映画「ルパンVS複製人間」のマモー!ミモー!じゃなくて、マモーの劣化コピーの人格がいい味を出していましたね。マモーの本家(というのかわからんが)がどうやって意識を継続させていたのかはわかりませんが。
ついでに、自分の影響力を残したいと言う欲望の醜悪さについては、銀河鉄道999の中の話、「交響詩『魔女の竪琴』」が秀逸でした。
自衛隊100周年!?(追記あり)
陸上自衛隊の第三三普通科連隊が、創設100周年記念ということで銃を携え市中行進したそうだ。
→『赤旗』の記事
銃を持ったまま街中を歩くこと自体とんでもないが、それはここでは置いておく。
100周年だそうですよ、100周年。今年、戦後何年たってましたっけ?自衛隊ができてから何年たってましたっけ?
要するに、旧日本陸軍の歩兵三三連隊が創設してから100年、ということらしい。wikipediaによる第三三普通科連隊の解説 によると、33と言う番号も、旧陸軍から受け継いだものであるようだ。
第33普通科連隊のページ (陸上自衛隊第10師団のページ内 )には「沿革」のページがあるが、そこでも堂々と戦前からの沿革が、いや、むしろ戦前の沿革が語られている。
先般の違憲判決に対し、航空自衛隊の田母神俊雄幕僚長が「そんなの関係ねえ」と言ったというが、自衛隊自身(幹部クラス)に、旧日本軍の体質が染み付いていることの表れと言ってもいいのではないか。
彼らにとっては、敗戦も、民主化も、日本国憲法も「関係ねえ」のであろう。一連の発言・発想は、決して枝葉末節ではない。本質はディテールに宿る。
(4/29追記)念のため、上記第33普通科連隊の「沿革」ページの魚拓 を取っておいた。
→『赤旗』の記事
銃を持ったまま街中を歩くこと自体とんでもないが、それはここでは置いておく。
100周年だそうですよ、100周年。今年、戦後何年たってましたっけ?自衛隊ができてから何年たってましたっけ?
要するに、旧日本陸軍の歩兵三三連隊が創設してから100年、ということらしい。wikipediaによる第三三普通科連隊の解説 によると、33と言う番号も、旧陸軍から受け継いだものであるようだ。
第33普通科連隊のページ (陸上自衛隊第10師団のページ内 )には「沿革」のページがあるが、そこでも堂々と戦前からの沿革が、いや、むしろ戦前の沿革が語られている。
先般の違憲判決に対し、航空自衛隊の田母神俊雄幕僚長が「そんなの関係ねえ」と言ったというが、自衛隊自身(幹部クラス)に、旧日本軍の体質が染み付いていることの表れと言ってもいいのではないか。
彼らにとっては、敗戦も、民主化も、日本国憲法も「関係ねえ」のであろう。一連の発言・発想は、決して枝葉末節ではない。本質はディテールに宿る。
(4/29追記)念のため、上記第33普通科連隊の「沿革」ページの魚拓 を取っておいた。
「子供は理系にせよ!」
前回のエントリ
で触れた大槻義彦の「江原スピリチュアルの大嘘を暴く」と一緒に購入したもの。
随所に、「さあ、あなたも早く理系に進もう」という文章が(少しアレンジされながら)挟み込まれている。ほとんどサブリミナルだ。
前書きから引用する。
さて、それを踏まえたうえで、基本的に理系の人間である私にとって有益な部分を探してみる。
後半に、大槻氏が学生から集めた膨大なアンケートに基づく「なぜ理系に進んだのか?」というテーマは、考える材料になるだろう。大槻氏による分析自体はそのままでは受け取れないものの、色々示唆するものはある。
私はなるほどと思ったのは、理系に進んだ人は、家族なり親しい親戚、あるいは中学校の理科教師や家庭教師などから、継続して理系の雰囲気にさらされていた場合が多い、ということであった。逆に、単発で科学館や科学イベントに子どもを連れ出しても、その場でどれだけ面白がっても、それだけでは理系を志望する理由にはならなかったそうである。
で、家庭での話はおいといて。問題は学校教育。
