デマ
中国の地震の被害を見るにつけ、一人でも多く助かって欲しいと思う(ミャンマー[ビルマ]のサイクロン被害も)。
その話自体はおいといて。
中国で、ネット経由で悪質なデマが拡がっているという。『読売 』から。
ここでかのベンジャミン・フルフォード氏のブログを見てみよう。「中国の地震について」 より。冒頭、
ちなみにフルフォード氏はミャンマーのサイクロンについても「天気操作によるものか?」なんて書いている。困った人だ。これじゃ災害で亡くなった人々は浮かばれないよ。
コメント欄を見ていると、これをまた真に受けている人が何人もいるのに脱力する。まあ本屋で平積みになってるから押して知るべしではあるんだけど…。
その話自体はおいといて。
中国で、ネット経由で悪質なデマが拡がっているという。『読売 』から。
地震でネットに悪質デマ、中国警察当局が17人取り調べデマで拘束することの是非は(これまた)おいといて、注目すべきはその内容。アメリカが人為的に起こした地震である、と。【北京=河田卓司】新華社電によると、中国の警察当局は15日までに、今回の四川省大地震をめぐってインターネット上に悪質なデマを流したとして、17人を取り調べ、うち2人を拘束した。
中国では、12日の地震発生後、ネット上にデマ情報があふれており、警察が発信者を追っている。
17人は河北省、遼寧省、安徽省などの在住者。山西省の20代の男は12日に「今回の大地震は、米国が関係する人為的なものだろう」と書いたのが治安管理処罰条例に抵触するとして摘発された。
(2008年5月15日20時29分 読売新聞)
ここでかのベンジャミン・フルフォード氏のブログを見てみよう。「中国の地震について」 より。冒頭、
昨日中国で起きた地震はアメリカの攻撃の可能性が高い。ときっぱりと述べている。まさか、これを本気にした人が、中国のネットに流しちゃったってんじゃあないよねえ…?もしそうなら、あまりにも罪作りだ>フルフォード氏
ちなみにフルフォード氏はミャンマーのサイクロンについても「天気操作によるものか?」なんて書いている。困った人だ。これじゃ災害で亡くなった人々は浮かばれないよ。
コメント欄を見ていると、これをまた真に受けている人が何人もいるのに脱力する。まあ本屋で平積みになってるから押して知るべしではあるんだけど…。
「宇宙基本法案」に反対するアピール署名(追記・追記その2あり)
先日言及した「宇宙基本法案」
に反対するオンライン署名が、(自然科学研究機構)国立天文台の石附澄夫さんを世話人にスタートしています。こちら↓
我が国による宇宙の軍事利用を解禁する「宇宙基本法案」に反対するアピールのためのオンライン署名
趣旨などはリンク先に説明があります。名前を非公開にして署名することも可能です。
とりあえずお知らせ、ということで。
(追記5/16)
この記事にトラックバックを送っていただいた亀@渋研Xさんが色々と精力的に調べて下さっている。
こちら →「宇宙戦争ができる法案が来週可決?」
この法案について述べているブログだけではなく、各紙の社説や、推進派の主張なども探してリンクを張っており、大変有用なリンク集になっている。
頭が下がります。m(_ _)m
(追記その2 5/16夕)
世界平和アピール七人委員会「宇宙基本法案の見直しを」 が2007年11月19日付で出ています。
やっぱり敏感な人々はきちんと見ているのだなあ。
我が国による宇宙の軍事利用を解禁する「宇宙基本法案」に反対するアピールのためのオンライン署名
趣旨などはリンク先に説明があります。名前を非公開にして署名することも可能です。
とりあえずお知らせ、ということで。
(追記5/16)
この記事にトラックバックを送っていただいた亀@渋研Xさんが色々と精力的に調べて下さっている。
こちら →「宇宙戦争ができる法案が来週可決?」
この法案について述べているブログだけではなく、各紙の社説や、推進派の主張なども探してリンクを張っており、大変有用なリンク集になっている。
頭が下がります。m(_ _)m
(追記その2 5/16夕)
世界平和アピール七人委員会「宇宙基本法案の見直しを」 が2007年11月19日付で出ています。
やっぱり敏感な人々はきちんと見ているのだなあ。
江原啓之の書いたこと(番外編)
イキオイで次の章に取り掛かろうと思ったのだけど。
内容が内容なもんで、明日以降に回すことにした。
