ほたるいかの書きつけ -59ページ目

『護憲派の語る「改憲」論』

 先日読んだ本、『自衛隊の国際貢献は憲法九条で』(それについてのエントリ )に関連して。
護憲派の語る「改憲」論―日本国憲法の「正しい」変え方 (角川oneテーマ21 A 69)/大塚 英志
¥720
Amazon.co.jp
 この本は2007年7月発行。内容は、その目次に明確に現れているので、それを記そう。

Step 1 もういいかげん「考えなし」の改憲論だけはやめる
Step 2 日本国憲法があるから日本がダメになったのか
     日本国憲法を使わなかったから日本がダメになったのか見きわめる
Step 3 憲法改正の国民投票までの三年間で「公論」の担い手となる
Step 4 もう子どもたちは始めている―私たちの書く憲法前文'07年版
Step 5 提案 十二年後に「改憲」を問う国民投票を行う法律を作り同時に「憲法教育」を教育の根本におく

 見ればわかるように、この本は、「なんとなく」改憲を支持する人々に向けて語られている。またそれと同時に、なぜ「なんとなく改憲を支持する」人々が多数派なのか(9条改憲が少数派になったのはついひと月前のことだ!)について考えられず、護憲と言うだけでとりあえず安心して思考停止してしまう「護憲派」への批判でもある。

 9条を護りたい側から見れば(ちなみに私はもちろん9条維持を主張するが、9条以外のところでは将来的には変えたほうがいい部分はあると思っている)、「なんとなく」改憲を志向する人々はなんとも悩ましい存在である。存在が悩ましいのではなく、「なんとなく」国の根幹にかかわる憲法を変えようと言えてしまうその発想が悩ましいのである。
 そこで、Step 1 では、9条を変えたくてたまらない人々が振り撒く典型的な改憲論についてまずは丁寧に批判をする。ここで、読者は自分の考えが「流されていたのかも」と気づくであろう(自分に引き付けて読む能力があればね)。

 その上で、憲法についての考察を深めていく。生存権とは、両性の平等とは、と。そして、折角憲法があるのに、いまの世の中は憲法を使っていないんじゃないか、と説く。逆に言えば、うまく使えば世の中もっと良くなっているはずなのに―つまり大方の人々の不満は憲法を「使う」ことで劇的に改善されるであろうに―その発想がないのではない、と。根本の発想が、憲法を視野の外に置き、この国をいいように動かしたい人々に毒されているのではないか、と、そこの部分について己を見つめなおして欲しいと思う。

 自己を振り返るそのプロセスは、とりもなおさず民主主義社会の構成員として自立することでもある。「動物化する有権者」ではいかんだろう、と。

 そこで著者は、少し前から、自分の言葉で「憲法前文」を書く、という運動をしている。子どもが書いた憲法前文も載っているが、微笑ましいものもあれば本質を突くようなするどいものもある。

 そのように憲法というものを自分の実感から、生活から捉えなおすことで、おそらく「なんとなく」改憲という主体性のない選択から逃れ、自立した有権者へと脱皮していくのだろう。それは有効な一つの手段なのだと思う。

 さて、というわけで、憲法前文を書く、という方法論については、それも一つの方法だと思うが、もちろん唯一絶対のものでもないだろう。大事なのは、憲法というものについての考察を深めていくことだ。しかも、その際、「いかに使うか」という発想は外せないものだろう。もちろん、9条についてもだ。9条を如何に使うかについては、先日のエントリで触れたように紛争の解決ということで直接有効であろうし、それにいままで「護憲派」がさんざん言ってきた、そもそも戦争にならないような世の中を作ろうという意味でも有効だろう。色々な形がある。
 しかしそれだけではなくて、この本で触れているように、生存権にしろ両性の平等にしろ、憲法というのは実は日常生活と密接に関わっているのであるから、どのように関わっているのかを明らかにする上で、どのように使うかを考えるというのは非常に有効なのだろうと思う。
 そして、憲法がどのように日常と関わっているのかを理解し実感することは、茫洋とした改憲論を打破する上で欠くべからざるものなのだと思う。
 その意味で、これはいわゆる「護憲派」に対し、単に「護憲」と叫ぶだけではなく、なぜ、なんのために憲法を護るのか、その内実をわかりやすく語れ、と迫っている書でもあるのだ。