大槻氏は、理工系学部の学生にも中学校教師の免許を出しやすくするよう変えるべきだと述べている。私は教育学部での理科教育が現状のままでよいとは全然思わないが、しかし理工系学部の卒業生が、わずかの教職科目(教育原論とか教育心理学とか)で中学校教師になるのはどうかと思う(初等ではなおさらである)。なぜなら、この段階では、まだ人格形成の重要性がとても高いからだ。
自分(とその周囲)を振り返ってみて、残念ながら普通の理工系学部の学生に適性があるとは思えないのだ(もちろん、少数ながらやっていけそうな人は当然いますが)。
ただ、いずれにしても、小中学校での理科、あるいは様々な授業や授業外で語られる言葉の中での自然の奥深さ、理解することの喜び、また技術の論理性やものつくりの楽しさなどが、教師自身が楽しんで語れるようになることが重要なのだと思う。
しかし、学校現場を取り巻く状況は、なかなかそれを許さないだろう。他に対応しなければならないことが山積しているからだ。
教育を改革するというならば、教師自身がじっくり物事を考え、学ぶ喜びを自ら再発見しながら子どもに伝えられる状態を保障するべきだ。単に理科の授業時間を増やせばいいというものではない(現状ではむしろ準備がますますおろそかになって薄い授業にしかならないのではないか)。
とにもかくにも人を増やす、人を大事にする。そういう施策を国には望みたい。
- 子供は理系にせよ! (生活人新書 251)/大槻 義彦
- ¥735
- Amazon.co.jp
随所に、「さあ、あなたも早く理系に進もう」という文章が(少しアレンジされながら)挟み込まれている。ほとんどサブリミナルだ。
前書きから引用する。
なお、はじめにお断りしておかなければならないことがある。それは、本書は文系をこき下ろし、徹底的に理系礼賛、科学至上主義で貫かれている、ということである。「あとがき」は気になる人だけ見てもらえばよいと思うが、「申し訳ありません」を二度も書いている、とだけ言っておこう。
読者の中には、このような思想に反感を持ったり、違和感を感じたりする方々も多いかもしれない。しかし、このような本書の態度は、ある理由があってのことなのである。それについては「あとがき」に釈明めいた説明を付け加えた。
さて、それを踏まえたうえで、基本的に理系の人間である私にとって有益な部分を探してみる。
後半に、大槻氏が学生から集めた膨大なアンケートに基づく「なぜ理系に進んだのか?」というテーマは、考える材料になるだろう。大槻氏による分析自体はそのままでは受け取れないものの、色々示唆するものはある。
私はなるほどと思ったのは、理系に進んだ人は、家族なり親しい親戚、あるいは中学校の理科教師や家庭教師などから、継続して理系の雰囲気にさらされていた場合が多い、ということであった。逆に、単発で科学館や科学イベントに子どもを連れ出しても、その場でどれだけ面白がっても、それだけでは理系を志望する理由にはならなかったそうである。
で、家庭での話はおいといて。問題は学校教育。
大槻氏は、理工系学部の学生にも中学校教師の免許を出しやすくするよう変えるべきだと述べている。私は教育学部での理科教育が現状のままでよいとは全然思わないが、しかし理工系学部の卒業生が、わずかの教職科目(教育原論とか教育心理学とか)で中学校教師になるのはどうかと思う(初等ではなおさらである)。なぜなら、この段階では、まだ人格形成の重要性がとても高いからだ。
自分(とその周囲)を振り返ってみて、残念ながら普通の理工系学部の学生に適性があるとは思えないのだ(もちろん、少数ながらやっていけそうな人は当然いますが)。
ただ、いずれにしても、小中学校での理科、あるいは様々な授業や授業外で語られる言葉の中での自然の奥深さ、理解することの喜び、また技術の論理性やものつくりの楽しさなどが、教師自身が楽しんで語れるようになることが重要なのだと思う。
しかし、学校現場を取り巻く状況は、なかなかそれを許さないだろう。他に対応しなければならないことが山積しているからだ。
