ほたるいかの書きつけ -45ページ目

関東地区小・中学校女性校長会の件について:私のスタンス

 あちこちで言及していただき、またあちこちからリンク・ブックマークをつけていただき、ありがとうございます。
 限られた範囲ではあるのですが、いくつかのウェブサイトを見ていて気になったので、私の基本的な考えを述べておきたいと思います。

 この研修内容は(事実とすれば)到底容認できるようなものではありません。アレンジされた関係者の方々が善意で実行したことを疑うつもりは毛頭ありませんが、結果として出てきたものは、子どもたちの将来に甚大な悪影響を与えるものであり、善後策すら考える必要があると思っています。

 一方で、だからといって関係者を処分しろ、とか、文科省が介入して云々、のような話には反対します。

 あくまでも、現場の教師たちの力で、問題点を見つけ出し、解決策を探り、より良い教育の道を進んでほしいと思っています。

 いま危惧しているのは、子どもたちへの影響とならび、東京の石原知事や大阪の橋下知事のような、横暴でなにもわかっていない権力者が、教育への不当な介入をする口実にこの事件を使うことです。それは、「水伝」教育どころではない壊滅的な打撃を与え、結果的に子どもたちが最大の被害者となることでしょう。

 したがって、私はあくまでも、関係者による自律的な対策を期待しています。無論、そのことは、批判を控えることにはまったくつながりません。自律的で自由な相互批判によってのみ、この問題を良い方向で解決に向かわせることができると信じているからです。つまり、最終的には関係者が自分の頭で納得する必要があるということです。処分云々ではなく、何がおかしいのかを指摘するような批判が大事だ、と言いたいのです(私もネット上で批判するだけではなく、その方向で、裏でも―というか表というべきか―ちょっと動いています。微力なのは自覚していますが)。

 東京では、職員会議で挙手による採決を禁止する通達が出されているそうですが、このようなことをしていれば、教師間での相互批判がなくなり、教師たちが分断され、問題のある教育をしている教師が放置されます。それではなにもよくならない。
 今回の問題と直接関係はしませんが、その意味でも、教育委員会の公選制の復活を真剣に考えてもいい段階に来ているのではと思っています。

 また、詳細は残念ながら存じませんが、容易に想像できることとして、多くの女性教師が差別に喘ぎながらも、声を挙げることで、女性管理職が少しづつ増えてきたのでしょう。そのような歴史を考えるならば、女性校長会には今後ともますます頑張ってもらわなければなりません。

 最後に、教育基本法から今回の件に関連しそうな部分を一部抜粋したものを示します。改「正」されたとはいえ、大事な部分はそれでもまだ残っていますから。
 太字は引用者によるものです。全文はこちら から。

(以下一部抜粋)
我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。

第一条  教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

第二条  教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。

第九条  法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない
 前項の教員については、その使命と職責の重要性にかんがみ、その身分は尊重され、待遇の適正が期せられるとともに、養成と研修の充実が図られなければならない。

第十三条  学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする。

第十六条  教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。

無論、16条は、特に問題のある条文に変えられてしまったわけですが…。

 妙なバッシングにつながることだけは避けたいので、慌ててエントリ起こしました。どうかご理解いただけますよう。


『教育現場に水のメッセージを』(『Hado』9月号)(追記あり)

(9/30追記:件の校長先生に問題が伝わったようです。こちらのエントリ をどうぞ。)