 この本が発行されてから1年。あと2年で発議は可能になる。
 9条を護る運動を広げつつ、憲法の中身について、可能性について、考え、語るということを、一人ひとりがやらないといけない。それを考える上で、示唆的な本だと思う。

SSFSさんへ

SSFSさん、

 私のブログをyahooの掲示板 で取り上げていただいてありがとうございます。
 折角の機会なので、まだ見てらっしゃるかわかりませんが、幾つかお聞きしたいことがあります。よろしければ教えていただけませんでしょうか?

 SSFSさんは、しきりに「マイナスイオンドライヤー」は性能が良くて、しかもそれは「マイナスイオン」(あるいは「ナノイーイオン」かもしれませんが)の効果のおかげである、という主張をされています。されていますよね?少なくとも私はそう理解しています。もし違うのであれば、おっしゃってください。

 ところが、私には、なぜSSFSさんがそう主張できるのかがわからないのです。つまり、どういう根拠でSSFSさんがそう主張しているのかがわからない。そこを私にもわかるように教えていただけるととても有難いです。私でも理解できるのであれば、他の多くの方々も理解できるでしょうし。

 さて、ドライヤーにおいて、「マイナスイオン」が重要な効果を与えている、というには、次の二つを両方ともクリアしなければいけません。
  1. 「マイナスイオンドライヤー」が実際に性能がいいこと
  2. 性能がいい理由が、「マイナスイオン」のためであること
 あちこちのブログ等でSSFSさんのお名前を拝見致しますが、SSFSさんがお示しになられた根拠としては、1については評判がいいこと、2についてはメーカーの「技報」だと理解していますが、よろしいでしょうか?

 ここでは1についてはおいておきましょう。評判の良さについては私も目にしたことがあります(それをダブルブラインドで定量的に評価するのはとても難しいと思うのですが、それもおいておきます。もちろん、SSFSさんのアイデアをお聞かせいただければ、それは大変有難いです)。ここでは、一部の―つまりそれなりに価格の高い―「マイナスイオンドライヤー」は、本当に性能がいいものと仮定して話を進めましょう(それでいいですよね?安物の「マイナスイオンドライヤー」は効果が出なくてもしょうがない、というような発言をSSFSさん御自身がどこかでされていたと記憶しています)。

 というわけで、早速2に移りましょう。「技報」はPDFで見れるものは以前私も見ました。全部ではなかったと思いますが、kikulog などで取り上げられたものは見たと思います。
 「技報」を読んだときの私の理解は、一見、「ナノイー」(でしたかね?現物がいま手もとにないので記憶に頼って書いています)の効果があるように図が描かれているのですが、しかしデータの誤差を考慮すると、「ナノイー」をオフにしたときとの有意な差がなく、(「技報」では色々とディスカッションが書かれていたと思いますが)結局「ナノイー」の効果だとは言えない、というものです。もちろん、もっとデータを積み重ねて、検査の精度も上げれば、実は差がある、「ナノイー」の効果はある、ということに将来はなるのかもしれません。しかし、現状(少なくともその「技報」が出された当時)においては、残念ながら、「誤差の範囲」でしかない、と言わざるを得ません。

 私の2に関する認識は以上なのですが、SSFSさん、いかがでしょうか?もし異論があれば、言っていただけると幸いです。

 以上より、「マイナスイオンドライヤー」については、仮に実際に性能が良いのだとしても、いまのところ、それが「マイナスイオン」なり「ナノイーイオン」なりのためである、とは言えないのではないか、と思っています。


 さて、ここで少し話を変えたいと思います。
 なぜ多くの人が、「マイナスイオン」を問題にしているのでしょうか?

