グレーゾーン | ほたるいかの書きつけ

グレーゾーン

 これもあちこちで話題になってて出遅れた感じですが。漠然と考えていたことを少し。

 端的に言えば、科学的命題(安斎育郎『科学と日科学の間』の用法による。「科学的命題」と「価値的命題」)で表しうる言説(論文でも著書でもブログでも)のうち、「科学」であると認定できるもの(科学)、「どうも科学とは言えそうにない」もの(非科学)、「どちらとも言えない」あるいは「科学と言う人と非科学であると言う人がいる」(科学と非科学の間のグレーゾーン)とラベルを貼ることができる。
 一方、色々調べた挙句、「これはニセ科学と言ってよい」もの、つまり「ニセ科学」と「認定」して良いものがあって、その反対に「これはニセ科学とは言えない」(非ニセ科学)ものがあり、当然、その中間に「ニセ科学と言ってよいかよくわからないもの」あるいは「ニセ科学という人もいるし、そうではないという人もいる」(グレーゾーン)がある。

 以上は単なる形式論なので、これ自体にはたいした意味はない。単に「A」と「非A」、「B」と「非B」に分類して、非とそうでないものの間には明確にどちらと言えない領域がある、というだけなので、これで終わるなら単なる言葉遊びの域を出ない。

 で、おそらく重要なのは、最初に述べた「言説」に対し、たとえば「科学度」と「ニセ科学度」を点数化して(たとえば0~1点)、「科学」軸と「ニセ科学軸」を直交させた平面にプロットさせるとどうなるか、ということだろう。おそらく、反相関になるはずである。つまり、科学度が1に近いものはニセ科学度がほぼ0であり(まあ科学を装っているが科学でないものをニセ科学と呼んでいるので半ば定義により、という部分もあるのだけれども)、ニセ科学度が1に近いものは科学度がほぼ0である、と。
 ただし、当然、科学度が0でニセ科学度も0というものもあるだろう。要するに、間違って捨てられた言説だ。

 ある分野(と言っていいのかよくわからないが)の時系列を追うと、色々なパターンがあるだろう。たとえば血液型性格判断であれば、当初(戦前どころかもっとずっと前)はマジメに研究されていた部分もあったわけで、ニセ科学度がほぼ0で科学度が0ではないような研究も色々とあったであろう。ところが、強い相関がないことがわかってしまい、科学度は0になってしまった。しかし、それでも相関はあると言いふらすことによって、時が経つにつれニセ科学度が上昇していった。
 マイナスイオンなんかはもっとややこしくて、安直にニセ科学と言えるものもあれば、一つの言説の中で科学度の高い部分とニセ科学度の高い部分が混在していたりするので、そういう意味では「何点」と点を簡単につけられるものではなくて、一つの言説においてさえ広がりを持つのであろうけれど。

 そういうふうに考えると、科学であることとニセ科学であることはかなり強い反相関を示すことになると考えられ、またそれぞれについてグレーゾーンが存在するというややこしいことになることがわかる。

 次の問題は、ではなぜ反相関を示すか、ということになる(まあニセ科学の定義からして反相関は示すのだけれど、要するにそういう「中身」の議論が大事である、と)。
 ニセ科学の一つの特徴として、「非科学であるにも関わらず、科学であると言いふらすこと」というのがあるが、これは科学的手続きにより科学度がほぼ0とみなされたものを無理矢理科学であると言い募ることによって、結果的にニセ科学度がアップしたもの、というようにも捉えられるだろう。血液型性格判断に典型的だが。

 …なんかどこかでいろんな人が言ってそうですね。(^^;;
 既に言われてたらすいません。
 言いたかったことは、科学というものが「科学(あるいは事実、真理)」であると科学的手続きにより認定されるものであり、認定する以上はグレーゾーンが生じる。また、「これはニセ科学だ」と、これもまた認定されているものがあるわけで(つまり、色々と反論されても「いやここがこういうふうに間違っている」と明確に言えるだけの根拠を持っている)、ということはニセ科学と認定していいかどうかのグレーゾーンがまた生じる。で、科学であるかどうかのグレーゾーンとニセ科学であるかどうかのグレーゾーンは、一応、別のものとして扱うべき部分があるけれども、本質においてはつながっているので、分析しつつ総合するという科学的営みが必要ですね、ということなのでした。

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