江原啓之の書いたこと(番外編) | ほたるいかの書きつけ

江原啓之の書いたこと(番外編)

 イキオイで次の章に取り掛かろうと思ったのだけど。
 内容が内容なもんで、明日以降に回すことにした。
 有体に言えば、反吐が出そうな文章で満ち溢れていたからだ。少子化についての章。イキオイだけでは書けなかった。

 こんな風に言うと信奉者からは反感を買いそうだけど、それは仕方ない。私は彼らに届く言葉を持っていない。それはそれができる人に任せたい。私は私のできること―江原について批判したい人、あるいは信じていいのか揺れている人に、ここを見れば実際に江原が何を言っているのかを参照できる基礎データを提供する―を積み上げるので精一杯。もちろん、「届く言葉」を紡げればそれに越したことはないのだけれど。

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 さて、江原の言っていることの中間的なまとめをしてみたい。
 科学(まっとうな科学)はある面ジグソーパズルに例えることができよう。科学の様々な分野や成果は一つ一つのピースに対応し、科学の法則を通じてピース同士が組み合わさっていく。それらは宇宙という壮大なジグソーパズルの一部を構成し、少しづつ新たなピースを付け加えてゆく。その過程では間違ったピースを持ってきてしまったり、間違っているのに無理矢理はめこんでしまったり、ということもあるだろう。しかし、ピース相互のつながりから、やがては正しいピースに置き換えられてゆく。
 江原の場合はどうだろうか。彼は彼なりに「スピリチュアル」の立場からこの世とあの世のジグソーパズルを構築しているつもりなのだろう。ところが、既に見てきたように、2つ、3つのピースはつなげることができても、そうやってできたピースのクラスター同士をつなげることができないのが江原の論理だ。ひどい場合には同じ章の中で書いていることが矛盾しているのだ。

 「呪術」と「科学」の違いは、このたとえで言うなら、ピース一つ一つが実証的に検証されているか、ということだろう。呪術の場合はその検証が甘かったり、あるピースでの経験を他のピースに単純に当てはめるなどしているのだろう。
 それでも、長い年月の間に呪術も洗練され、壮大な「世界」を描くようになる。それは宗教かもしれないし、神話かもしれない。やがて捨てられるのかもしれないし、科学とはうまく棲み分けするような形で絵を構築するようになるのかもしれない。

 しかし江原の場合は違う。彼が言及している話題は広い。しかし、それは断片に過ぎない。相互をつなぐピースはどう考えても存在しようがないのだ。

 ある一つのピースが科学的に検証されているのかどうかは専門家でないとわからないかもしれない。しかし、そのピースに隣のピースがはまっていることだけで安心してしまうのか、それともパズルが描こうとしている世界の中でそのピースはどう位置づけられているのかを気にするのか。その向こうにもちゃんとピースはあるのか、離れたピースとの間を埋めるピースがあるのか、そういうことで見えてくるものは沢山あると思うのだ。

 そう考えていくと、スピリチュアルにはまるのも「科学をトリビアの集合体とみなす」発想と深く結びついているように見えてくる。そういう発想が最近の風潮なのか、ずっと昔からなのかはわからない。わからないけれども、いずれにしても、それは克服されていかなければならない風潮だろう。