 「マイナスイオン」は、ご存知のとおり、「身体によい」という幻想と結びつけて広められました。SSFSさんは、ドライヤーについてはそんなこと関係ない、とおっしゃっているように見えます。いえ、技術的な問題については、それはそれで議論すればいいんですよ。ところが、「もしかしたら」効果があるかもしれないのに、なぜメーカーは「マイナスイオン」という手垢のついた名称をかぶせるのでしょうか?それは、「マイナスイオン」という言葉に、科学的・技術的な問題とは別に、市場における付加価値があるからですよね。なぜ付加価値があるんでしょう?

 「マイナスイオンはニセ科学」という場合、多くの人は(少なくとも私は)、「マイナスイオン」という名称をつければ、それがなんであれ(効果があるにしろないにしろ)、「健康」と結び付けられて消費者に届く、と言う点を問題にしています。SSFSさんは、そんな過ぎ去った話をいまさら持ち出すな、と、もしかしたらおっしゃるかもしれません。しかし、しかしですよ。ちょっと調べてみればわかりますが、「マイナスイオンが健康にいいっていうのは根拠が示されてないんですよ」と言うと、10人中一人二人は「ええっ?そうなの?」と言います(数字は適当です。私の経験上、多数派とは言いませんが、無視できない数の人が、「マイナスイオンは健康にいい」と漠然と信じています)。もしそれが信じられなければ、街頭でアンケートをとって見られるといいと思います。渋谷のハチ公前でもどこでもいいです。100人ぐらいはすぐに集められるでしょう。仮に信じている人が1%だとしましょう。日本全体では、およそ100万人になるわけですよね。100万人が、「騙されて」いるわけです。これって、見過ごせないとお思いになりませんか?

 もちろん、私も含めて多くの人は、「マイナスイオン」の効果が未確認のまま製品化され販売されているものが多い、ということも問題にしています。「マイナスイオン」の名が冠せられているにもかかわらず、本当に効果があるものもあるでしょう。大気イオンが生じて、そのために効果を生じているものもあるのでしょう。きちんとメカニズムを検証したことはありませんが、消臭やタバコの煙を消すなどでは効果がある、という話は聞いたことがありますし、それはきっとそうなのでしょう。でも、それだったら「マイナスイオン」などという名前を使わないほうがいいですよね。疑う人は、逆に「マイナスイオン」という言葉があるだけで疑いますよね。
 そういう一部の製品はともかく、多くの「マイナスイオン」製品は、効果があるのかないのかの検証もきちんとせずに販売されているわけです。これは問題だとお思いになりませんか?

 どこかで、SSFSさんは、「マイナスイオン」あるいは「マイナスイオンドライヤー」がどのようなメカニズムで髪にいい影響を与えるのか、ワイワイみんなで議論したいだけだ、とおっしゃられていたように記憶しています(違ったら済みません)。それはそれでされたらいいと思うんですよ。ところが不幸なことに、ネット上で「マイナスイオン問題」について発言している人の多くは、SSFSさんの思惑とは別に、上で書いた「マイナスイオンは健康にいい」という言説というか幻想を問題にしているわけです。個々の製品(ドライヤーとか)のメカニズムについてはそれほど興味がないんですよ。
 実際、私も興味が全くないとは言いませんが、それほどあるわけではありません。それになにより、それを議論できるだけの材料もありませんし、論じるだけの物理的・化学的、あるいは美容や理髪に関する知識もありません。なので、残念ながら、具体的なメカニズムについては一般論以上のことを私が言えるとは思えないんですよ。

 最後に一つ提案があります。SSFSさんは、あちこちのブログのコメント欄や掲示板などで精力的に発言されてきました。その中には、「技報」へのリンクがあったり、各種ドライヤーの評判についてのリンクがあったり、有用なものもありました。ところが、その発言があちこちに分散しているため、あとから振り返って参照するのがとても困難になっています。
 そこで、もしよろしければ、御自分のウェブページを作って、そのような情報をまとめられてはいかがでしょうか?それは多くの人にとってとても役に立つページとなるでしょう。あちこちのウェブサイトを探してくるSSFSさんの努力には頭が下がるのですが、折角ですから、それらをわかりやすくまとめてみてはいかがでしょう?
 また、メカニズムについて議論する場は、ネット上にはほとんどありません。しかし、もしかしたら、SSFSさんと同様に、メカニズムについてああでもないこうでもないとワイワイ議論したい方がいるかもしれません。どうせなら、そういう場も提供されてはいかがでしょう?その方が、興味もない人の間でメカニズムについての発言を続けるより、よほど生産的だと思いますよ。


