『自衛隊の国際貢献は憲法九条で』
hietaroさんところで議論させてもらっている
うち、やはり読まねばなるまい、と思い、読んでみた。
著者は、アフガニスタンで日本政府特別顧問として武装解除を実施したり、東チモールやシエラレオネなどでも国連や国際NGOの一員として活動するなど、まさに「抜き差しならない現実」が日々目の当たりにされる現場を生きてきた人。
読みながら、あれも紹介したいこれも紹介したいと思っているうち、結局全部重要なので、読んでもらうしかない、という結論になった。というわけで、とてもおすすめ。
が、それだけでもなんなので、幾つか感じたことを書いてみたい。
一つは、「美しい誤解」。何かと言うと、アフガンで活動する中で、日本は平和国家であり、決してアメリカに追随して武力で他国をどうにかしようなどということは考えていない国である、という「誤解」が広くあったというのである。これが、日本がアフガンの人々から信用され、武装解除を成功に導いた大きな要因であるというのだ。これは著者だけではなく、事情を知る日本以外の関係者の間でも「美しい誤解」だなという認識であったらしい。
ところが、日本政府の首脳がアフガンをはじめとする中東を訪問するなかで、自衛隊に「感謝の念」を言わせたくて、逆に自衛隊の現実を知らしめてしまった。そのため、現地で活動する日本人も苦境に立たされるし、今後は中立という立場が崩壊してしまうため、日本が活躍できる場(そして、日本でなければできない仕事)ができなくなってしまうのではないか、と危惧されている。
つまり、憲法9条をきっちり遵守することが、今後の日本の国際的な地位を向上させる上でも重要なのではないか、という話(もちろんただ守っていればいいというわけではなくて、そういう立場の国だからこそできる活動をしっかりやらなければならない、と)。
次に、自衛隊の活用ということについて。
著者の立場は、「現在の日本国憲法の前文と第九条は、一句一文たりとも変えてはならない(p.9)」というものだ。しかし、自衛隊はもっと色々活用できると主張している。
それは、例えば国連平和維持軍司令部への派遣。あるいは、非武装の軍事監視団への派遣。
こういうところへの派遣であれば、非武装であり、9条に抵触せず、国際貢献も可能である、と説く。
このような活動は重要だと思う。ただ、そうだとすると、それは自衛隊でなくてもいいのではないか、という疑問も生じる。
紛争現場で貢献しようとするなら(それはやるべき活動であると私も思うが)、軍事的知識は絶対に必要だし、各国の軍隊との交流も必要になるだろう。だが、必要なのは軍事に精通することであって、軍事力そのものではないだろう。軍事力を持たない国・日本、という看板が、紛争当事者からの信頼を生み、紛争解決に重要であるならば、いまの自衛隊のような軍事力は必要ないのではないか。そうではなくて、軍事に精通した非武装の部隊(と言っていいのかわからないが)を作り、海外に派遣するようにしたほうがいいのではないか、と思った。もちろん、軍事に精通するためには兵器をいじってみることも必要かもしれない。だが、それはもはや「戦力」ではないだろう(「自衛隊は戦力ではない」というようなゴマカシではなくて、文字通りの意味で)。このあたりは、今後議論を深めて検討していかなければならないのではと思う。
最後に、いわゆる「護憲派」の人々に対する印象。
著者はもともとは改憲に近い考えであったという。また、「護憲派」とされる人々の行動を傍で見ていて違和感を持ち続けていたという。ここでいう「護憲派」というのは、最近のあちこちのブログで「こんな人たちは困るね」みたいに登場する「考えなしの護憲派」「とにかく9条があればそれでいい」的な人々だ。
ところが、多くの活動を終え、著者は護憲を主張するようになる。そこで様々な「護憲派(9条についての)」から取材を受けるなどして接触の幅がひろがっていく。その中で、「護憲派」にも色々あり、考えている人々もいるのだ、ということを知るようになる。
せめて「序章」は立ち読みでもいいから読んでみていただきたいのだが(著者・編集者の方スミマセン)、少しそこから引用する。
我々はとかく評論家になりがちである。ついつい9条護憲派の問題点を外部から評論してしまう。しかし、我々も主権者である。どういう立場であろうとも、一人ひとりが憲法と向き合わないといけないのだ。