教育を改革するというならば、教師自身がじっくり物事を考え、学ぶ喜びを自ら再発見しながら子どもに伝えられる状態を保障するべきだ。単に理科の授業時間を増やせばいいというものではない(現状ではむしろ準備がますますおろそかになって薄い授業にしかならないのではないか)。
とにもかくにも人を増やす、人を大事にする。そういう施策を国には望みたい。
「江原スピリチュアルの大嘘を暴く」
- 読んだ↓(また画像がないよ…)
- 江原スピリチュアルの大嘘を暴く/大槻 義彦
- ¥880
- Amazon.co.jp
ちょっと前に買っておいたこの本、今日一気に読んだ(すぐ読めます)。
まあ大槻さんについては、ニセ科学を批判する側からも色々言いたいことはあるだろうし、この本の論調も、そういう意味では相変わらず、なのだけれども。
この本の形式、どちらかというとQ&A集みたいな感じで、「前世に特別な職業の人物が多いのは何故?」とか「前世の国籍が偏っているのは何故?」のような問いに対し、2,3ページ程度で答を与える、というものになっている。だから、問いの数が70個ぐらいあり、なかにはまあ揚げ足取りのようなものもあると言わざるを得ないだろう。
また、そういう形式だから、江原啓之のスピリチュアルが抱える問題の本質をえぐるというよりも、江原トリビア集的なものになっている面もある。
さて、現代において、多くの人々に科学はトリビアの集積と思われているのではないか、と学習院大の田崎晴明さんは指摘したが(出典がどこかわかりません。すいません)、それと似たような意味で、この本は江原のトリビアの集積であり(勿論、物理学に基づく批判的検討がされたトリビアであるが)、決して江原、あるいは現代社会がなぜ江原を受け入れるか、という本質的な部分を解明するものではない。だから、この本がいくら売れても、江原を信じる人はほぼまったく影響を受けないだろう。残念ながら。
では、どういう人がこの本を読むべきかというと、おそらく次の二種類の人だ。
- 江原について、なんとなく胡散臭く感じてはいるが、どこがおかしいかハッキリ知りたい
- 江原はおかしい、間違っていると思っているが、「そんなものほっとけ」「わざわざ労力かけて批判するほどのこともない」「騙されるやつが悪い」と思っている
江原を信じている人はもちろんだが、なんとなく「いいな」と思っている人、テレビに江原が出てるとついつい見てしまう人を説得する力は、たぶんこの本にはない。
ついでに言えば、kikulog を普段から読んでいるような人にとっては、今さらあまり得るものはないだろう。江原のトリビア集という以上の意味はない。
しかし、それはそれでいいのだと思う。ニセ科学の批判の仕方は一通りではない。例えばTAKESANさんが述べておられる通り、万能包丁 などないのであって、大事なのはこの本の有効な使い方を考えることなのだ。きっと。信じかけている人を説得できるような文章が書ければ、もちろんそういう本も出して欲しい(かなり難しいと思うけど)。でも、いずれにしても、色々なアプローチがあっていい。
もう一つ、この本の意義を挙げるとするならば、やはり江原を正面から批判した本を、流通ルートに乗せて、本屋に並べることに成功したことだろう。週刊誌などでようやく批判が活字になってきたものの、まだまだ江原の影響は大きい。それを覆すには、本の力は有効だ(もっといえば、テレビの力がいる。ネットは大衆への影響という意味ではまだまだ非力であろう)。とにもかくにも、江原を大々的に批判した本が本屋で平積みになっている。そういう本を書けたのは、大槻さんの力量だろう。
グレーゾーン
これもあちこちで話題になってて出遅れた感じですが。漠然と考えていたことを少し。
端的に言えば、科学的命題(安斎育郎『科学と日科学の間』の用法による。「科学的命題」と「価値的命題」)で表しうる言説(論文でも著書でもブログでも)のうち、「科学」であると認定できるもの(科学)、「どうも科学とは言えそうにない」もの(非科学)、「どちらとも言えない」あるいは「科学と言う人と非科学であると言う人がいる」(科学と非科学の間のグレーゾーン)とラベルを貼ることができる。