 長くなりました。とりあえず、私からは以上です。
 このエントリのコメント欄、使っていただいて構いません。ぜひ、お答えいただいて、私の疑問を解消させてください。よろしくお願い申し上げます。

『私のエネルギー論』

 池内さんつながりで、ちょっと前に読んだ本から。
私のエネルギー論 (文春新書)/池内 了
¥725
Amazon.co.jp
 エネルギー問題についての見方を考察した後、化石燃料に変わるエネルギー源について、個別に考察している。まず原子力発電の問題点について触れ、次に自然エネルギーについてどこまで可能か、また水素などの使用、ゴミを使った発電などについて考察している。面白いのは、発言するだけではダメだと自分の家を建て直す際に徹底して太陽エネルギーなどの自然エネルギーを利用するようにしたこと。具体的にどこまでできるか書いてある。

 さて、この本はもう10年近く前に出た本なので、個別の内容については古くなっている部分もある。が、それでも面白いところが幾つかある。
 一つは、昨日のエントリでも触れたことだが、すでにこの本において、環境問題の複雑系的な見方が強調されていることである。この本が書かれて以降、例えば温暖化問題の理解がどう進展したか、あるいはしなかったかを考えてみるのも面白いかもしれない。

 個人的に興味を引いたのは、「進化」の考え方。いや、そういう大それた話ではないのだけれども、一つの見方として。
 原生動物が遣う代謝エネルギーを1とすると、変温動物が遣う代謝エネルギーは10になるそうだ。そして恒温動物はさらに10倍の100になるという。つまり、完全に環境に依存して運動すればエネルギーはほとんど消費しないのに対し、自分に都合のいいように環境を生み出す、恒温動物の場合ならば体温を一定に保ち、いつでも動けるようスタンバイしておく、ようにするほど必要なエネルギーが多くなる、ということだ。
 ところが、現代の人間は、冷暖房や車などの移動、コンピュータなどに使うエネルギーまで含めて考えると、人間の体重当たりに換算すると通常の恒温動物の10倍以上のエネルギーを遣っているという。これをもって、著者は人間を「恒環境動物」と呼んでいる。
 そう考えると、人類はこの数十年の間に恒温動物から恒環境動物へと進化した、という捉え方もできるようになる。
 まあ生命体としては何も変わっていないので、生物学的には無理な解釈であるが、エネルギー消費という点から考えると、やはり人類は特異な存在であるということがこのような点からも言えるのだろう。

 だからなんだ、というと何もないのだけど、ちょっと面白かった、ということで。

『疑似科学入門』

池内さんの新刊、岩波新書。
疑似科学入門 (岩波新書 新赤版 1131)/池内 了
¥735
Amazon.co.jp
 どうも、既にあちこちで話題になっているらしいので、内容の紹介は省いて、色々と思ったことなど。

 まず、この本が対象にしているのはどういった人々か。ひとつには、(当たり前だが)岩波新書を読むような人である。つまり、一応、ソレナリには論理的・科学的思考の訓練がされている―あるいは、それができているかどうかはともかく、そういう思考に割りと触れている―人々である。おそらく、「あるある大事典」を見て納豆売り場に駆けつけるような人には、たぶんこの内容は届かない(いやもちろん、普段は論理的に考えられる人でもコロッと騙されるのが怖いところなのだけれど、まあ象徴的な意味で)。だから、実際は「入門」というような内容ではない。もちろん、エライ先生が「これはニセだよ」と言ってくれてるなあ、という程度には意味があるだろうけど。