 というわけで、遅くなりましたが、前回のエントリで書いたように、江本が講演したという記事について紹介します。

 本エントリの表題は、そのままこの記事の表題である。2ページ見開きの記事で、「OFFICE MASARU EMOTO」の甲斐富紀子氏によるレポート、という体裁になっている。
 本記事は次のような文章で始まる。
今年3月初め「EMOTO PEACE PROJECT」の事務局であるOFFICE MASARU EMOTOに、1本の電話がありました。
電話の主は、埼玉県所沢市にある小学校の校長先生からで、その内容とは、
「7月に予定されている関東地区女性校長会の総会に『水からの伝言』の著者である江本勝氏の講演をお願いできないでしょうか」というものでした。(以下略)
 なお、記事に掲載されている写真には、「平成20年度 関東地区公立小・中学校女性校長会総会・研修会」とある。
 というわけで、この記事によれば、おそらくは今回の研修会のアレンジに関わった校長からアプローチがあったのだろうと思われる。
 続く文章によれば、この研修会は以下のようであったらしい。
 講演は、7月4日、関東地区の女性校長約120名のご参加のなか、埼玉県南浦和にあるさいたま市文化センターで開催されました。
とのことだ。

 以下、甲斐氏によるレポートになるが、短い文章である(1ページの半分)し、彼らが伝えたいことが端的に要約されていると思われるので、全文引用する。
  私たちの「いのち」の源が
  水であること。
  「いのち」のもとである水
  水を大切にすること
  それは、私たちの「いのち」を
  大切にするということ

というメッセージを発信。そして水と振動の関係、水にさまざまな言葉や文字、絵を見せたり、音楽や朗読を聴かせた水の美しい結晶が紹介されました。
 とくに印象に残ったのは、
「『水は言葉の鏡』であり、私たちの言葉や心を、まるで鏡のように映し出してくれている」ということでしょう。

 また、水だけではなく、ご飯に「ありがとう」と「ばかやろう」の言葉をかけ実験を続けてくださった山形県の小学校教諭、K先生(引用者注:原文では実名)のご紹介。さらに、小学校5年生の女の子の実験も紹介されました。
 この女の子は、自分の行った実験によって得た結果について、素直に次のように表現しています。
 「実験を終えて『言葉の力ってすごいんだな。言霊って本当にあるんだな』って、しみじみ感じています。
 言葉は心の表れです。どんな心で生きているかが水を変え、水の変化がミカン、イチゴ、ヒヤシンス、朝顔、貝割れ大根の体を変えていったのだと思います。
 良い心から良い言葉が生まれ、言葉が水を変え、世界を良い方向に変えることができるなら、私も、私にできることから、私なりの方法で世界をきれいにしていきたい。
 お父さん、お母さん、弟たち、友だち、そして私の出会うすべての人に心のこもった『ありがとう・大好き』をたくさん言ってあげたい。
 悪い言葉は、もう決して使わない。」

 また、最近の実験から、韓国の大学病院産婦人科との共同研究として、妊婦さんの羊水に音楽や言葉を見せた結晶も紹介されました(46ページに関連記事)。(引用者注:同じ号に、羊水をホメオパシーにならって5万倍に薄めた水の結晶が紹介されている。下参照)

 そして、最後に、現在展開しております「EMOTO PEACE PROJECT」の説明が行われ、子どもたちに絵本を配布したいという小学校には、無料でご提供させていただくと申しあげました。
 すると、後日、各小学校より続々と注文があり、すでに約7000冊の絵本が関東圏内の子どもたちの手元に届けられました。