一方、色々調べた挙句、「これはニセ科学と言ってよい」もの、つまり「ニセ科学」と「認定」して良いものがあって、その反対に「これはニセ科学とは言えない」(非ニセ科学)ものがあり、当然、その中間に「ニセ科学と言ってよいかよくわからないもの」あるいは「ニセ科学という人もいるし、そうではないという人もいる」(グレーゾーン)がある。
以上は単なる形式論なので、これ自体にはたいした意味はない。単に「A」と「非A」、「B」と「非B」に分類して、非とそうでないものの間には明確にどちらと言えない領域がある、というだけなので、これで終わるなら単なる言葉遊びの域を出ない。
で、おそらく重要なのは、最初に述べた「言説」に対し、たとえば「科学度」と「ニセ科学度」を点数化して(たとえば0~1点)、「科学」軸と「ニセ科学軸」を直交させた平面にプロットさせるとどうなるか、ということだろう。おそらく、反相関になるはずである。つまり、科学度が1に近いものはニセ科学度がほぼ0であり(まあ科学を装っているが科学でないものをニセ科学と呼んでいるので半ば定義により、という部分もあるのだけれども)、ニセ科学度が1に近いものは科学度がほぼ0である、と。
ただし、当然、科学度が0でニセ科学度も0というものもあるだろう。要するに、間違って捨てられた言説だ。
ある分野(と言っていいのかよくわからないが)の時系列を追うと、色々なパターンがあるだろう。たとえば血液型性格判断であれば、当初(戦前どころかもっとずっと前)はマジメに研究されていた部分もあったわけで、ニセ科学度がほぼ0で科学度が0ではないような研究も色々とあったであろう。ところが、強い相関がないことがわかってしまい、科学度は0になってしまった。しかし、それでも相関はあると言いふらすことによって、時が経つにつれニセ科学度が上昇していった。
マイナスイオンなんかはもっとややこしくて、安直にニセ科学と言えるものもあれば、一つの言説の中で科学度の高い部分とニセ科学度の高い部分が混在していたりするので、そういう意味では「何点」と点を簡単につけられるものではなくて、一つの言説においてさえ広がりを持つのであろうけれど。
そういうふうに考えると、科学であることとニセ科学であることはかなり強い反相関を示すことになると考えられ、またそれぞれについてグレーゾーンが存在するというややこしいことになることがわかる。
次の問題は、ではなぜ反相関を示すか、ということになる(まあニセ科学の定義からして反相関は示すのだけれど、要するにそういう「中身」の議論が大事である、と)。
ニセ科学の一つの特徴として、「非科学であるにも関わらず、科学であると言いふらすこと」というのがあるが、これは科学的手続きにより科学度がほぼ0とみなされたものを無理矢理科学であると言い募ることによって、結果的にニセ科学度がアップしたもの、というようにも捉えられるだろう。血液型性格判断に典型的だが。
…なんかどこかでいろんな人が言ってそうですね。(^^;;
既に言われてたらすいません。
言いたかったことは、科学というものが「科学(あるいは事実、真理)」であると科学的手続きにより認定されるものであり、認定する以上はグレーゾーンが生じる。また、「これはニセ科学だ」と、これもまた認定されているものがあるわけで(つまり、色々と反論されても「いやここがこういうふうに間違っている」と明確に言えるだけの根拠を持っている)、ということはニセ科学と認定していいかどうかのグレーゾーンがまた生じる。で、科学であるかどうかのグレーゾーンとニセ科学であるかどうかのグレーゾーンは、一応、別のものとして扱うべき部分があるけれども、本質においてはつながっているので、分析しつつ総合するという科学的営みが必要ですね、ということなのでした。
端的に言えば、科学的命題(安斎育郎『科学と日科学の間』の用法による。「科学的命題」と「価値的命題」)で表しうる言説(論文でも著書でもブログでも)のうち、「科学」であると認定できるもの(科学)、「どうも科学とは言えそうにない」もの(非科学)、「どちらとも言えない」あるいは「科学と言う人と非科学であると言う人がいる」(科学と非科学の間のグレーゾーン)とラベルを貼ることができる。