 では、ソレナリに科学あるいはニセ科学(疑似科学)について考えたことのある人にとってはこの本はどういう意味を持つか。
 端的に言うと、この本の題名は「疑似科学入門」より、「『疑似科学』論・試論」ぐらいのほうが相応しいのではないか、と思う。著者は、さまざまな疑似科学を第1種・第2種・第3種と分類することを(試みとして)提案している。それは、多くのニセ科学(擬似科学)についての本が、様々なニセ科学を羅列的に取り上げ個別に批判するスタイルであり、疑似科学というものをどう捉えるか、系統だって考えるものがほとんどなかったから、ということである(実際そうだろう)。したがって、個別のニセ科学についての分析はあまり深くない(取り上げているものは幅広いのだが)。その意味で、この本のメインはニセ科学のメタ分析である、と言ってよいだろう。
 ついでに言うと、伊勢田さんの『疑似科学と科学の哲学』が「疑似科学を通して科学を見る」本だとすれば、これは「疑似科学そのものを真っ向から見る」本である、と言えるかも知れない。

 最近のニセ科学批判の文脈では、主に第1種・第2種の疑似科学が批判対象となってきた。今までにも、ニセ科学には色々なタイプがあり、すべてが同じような構造を持つわけではない、ということが指摘され、おそらくはほぼ(積極的に批判にコミットしている人々の間では)共通認識となっているといってよいであろう。それを大きく第1種・第2種に分類し、さらにそのサブカテゴリーとして各種ニセ科学を考えることは、一つの試みとしては考える価値がある。ただし、この本で提示された分類ではまだ不十分で、今後つめていく必要はあると思う。

 さて、この本でもっとも注目すべきなのは、やはり第3種疑似科学についての分析だろう。ここは、以前から複雑系に注目してきた著書だけのことはあり、複雑系の本質を踏まえた分析になっている。
 第3種疑似科学の例としては、「地球温暖化」「地震予知」「プリオンと狂牛病」などにまつわる事例が検討されている。もちろん、それ自体が疑似科学というわけではない。複雑系であるがゆえに、単純な分析によって結論を出してしまうと、容易にそれが疑似科学に転化してしまう、ということである。
 複雑系の特徴は、現象を左右する過程が絡み合い、個々の過程を規定するパラメータの値が変化したとき、それが現象にどういう影響を及ぼすか、簡単には言えないところにある。しかし、通常の研究は、その個々の過程を詰めるところから始まる。たとえば二酸化炭素が温室効果を持つかどうか、のように。だから、個々の研究者としては、ついつい自分が研究した部分から全体に敷衍し結論を出しがちになる。しかし複雑系が絡むと厄介なのは、そう単純には結論まで持っていけないところだ。二酸化炭素の増加には地球の冷却をもたらす過程もあるのだ(いまのところ、結果的には温暖化に寄与するようであるが)。
 二酸化炭素と温暖化は一つの例であり、決着がつくまでに多くの面からの考察が必要であることを示している。しかし、アカデミックな研究と違い、これらはなんらかの対応が迫られるものでもある。そこで著者が提案するのは「予防措置原則」だ。あるいは「リスク管理」と言い換えてもいいかもしれない。
 まあそういう意味でいうと、最悪のケースを想定して、現状の判断としては起こりそうにないことでも万が一起きたら大変になることについては(たとえば遺伝子組み換え作物など)、予防的な研究を優先すべきだ、としているので、リスク管理の文脈で言われてきたこととそう大きな違いはないのかもしれない。
 第3種疑似科学に陥りかねない現象は、政策決定とも絡むだけに分析が難しい。現象を規定する過程の一部だけを見ても判断がつかないからだ。これについては、この本はあくまでも問題提起であり、今後、もっともっと議論していかないといけないという捉え方が良いのではないか、と思う。

 たぶん、この本は「はじめに」を読んだら「あとがき」に目を通し、それから本文を読むのがいいと思う。そこには著者の問題意識が書かれている。

 というわけで、あまりまとまってませんが、こんなところ。

 ちなみに参考文献の中にはきくちさんと天羽さんのウェブページが挙げられている。どういう顔して池内さんがこれらのウェブページを読んでいたのか想像すると、ちょっと微笑ましかったり。