有体に言えば、反吐が出そうな文章で満ち溢れていたからだ。少子化についての章。イキオイだけでは書けなかった。
こんな風に言うと信奉者からは反感を買いそうだけど、それは仕方ない。私は彼らに届く言葉を持っていない。それはそれができる人に任せたい。私は私のできること―江原について批判したい人、あるいは信じていいのか揺れている人に、ここを見れば実際に江原が何を言っているのかを参照できる基礎データを提供する―を積み上げるので精一杯。もちろん、「届く言葉」を紡げればそれに越したことはないのだけれど。
***
さて、江原の言っていることの中間的なまとめをしてみたい。
科学(まっとうな科学)はある面ジグソーパズルに例えることができよう。科学の様々な分野や成果は一つ一つのピースに対応し、科学の法則を通じてピース同士が組み合わさっていく。それらは宇宙という壮大なジグソーパズルの一部を構成し、少しづつ新たなピースを付け加えてゆく。その過程では間違ったピースを持ってきてしまったり、間違っているのに無理矢理はめこんでしまったり、ということもあるだろう。しかし、ピース相互のつながりから、やがては正しいピースに置き換えられてゆく。
江原の場合はどうだろうか。彼は彼なりに「スピリチュアル」の立場からこの世とあの世のジグソーパズルを構築しているつもりなのだろう。ところが、既に見てきたように、2つ、3つのピースはつなげることができても、そうやってできたピースのクラスター同士をつなげることができないのが江原の論理だ。ひどい場合には同じ章の中で書いていることが矛盾しているのだ。
「呪術」と「科学」の違いは、このたとえで言うなら、ピース一つ一つが実証的に検証されているか、ということだろう。呪術の場合はその検証が甘かったり、あるピースでの経験を他のピースに単純に当てはめるなどしているのだろう。
それでも、長い年月の間に呪術も洗練され、壮大な「世界」を描くようになる。それは宗教かもしれないし、神話かもしれない。やがて捨てられるのかもしれないし、科学とはうまく棲み分けするような形で絵を構築するようになるのかもしれない。
しかし江原の場合は違う。彼が言及している話題は広い。しかし、それは断片に過ぎない。相互をつなぐピースはどう考えても存在しようがないのだ。
ある一つのピースが科学的に検証されているのかどうかは専門家でないとわからないかもしれない。しかし、そのピースに隣のピースがはまっていることだけで安心してしまうのか、それともパズルが描こうとしている世界の中でそのピースはどう位置づけられているのかを気にするのか。その向こうにもちゃんとピースはあるのか、離れたピースとの間を埋めるピースがあるのか、そういうことで見えてくるものは沢山あると思うのだ。
そう考えていくと、スピリチュアルにはまるのも「科学をトリビアの集合体とみなす」発想と深く結びついているように見えてくる。そういう発想が最近の風潮なのか、ずっと昔からなのかはわからない。わからないけれども、いずれにしても、それは克服されていかなければならない風潮だろう。
内容が内容なもんで、明日以降に回すことにした。
有体に言えば、反吐が出そうな文章で満ち溢れていたからだ。少子化についての章。イキオイだけでは書けなかった。
こんな風に言うと信奉者からは反感を買いそうだけど、それは仕方ない。私は彼らに届く言葉を持っていない。それはそれができる人に任せたい。私は私のできること―江原について批判したい人、あるいは信じていいのか揺れている人に、ここを見れば実際に江原が何を言っているのかを参照できる基礎データを提供する―を積み上げるので精一杯。もちろん、「届く言葉」を紡げればそれに越したことはないのだけれど。
***
さて、江原の言っていることの中間的なまとめをしてみたい。
科学(まっとうな科学)はある面ジグソーパズルに例えることができよう。科学の様々な分野や成果は一つ一つのピースに対応し、科学の法則を通じてピース同士が組み合わさっていく。それらは宇宙という壮大なジグソーパズルの一部を構成し、少しづつ新たなピースを付け加えてゆく。その過程では間違ったピースを持ってきてしまったり、間違っているのに無理矢理はめこんでしまったり、ということもあるだろう。しかし、ピース相互のつながりから、やがては正しいピースに置き換えられてゆく。