 オープンな心で、愛情と熱意をもって教育にあたっておられる、たくさんの女性の校長先生方を前に、明るい希望が感じられた、そんな一日でした。

 ありがとうございました。
なお太字は原文のままである。
 ツッコまなければならない部分は沢山あるのでどこから手をつけたものやら、という感じである。

 まず羊水の問題であるが、これは本号の別記事の一部として述べられている。この記事自体、かなりキているので(キていない記事があるのか、という問題は別にして)、後日別エントリを立てたいと思う。ただ、羊水の部分はその記事のうちのごく一部分であるので、ここで紹介しておく。
 先生が用意した妊婦さんの羊水をホメオパシー溶液の倍率である5万倍に薄めた水の結晶を撮影しました。
 羊水の結晶です(写真1)。この羊水に韓国語で「堕胎」という言葉を見せて撮影すると(写真2)、何か文字のようなものが現れました。
 羊水に子どもの写真を見せたら、とってもいい結晶になりました(写真3)。
その他、ブラームスの子守唄やダフトパンク(なぜダフトパンク?^^;;)を聴かせた場合の結晶が紹介されている。
 相変わらずの安易な実験デザインと解釈であるが、特に羊水を使うということには怒りを禁じえない。「何か文字のようなもの」と言っているが、子どもの写真を見せたらとってもいい結晶になったということと対比させていることからして、「堕胎」は悪である、と暗に言っているといっても差支えないであろう。文脈から切断された単語に善悪を付与するという安易な発想がここでも如何なく発揮されてしまっている。
 ついでに指摘すると、ホメオパシーでは単に5万倍希釈をするだけではなくて、さきに薄めた3Cなどのレメディを、さらに5万倍希釈する(LMやQ)と聞いたのだが、違うのだろうか?また5万倍希釈も何度も繰り返すのだと思うのだが。wikipedia 英語版の Homeopathy の項目にも、20Qは大体47Cに相当(Cは100倍希釈、47Cは100倍希釈を47回繰り返す)と書いてあるし、20回ぐらいは5万倍希釈を繰り返すのでは?

 次に言葉の意味の問題であるが、詳細はあちこちで論じられているのでおいておくとして、将来(というか今も)、この女の子は文学を読めなくなってしまうのでは?「水伝」は一種の言葉狩りをやっているわけなので、そうなると悪とされた単語を使用する小説などは読めなくなってしまい、豊かな心を育むという点でも大問題であると思うのだが。

 そして、江本の絵本がなんと7000冊も発注されてしまった。しかも小学校から。いったいどういうことだ。暗澹たる気分になる。

 会場には120名もの校長が集まっていたのだから、疑問を持つ人はいたとおもうのだが、どうだったのだろうか。疑問を持つような人は、演者・演題を見ただけで、参加を見合わせたのだろうか。いずれにしても、教育界の自浄作用が発揮されることを強く望む。ほっておけば、教育への政治的な介入に口実を作ってしまうことになりかねない。このままなあなあで済ましてしまってはいけないと思う。

江本勝が「関東地区女性校長会」で講演!?(追記あり)

(追記)別エントリにて詳細を報告しています。こちらへどうぞ

 今現在も出張中なわけですが。
 例によって新宿紀伊国屋本店で『Hado』9月号を購入してパラパラめくっていたら、目を疑うような記事に出っくわした。
 「関東地区女性校長会」で、江本勝が招かれて講演したというのだ。

 とりあえず『Hado』の紹介ページ に行くと、目次が読める。こう堂々と書かれているからには実際に講演したのだろう。一方、「女性校長会」 のウェブを見ると、この件がまったく載っていない。しかし、8月にページを全面的にリニューアルしたとのことだし、会則第16条には関東地区を置くことが書いてあるので、おそらくこの組織なのだろう。

 googleで検索しても、この件は見つからない。江本のウェブページを見ても、『Hado』の目次以外には一切載っていない。一体どうなっているのか、誰が呼んだのか、参加者の感想はどうだったのか。

 いずれにしても、本当であれば大問題であろう。実際、講演後に、いくつかの学校からまとめて『水伝』の発注があったそうだ。

 出張が終わったら、記事の内容について、もう少し詳しいエントリをあげたいと思います。

国民にとって無意味な政権交代

 あちこち出張に行ったりしてなかなかネットを巡回できず、ましてや自分のブログを更新することもままならない状態ですが、さすがに大問題だと思うので、少しだけコメント。

 福田首相の辞任表明だが、福田やその周辺の「思惑」についてアレコレ詮索してなにかわかった気になるのはもうやめよう。そんなことは、はっきり言ってどうでもいい。
 われわれが考えるべきことは何か。それは、福田が何をやってきて、次の首相がなにをやろうとするか、だ。