疑似科学と科学の哲学/伊勢田 哲治
¥2,940
Amazon.co.jp


『自衛隊の国際貢献は憲法九条で』

 hietaroさんところで議論させてもらっている うち、やはり読まねばなるまい、と思い、読んでみた。
自衛隊の国際貢献は憲法九条で―国連平和維持軍を統括した男の結論/伊勢崎 賢治
¥1,470
Amazon.co.jp
 いやいや、これは凄いですよ。「リアルな現実」(こうとしか言いようがない)が展開され、実に説得力がある。
 著者は、アフガニスタンで日本政府特別顧問として武装解除を実施したり、東チモールやシエラレオネなどでも国連や国際NGOの一員として活動するなど、まさに「抜き差しならない現実」が日々目の当たりにされる現場を生きてきた人。
 読みながら、あれも紹介したいこれも紹介したいと思っているうち、結局全部重要なので、読んでもらうしかない、という結論になった。というわけで、とてもおすすめ。
 が、それだけでもなんなので、幾つか感じたことを書いてみたい。

 一つは、「美しい誤解」。何かと言うと、アフガンで活動する中で、日本は平和国家であり、決してアメリカに追随して武力で他国をどうにかしようなどということは考えていない国である、という「誤解」が広くあったというのである。これが、日本がアフガンの人々から信用され、武装解除を成功に導いた大きな要因であるというのだ。これは著者だけではなく、事情を知る日本以外の関係者の間でも「美しい誤解」だなという認識であったらしい。
 ところが、日本政府の首脳がアフガンをはじめとする中東を訪問するなかで、自衛隊に「感謝の念」を言わせたくて、逆に自衛隊の現実を知らしめてしまった。そのため、現地で活動する日本人も苦境に立たされるし、今後は中立という立場が崩壊してしまうため、日本が活躍できる場(そして、日本でなければできない仕事)ができなくなってしまうのではないか、と危惧されている。
 つまり、憲法9条をきっちり遵守することが、今後の日本の国際的な地位を向上させる上でも重要なのではないか、という話(もちろんただ守っていればいいというわけではなくて、そういう立場の国だからこそできる活動をしっかりやらなければならない、と)。

 次に、自衛隊の活用ということについて。
 著者の立場は、「現在の日本国憲法の前文と第九条は、一句一文たりとも変えてはならない(p.9)」というものだ。しかし、自衛隊はもっと色々活用できると主張している。
 それは、例えば国連平和維持軍司令部への派遣。あるいは、非武装の軍事監視団への派遣。
 こういうところへの派遣であれば、非武装であり、9条に抵触せず、国際貢献も可能である、と説く。
 このような活動は重要だと思う。ただ、そうだとすると、それは自衛隊でなくてもいいのではないか、という疑問も生じる。
 紛争現場で貢献しようとするなら(それはやるべき活動であると私も思うが)、軍事的知識は絶対に必要だし、各国の軍隊との交流も必要になるだろう。だが、必要なのは軍事に精通することであって、軍事力そのものではないだろう。軍事力を持たない国・日本、という看板が、紛争当事者からの信頼を生み、紛争解決に重要であるならば、いまの自衛隊のような軍事力は必要ないのではないか。そうではなくて、軍事に精通した非武装の部隊(と言っていいのかわからないが)を作り、海外に派遣するようにしたほうがいいのではないか、と思った。もちろん、軍事に精通するためには兵器をいじってみることも必要かもしれない。だが、それはもはや「戦力」ではないだろう(「自衛隊は戦力ではない」というようなゴマカシではなくて、文字通りの意味で)。このあたりは、今後議論を深めて検討していかなければならないのではと思う。