一方、色々調べた挙句、「これはニセ科学と言ってよい」もの、つまり「ニセ科学」と「認定」して良いものがあって、その反対に「これはニセ科学とは言えない」(非ニセ科学)ものがあり、当然、その中間に「ニセ科学と言ってよいかよくわからないもの」あるいは「ニセ科学という人もいるし、そうではないという人もいる」(グレーゾーン)がある。
以上は単なる形式論なので、これ自体にはたいした意味はない。単に「A」と「非A」、「B」と「非B」に分類して、非とそうでないものの間には明確にどちらと言えない領域がある、というだけなので、これで終わるなら単なる言葉遊びの域を出ない。
で、おそらく重要なのは、最初に述べた「言説」に対し、たとえば「科学度」と「ニセ科学度」を点数化して(たとえば0~1点)、「科学」軸と「ニセ科学軸」を直交させた平面にプロットさせるとどうなるか、ということだろう。おそらく、反相関になるはずである。つまり、科学度が1に近いものはニセ科学度がほぼ0であり(まあ科学を装っているが科学でないものをニセ科学と呼んでいるので半ば定義により、という部分もあるのだけれども)、ニセ科学度が1に近いものは科学度がほぼ0である、と。
ただし、当然、科学度が0でニセ科学度も0というものもあるだろう。要するに、間違って捨てられた言説だ。
ある分野(と言っていいのかよくわからないが)の時系列を追うと、色々なパターンがあるだろう。たとえば血液型性格判断であれば、当初(戦前どころかもっとずっと前)はマジメに研究されていた部分もあったわけで、ニセ科学度がほぼ0で科学度が0ではないような研究も色々とあったであろう。ところが、強い相関がないことがわかってしまい、科学度は0になってしまった。しかし、それでも相関はあると言いふらすことによって、時が経つにつれニセ科学度が上昇していった。
マイナスイオンなんかはもっとややこしくて、安直にニセ科学と言えるものもあれば、一つの言説の中で科学度の高い部分とニセ科学度の高い部分が混在していたりするので、そういう意味では「何点」と点を簡単につけられるものではなくて、一つの言説においてさえ広がりを持つのであろうけれど。
そういうふうに考えると、科学であることとニセ科学であることはかなり強い反相関を示すことになると考えられ、またそれぞれについてグレーゾーンが存在するというややこしいことになることがわかる。
次の問題は、ではなぜ反相関を示すか、ということになる(まあニセ科学の定義からして反相関は示すのだけれど、要するにそういう「中身」の議論が大事である、と)。
ニセ科学の一つの特徴として、「非科学であるにも関わらず、科学であると言いふらすこと」というのがあるが、これは科学的手続きにより科学度がほぼ0とみなされたものを無理矢理科学であると言い募ることによって、結果的にニセ科学度がアップしたもの、というようにも捉えられるだろう。血液型性格判断に典型的だが。
…なんかどこかでいろんな人が言ってそうですね。(^^;;
既に言われてたらすいません。
言いたかったことは、科学というものが「科学(あるいは事実、真理)」であると科学的手続きにより認定されるものであり、認定する以上はグレーゾーンが生じる。また、「これはニセ科学だ」と、これもまた認定されているものがあるわけで(つまり、色々と反論されても「いやここがこういうふうに間違っている」と明確に言えるだけの根拠を持っている)、ということはニセ科学と認定していいかどうかのグレーゾーンがまた生じる。で、科学であるかどうかのグレーゾーンとニセ科学であるかどうかのグレーゾーンは、一応、別のものとして扱うべき部分があるけれども、本質においてはつながっているので、分析しつつ総合するという科学的営みが必要ですね、ということなのでした。
- 科学と非科学の間 (ちくま文庫)/安斎 育郎
- ¥735
- Amazon.co.jp