ニセ科学を批判していると、必ず「どっちもどっち」的な反応をする人がいる。9条についても、熱心に運動している人を、「自称中立」的な視点から「ニセ科学を批判してるなんてヒマだねえ」とか「自分とは違う種類の人だねえ」とかどこかで思っていないだろうか。自戒せねばならない。
なお、この本の編集者は、きくちさんと香山リカ氏の「信じぬ者は救われる」の編集者でもある。こちら(「編集者が見た日本と世界」)。
また、5/15のエントリでは、著者の伊勢崎さんに関連して、いわゆる「護憲派」の人びとについても色々コメントされているので、要注目。
***
この本の表紙、上の画像でわかるだろうか。シエラレオネで自分が携帯していた自動小銃をハンマーで壊す少年兵、だそうだ。この少年、少年兵だけで構成されるゲリラ部隊の隊長だった。この「ハンマーで壊す」というのは、国連による武装解除の最後の儀式だそうなのだが、多くの少年が、この作業で涙を流すという。
なんと言ったらいいのか。言葉もない。
- 自衛隊の国際貢献は憲法九条で―国連平和維持軍を統括した男の結論/伊勢崎 賢治
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著者は、アフガニスタンで日本政府特別顧問として武装解除を実施したり、東チモールやシエラレオネなどでも国連や国際NGOの一員として活動するなど、まさに「抜き差しならない現実」が日々目の当たりにされる現場を生きてきた人。
読みながら、あれも紹介したいこれも紹介したいと思っているうち、結局全部重要なので、読んでもらうしかない、という結論になった。というわけで、とてもおすすめ。
が、それだけでもなんなので、幾つか感じたことを書いてみたい。
一つは、「美しい誤解」。何かと言うと、アフガンで活動する中で、日本は平和国家であり、決してアメリカに追随して武力で他国をどうにかしようなどということは考えていない国である、という「誤解」が広くあったというのである。これが、日本がアフガンの人々から信用され、武装解除を成功に導いた大きな要因であるというのだ。これは著者だけではなく、事情を知る日本以外の関係者の間でも「美しい誤解」だなという認識であったらしい。
ところが、日本政府の首脳がアフガンをはじめとする中東を訪問するなかで、自衛隊に「感謝の念」を言わせたくて、逆に自衛隊の現実を知らしめてしまった。そのため、現地で活動する日本人も苦境に立たされるし、今後は中立という立場が崩壊してしまうため、日本が活躍できる場(そして、日本でなければできない仕事)ができなくなってしまうのではないか、と危惧されている。
つまり、憲法9条をきっちり遵守することが、今後の日本の国際的な地位を向上させる上でも重要なのではないか、という話(もちろんただ守っていればいいというわけではなくて、そういう立場の国だからこそできる活動をしっかりやらなければならない、と)。
次に、自衛隊の活用ということについて。
著者の立場は、「現在の日本国憲法の前文と第九条は、一句一文たりとも変えてはならない(p.9)」というものだ。しかし、自衛隊はもっと色々活用できると主張している。
それは、例えば国連平和維持軍司令部への派遣。あるいは、非武装の軍事監視団への派遣。
こういうところへの派遣であれば、非武装であり、9条に抵触せず、国際貢献も可能である、と説く。
このような活動は重要だと思う。ただ、そうだとすると、それは自衛隊でなくてもいいのではないか、という疑問も生じる。
紛争現場で貢献しようとするなら(それはやるべき活動であると私も思うが)、軍事的知識は絶対に必要だし、各国の軍隊との交流も必要になるだろう。だが、必要なのは軍事に精通することであって、軍事力そのものではないだろう。軍事力を持たない国・日本、という看板が、紛争当事者からの信頼を生み、紛争解決に重要であるならば、いまの自衛隊のような軍事力は必要ないのではないか。そうではなくて、軍事に精通した非武装の部隊(と言っていいのかわからないが)を作り、海外に派遣するようにしたほうがいいのではないか、と思った。もちろん、軍事に精通するためには兵器をいじってみることも必要かもしれない。だが、それはもはや「戦力」ではないだろう(「自衛隊は戦力ではない」というようなゴマカシではなくて、文字通りの意味で)。このあたりは、今後議論を深めて検討していかなければならないのではと思う。