 最後に、いわゆる「護憲派」の人々に対する印象。
 著者はもともとは改憲に近い考えであったという。また、「護憲派」とされる人々の行動を傍で見ていて違和感を持ち続けていたという。ここでいう「護憲派」というのは、最近のあちこちのブログで「こんな人たちは困るね」みたいに登場する「考えなしの護憲派」「とにかく9条があればそれでいい」的な人々だ。
 ところが、多くの活動を終え、著者は護憲を主張するようになる。そこで様々な「護憲派(9条についての)」から取材を受けるなどして接触の幅がひろがっていく。その中で、「護憲派」にも色々あり、考えている人々もいるのだ、ということを知るようになる。
 せめて「序章」は立ち読みでもいいから読んでみていただきたいのだが(著者・編集者の方スミマセン)、少しそこから引用する。
 護憲派の人びとと接触してみてわかったことがある。護憲派の中にも、現場の現実に即して考えなければならないと思っている人びとがいたことだ。
 それまでの僕の護憲派のイメージというのは、いわゆる護憲という概念ばかりにしがみついて、引っ込み思案になっているというものだった。つまり、軍事組織が役に立つということが少しでもわかってしまうと、それは自分たちがやってきた主張に反するということで、現実を意識からシャットアウトしている人たちだと思っていた。
 だが、実際に接触してみると、それでは先はないだろうと考え始めている人たちが、護憲派の人たちの中にいることがわかった。心強いことであった。実際、「九条の会」のセミナーに小田実さんと一緒に出ていってアフガニスタンの紛争現場の話をしたら、とにかく聴衆の反響はいい。うなずきながら、真剣に聞いている。寝る人も一人もいない。(pp.16-17)
 「序章」の最後はこう締めくくられている。
 二〇〇七年八月にNHKの九条についての討論番組に出て、僕は「護憲派」の席に座ったのだが、「改憲派」の代表の中にも、九条の文面を変えるかどうかという角度で見ると「改憲」に区分されるのだが、紛争を解決したいとか、そのために日本が貢献できるようになりたいとか、僕と変わらない気持ちの人びとがいた。
 九条が武力紛争解決に役立つとわかれば、そしてそういう現実を共有できれば、護憲派と護憲的改憲派の人びとは手を握ることができると、僕は思う。そうすれば大きな勢力ができあがると確信する。
 では、なぜ九条を変えてはならないと思ったのか、僕が体験したことを話していこうと思う。まず東チモールからである。(pp.18-19)
 争点と言う意味では9条を変えるか変えないか、ということになってしまうから、運動としては「9条維持」で一致する人々を結集することになるが、しかし「何をやりたいか」というところでは、むしろ改憲を主張する人と一致するかもしれないのだ。それは、結局9条を護りたいと思っている人々が、なぜ、何のために9条を護りたいのかを、それぞれ自分の言葉で語る必要があるということだろう(そしてそれは一致している必要はない)。問題意識を深めることが重要だ。


 我々はとかく評論家になりがちである。ついつい9条護憲派の問題点を外部から評論してしまう。しかし、我々も主権者である。どういう立場であろうとも、一人ひとりが憲法と向き合わないといけないのだ。
 ニセ科学を批判していると、必ず「どっちもどっち」的な反応をする人がいる。9条についても、熱心に運動している人を、「自称中立」的な視点から「ニセ科学を批判してるなんてヒマだねえ」とか「自分とは違う種類の人だねえ」とかどこかで思っていないだろうか。自戒せねばならない。

 なお、この本の編集者は、きくちさんと香山リカ氏の「信じぬ者は救われる」の編集者でもある。こちら(「編集者が見た日本と世界」)。
 また、5/15のエントリでは、著者の伊勢崎さんに関連して、いわゆる「護憲派」の人びとについても色々コメントされているので、要注目。

***

 この本の表紙、上の画像でわかるだろうか。シエラレオネで自分が携帯していた自動小銃をハンマーで壊す少年兵、だそうだ。この少年、少年兵だけで構成されるゲリラ部隊の隊長だった。この「ハンマーで壊す」というのは、国連による武装解除の最後の儀式だそうなのだが、多くの少年が、この作業で涙を流すという。
 なんと言ったらいいのか。言葉もない。