江原の場合はどうだろうか。彼は彼なりに「スピリチュアル」の立場からこの世とあの世のジグソーパズルを構築しているつもりなのだろう。ところが、既に見てきたように、2つ、3つのピースはつなげることができても、そうやってできたピースのクラスター同士をつなげることができないのが江原の論理だ。ひどい場合には同じ章の中で書いていることが矛盾しているのだ。
「呪術」と「科学」の違いは、このたとえで言うなら、ピース一つ一つが実証的に検証されているか、ということだろう。呪術の場合はその検証が甘かったり、あるピースでの経験を他のピースに単純に当てはめるなどしているのだろう。
それでも、長い年月の間に呪術も洗練され、壮大な「世界」を描くようになる。それは宗教かもしれないし、神話かもしれない。やがて捨てられるのかもしれないし、科学とはうまく棲み分けするような形で絵を構築するようになるのかもしれない。
しかし江原の場合は違う。彼が言及している話題は広い。しかし、それは断片に過ぎない。相互をつなぐピースはどう考えても存在しようがないのだ。
ある一つのピースが科学的に検証されているのかどうかは専門家でないとわからないかもしれない。しかし、そのピースに隣のピースがはまっていることだけで安心してしまうのか、それともパズルが描こうとしている世界の中でそのピースはどう位置づけられているのかを気にするのか。その向こうにもちゃんとピースはあるのか、離れたピースとの間を埋めるピースがあるのか、そういうことで見えてくるものは沢山あると思うのだ。
そう考えていくと、スピリチュアルにはまるのも「科学をトリビアの集合体とみなす」発想と深く結びついているように見えてくる。そういう発想が最近の風潮なのか、ずっと昔からなのかはわからない。わからないけれども、いずれにしても、それは克服されていかなければならない風潮だろう。
江原啓之の書いたこと(5)
もうイキオイで行きます。
『日本のオーラ』第八章「仕事とは?お金とは? ―天職と『カルマ落とし』」より。
様々な慈善事業(マイクロソフトやマクドナルドや渋沢栄一や松下幸之助など)について述べた後の江原の言葉。
しかし。
スピリチュアル的には、動機が大切だったのではなかったっけ?まあ江原としては、ビル・ゲイツは崇高な動機で社会貢献している(あちこちに寄付をしている)ということなのかもしれないけれども、とはいえ上のようにまとめられると、どうも矛盾しているように見える。
同じ章の一番最後の文章では、「私が常日頃言っていることですが、ここでも大切なのは『動機』であることを忘れないでください」と書いてある。だとすると、偽善はいけないということにならないだろうか?
ところで、ビル・ゲイツなどの「大富豪」があちこちに多額の寄付をすることによって救われている人も多いのだが、私は手放しで褒める気にはなれない。それは善か偽善かと言う問題ではない。なぜ彼らがそんなに大富豪になれているのか、というところの問題を考えないわけにはいかないからだ。
端的に言うと、こういうことだ。もっと労働者に給料払えよ、と。
社会のシステムで救われるべき(どこまでを「べき」と考えるかはいろいろあるだろうが)人々を、一握りの個人の善意に委ねるのは、やはりどこか間違っていると思う。
『日本のオーラ』第八章「仕事とは?お金とは? ―天職と『カルマ落とし』」より。
様々な慈善事業(マイクロソフトやマクドナルドや渋沢栄一や松下幸之助など)について述べた後の江原の言葉。
こうした社会貢献こそ、人や企業にとっての「天職」なのです。よく社会貢献とか慈善事業とか言うと、すぐに「偽善だ」と言い出す人がいます。スピリチュアル的には、「偽善でもオーケー」です。偽善と言われる行為にだって、それに愛を感じる人たちがいることは確かなのですから。「偽善」と批判しているだけで何もやらない人のほうが、よほど問題ではないでしょうか。スピリチュアル云々を除けば、私も基本的に賛成である。「やらない善よりやる偽善」なんて最近は時々目にするけれど、動機はなんであれ、やれば救われる人はいるわけで、やらないよりはいい(やる内容にもよるけれど)。
しかし。
スピリチュアル的には、動機が大切だったのではなかったっけ?まあ江原としては、ビル・ゲイツは崇高な動機で社会貢献している(あちこちに寄付をしている)ということなのかもしれないけれども、とはいえ上のようにまとめられると、どうも矛盾しているように見える。
同じ章の一番最後の文章では、「私が常日頃言っていることですが、ここでも大切なのは『動機』であることを忘れないでください」と書いてある。だとすると、偽善はいけないということにならないだろうか?
