戦後の日本を支えてきた人たち | ほたるいかの書きつけ

戦後の日本を支えてきた人たち

 後期高齢者医療制度(政府は急に「長寿医療制度」などというゴマカシもいいところの名称に変えてきたが)の保険料の天引きが始まったこともあってか、このブログに「後期高齢者」と「扶養家族」のキーワードの組み合わせでこられる方々が急増している(このエントリこのエントリ で触れた)。切実なのだと思う。こうやって取れるところから金を取り、派遣派遣で労働者を不安定にさせる一方で、大企業には減税し、赤字必至の高速道路やらバカデカイ橋を作ってゼネコンを儲けさすわけだ。

 ところで、大槻義彦氏のブログの最新のエントリ「赤城の子守唄」 には感銘を受けた。短いエントリだからぜひ読んで欲しい。大槻氏が検査入院した際、隣の病室にいる80過ぎの末期ガン患者がずっと「赤城の子守唄」のテープをかけていたのだが、夜中に時々唄にまじって「くやしいなあ…」という声が聞こえてきたというのだ。
 大槻氏は言う。
 戦争で奪われた青春。奪われた肉親。しかし、彼の人生が台無しにされたのは、この時ばかりではなかった。
 やがてくる高度経済成長。早朝から深夜まで、雑巾のようにこき使われた。

 このような日本の繁栄は戦死者の犠牲のもとに築かれた、と、この国の指導者はうそぶくがそうではなかった。戦死を免れて生き延びた人たちが犠牲になって働いたのだった。
 そして、いま「後期高齢者医療制度」によって、具体的にこの国を支えてきた人々が切り捨てられようとしている。
 こういうのを、「人の道に外れる」というのではなかったか。
 そして、「人の道に外れ」た人々が、「もっと道徳教育を!」と叫ぶこの矛盾。
 我々が選んでしまったのが、こういう「人の道に外れ」た政府なのだ。直視せねばなるまい。

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 大槻氏についてはニセ科学批判の仕方について色々あるけれども、しかし批判する動機の根底においては、やはりこういう問題意識が共通してあるのではないか。ニセ科学を信じる人が科学と違う部分に魅かれて信じるように、ニセ科学を批判する人も、その多くは科学でないものを科学で言っているからという理由で批判しているのではないのではないか。ニセ科学を信じてしまうことによって人々が被る被害-悪徳商法に限らず、例えば水伝を信じることによる被害のような、曖昧な「被害」も含めて-に心を痛めているからではないのか。
 もちろん、ニセ科学が蔓延することで、限られた「パイ」が奪われ本来の科学に割けるリソースが減るという問題は大きい。しかし、それは極論すれば副次的な作用であって、仮にニセ科学が蔓延しようがしまいが科学に割かれるリソースに変化がなくたって、きっとニセ科学を批判すると思う。その上で科学にとってもいいことがあるならばさらに良い、と。

 無論、これは私の場合は、ということであって、皆がそうであるとは思わないし、またそうである必要もないと思う。ただ、科学でないからという理由で批判するのであれば、私だっておそらく「と学会」的に生暖かく見つめてニヤニヤ笑って眺めるだけだろう(実際、UFOの写真集や宇宙人の死体写真集なるものとか持ってますが、そういうのを見るときは笑いながら見るわけで)。ニセ科学の批判というのは、それだけでは済まない何かがあるから批判するのだ、と(少なくとも私の場合は)思うのだ。