最後に、いわゆる「護憲派」の人々に対する印象。
著者はもともとは改憲に近い考えであったという。また、「護憲派」とされる人々の行動を傍で見ていて違和感を持ち続けていたという。ここでいう「護憲派」というのは、最近のあちこちのブログで「こんな人たちは困るね」みたいに登場する「考えなしの護憲派」「とにかく9条があればそれでいい」的な人々だ。
ところが、多くの活動を終え、著者は護憲を主張するようになる。そこで様々な「護憲派(9条についての)」から取材を受けるなどして接触の幅がひろがっていく。その中で、「護憲派」にも色々あり、考えている人々もいるのだ、ということを知るようになる。
せめて「序章」は立ち読みでもいいから読んでみていただきたいのだが(著者・編集者の方スミマセン)、少しそこから引用する。
護憲派の人びとと接触してみてわかったことがある。護憲派の中にも、現場の現実に即して考えなければならないと思っている人びとがいたことだ。「序章」の最後はこう締めくくられている。
それまでの僕の護憲派のイメージというのは、いわゆる護憲という概念ばかりにしがみついて、引っ込み思案になっているというものだった。つまり、軍事組織が役に立つということが少しでもわかってしまうと、それは自分たちがやってきた主張に反するということで、現実を意識からシャットアウトしている人たちだと思っていた。
だが、実際に接触してみると、それでは先はないだろうと考え始めている人たちが、護憲派の人たちの中にいることがわかった。心強いことであった。実際、「九条の会」のセミナーに小田実さんと一緒に出ていってアフガニスタンの紛争現場の話をしたら、とにかく聴衆の反響はいい。うなずきながら、真剣に聞いている。寝る人も一人もいない。(pp.16-17)
二〇〇七年八月にNHKの九条についての討論番組に出て、僕は「護憲派」の席に座ったのだが、「改憲派」の代表の中にも、九条の文面を変えるかどうかという角度で見ると「改憲」に区分されるのだが、紛争を解決したいとか、そのために日本が貢献できるようになりたいとか、僕と変わらない気持ちの人びとがいた。争点と言う意味では9条を変えるか変えないか、ということになってしまうから、運動としては「9条維持」で一致する人々を結集することになるが、しかし「何をやりたいか」というところでは、むしろ改憲を主張する人と一致するかもしれないのだ。それは、結局9条を護りたいと思っている人々が、なぜ、何のために9条を護りたいのかを、それぞれ自分の言葉で語る必要があるということだろう(そしてそれは一致している必要はない)。問題意識を深めることが重要だ。
九条が武力紛争解決に役立つとわかれば、そしてそういう現実を共有できれば、護憲派と護憲的改憲派の人びとは手を握ることができると、僕は思う。そうすれば大きな勢力ができあがると確信する。
では、なぜ九条を変えてはならないと思ったのか、僕が体験したことを話していこうと思う。まず東チモールからである。(pp.18-19)
我々はとかく評論家になりがちである。ついつい9条護憲派の問題点を外部から評論してしまう。しかし、我々も主権者である。どういう立場であろうとも、一人ひとりが憲法と向き合わないといけないのだ。
ニセ科学を批判していると、必ず「どっちもどっち」的な反応をする人がいる。9条についても、熱心に運動している人を、「自称中立」的な視点から「ニセ科学を批判してるなんてヒマだねえ」とか「自分とは違う種類の人だねえ」とかどこかで思っていないだろうか。自戒せねばならない。
なお、この本の編集者は、きくちさんと香山リカ氏の「信じぬ者は救われる」の編集者でもある。こちら(「編集者が見た日本と世界」)。
また、5/15のエントリでは、著者の伊勢崎さんに関連して、いわゆる「護憲派」の人びとについても色々コメントされているので、要注目。
***
この本の表紙、上の画像でわかるだろうか。シエラレオネで自分が携帯していた自動小銃をハンマーで壊す少年兵、だそうだ。この少年、少年兵だけで構成されるゲリラ部隊の隊長だった。この「ハンマーで壊す」というのは、国連による武装解除の最後の儀式だそうなのだが、多くの少年が、この作業で涙を流すという。
なんと言ったらいいのか。言葉もない。