ところで、ビル・ゲイツなどの「大富豪」があちこちに多額の寄付をすることによって救われている人も多いのだが、私は手放しで褒める気にはなれない。それは善か偽善かと言う問題ではない。なぜ彼らがそんなに大富豪になれているのか、というところの問題を考えないわけにはいかないからだ。
端的に言うと、こういうことだ。もっと労働者に給料払えよ、と。
社会のシステムで救われるべき(どこまでを「べき」と考えるかはいろいろあるだろうが)人々を、一握りの個人の善意に委ねるのは、やはりどこか間違っていると思う。
江原啓之の書いたこと(4)
お次は第七章「この世で戦争がなくならない理由 ―国と『カルマ』」より。
なぜ戦争がなくならないか、という問題をたて、それについて次のように答える。
第一章で「○○の法則」というのを幾つか説明しているのだが、この「カルマ」には「因果」の文字が当てられ、「因果の法則」とも書かれている。たしかに因果があって戦争があるので、文脈を無視して「因果の法則」というコトバだけを切り出せば、あながち間違いとはいえない話だ。
しかし、しかしである。江原はずっと「たましい」の話をしてきたのではなかったのか?それが大前提としてあって、その「たましい」を浄化するだのなんだのということで様々なことを説明してきたのではなかったのか?じゃあ「国」にも「たましい」があるってことなのか?江原的には「たましい」というのは何らかの「実体」(物理学的な意味ではなく)としての存在なんだろうが、国の「たましい」もそうなのか?「大和魂」があるって?いやそういう話じゃないだろう。
いくつかのブログで、最近「呪術」の論理性が話題になっていたが、江原的「呪術」においては、局所的には論理を構築しているように見えるけれども、ちょっと考えれば、一冊の本の中でも矛盾点が存在することが明らかであり、とても体系として構築されうるものとは思えない。思えないのだけれども、ハマっちゃう人は、それが見えないんだろうなあ…。
最後に、これまた章末の文章だけは意味があると思うので、載せておく。
それがわかっているんなら、自分の言葉が日々生きている人にどのような悪影響を与えているか、想像してほしいものだ。
なぜ戦争がなくならないか、という問題をたて、それについて次のように答える。
人に「カルマの法則」が働いているように、国にもカルマがあり、「カルマの法則」が働いています。この法則は、簡単に説明すれば自らが播いた種は自分で刈り取るという法則です。えーと、えーと、えーと。どう考えたらいいんだ?
第一章で「○○の法則」というのを幾つか説明しているのだが、この「カルマ」には「因果」の文字が当てられ、「因果の法則」とも書かれている。たしかに因果があって戦争があるので、文脈を無視して「因果の法則」というコトバだけを切り出せば、あながち間違いとはいえない話だ。
しかし、しかしである。江原はずっと「たましい」の話をしてきたのではなかったのか?それが大前提としてあって、その「たましい」を浄化するだのなんだのということで様々なことを説明してきたのではなかったのか?じゃあ「国」にも「たましい」があるってことなのか?江原的には「たましい」というのは何らかの「実体」(物理学的な意味ではなく)としての存在なんだろうが、国の「たましい」もそうなのか?「大和魂」があるって?いやそういう話じゃないだろう。
いくつかのブログで、最近「呪術」の論理性が話題になっていたが、江原的「呪術」においては、局所的には論理を構築しているように見えるけれども、ちょっと考えれば、一冊の本の中でも矛盾点が存在することが明らかであり、とても体系として構築されうるものとは思えない。思えないのだけれども、ハマっちゃう人は、それが見えないんだろうなあ…。
最後に、これまた章末の文章だけは意味があると思うので、載せておく。
しかし、人間には「想像力」が与えられています。たとえ平時であっても、個々の生活のレベルで、戦時中と同じような体験や感動に思いを馳せることは決して素可能ではないはずです。日常の中でのシンプルな出来事は、実は大きな戦争とは地続きであるということ、その意識だけは持つようにしてください。個人個人が、日常の経験と感動から、いかに深く内観し、学び取っていくか。「戦争という経験」をしないですむためには、それが何よりの方法かと思われるのです。いやこれはホント重要だと思います(「内観」についてはどういう意味で使っているのかわからないので、ここでは単に自分の心をふりかえるという程度の意味だと仮定する)。
それがわかっているんなら、自分の言葉が日々生きている人にどのような悪影響を与えているか、想像してほしいものだ。