 とはいえ、その答えは明白である。自民党から首相が出る限り―そして民主党が仮に政権を取ったとしても―われわれにとっては大差ない、ということである。
 この10年のわれわれの生活がなぜ苦しいか。それは大企業対策を優先し、一般国民のことはそのオコボレで十分であるという政策が大手を振ってまかり通ってきたからと言って過言ではないであろう。法人税が半減していることに端的にあらわれているように、財界の意向を最大限に尊重し、その意向に反しない程度に国民の人気取りに腐心してきたというのがこの10年の自民党「的」政権の基本姿勢だろう。
 だから、自民党政権が続く限り、われわれは何かを期待すべきではない。もちろん、期待できないということと、文句を言うこととは別である。大いに文句を言うべきである。
 
 問題は、自民党「的」政策が続いているということにある。ということは、つまり、自民党の所詮はコピーにすぎない民主党が政権を取ったところでわれわれの苦境はなにもよくならないということを意味する(部分的に良くなる部分はあるかもしれないが、全体として悪くなる方向が変わることはない)。

 われわれが見るべきなのは、誰が次の首相に、とか、どういう思惑でこうなったか、ということではなくて、われわれの生活(広い意味で)に対して、どういう政策で臨むのか、その意味である。
 マスコミがジャーナリズムを標榜するのであれば、その視点での報道を強く望む。内輪のドタバタなどどうでもいいのである。それがわれわれにどういう意味を持つのか、それを明らかにしてほしい。

「宗教の『急所』は何処にあるか」小林多喜二

 宗教は阿片だ、宗教は阿片だぞと、それをたとえ千ベン繰りかえしたとしても、そんなことが一体どうなるか、と云うことを私は云いたいと思うのです。阿片を飲めば身体がこんな風になると云われて居り、而もそのことを国法が禁じていてさえ、密輸入してそれを喫する人があるではありませんか。何故か。――こゝに秘密がある。――私はそう思っています。
 冒頭から引用で恐縮だが、これは最近出た『小林多喜二名作集「近代日本の貧困」』に収められている「宗教の『急所』は何処にあるか」という短文の冒頭の一節である。私は学生時代に文庫になっていた多喜二の作品を幾つか読んだきりなのだが(最近マンガになった『蟹工船』は、どんなマンガになったんだろうと思って読みましたが)、この作品集には小説だけではなく、この文章のようなパンフレット的な文章も収められている(小説でも「こんな文章も多喜二は書いていたのか!」と色々発見があったがそれはまた別の話)。

 さて、この文章を正しく理解するためには、当然当時の時代背景を思いやる必要がある。80年前の日本において、宗教がどのような役割を果たしていたか、だ。
 エラそうなことを書いておきながら私もよく知りはしないのだが、戦後、政教分離が厳密に行われるようになり(少なくとも建前としては)、もはや文化としての宗教としての側面の方が日常においては強くなったと言っても過言ではない今日の日本とは異なり、(相対的に)隅々まで宗教に支配されていたと考えるべきだろう。それは、例として加持祈祷が挙げられていることからも推し量ることができる。また、「現代の国家では(過去の政教一致の体制とは‐引用者注)ちがって、『神』と『政』又『神』と『教育』が離れていますが、本質にはちっとも違いなく、かえってその関係が巧妙に行われてると云って差し支えないのです。」と述べていることからも、かえって当時の時代状況から考えれば、相当強固に宗教が生活と密着していたことが伺える。

 この短文の結論は、要は宗教というものは現実社会の反映であり、現代(当時の)の資本主義社会における経済関係においては、貧困や窮乏、没落といったものが、人間にはどうすることもできない力となって襲ってくるものであり、そのような状況では、つい宗教を信じたくなるものだ、ということだ。マルクスの「宗教は顛倒している現実から来ているひとつの理論である。だから、その顛倒している現実が解体すると宗教も自ら破砕する」という言葉や、レーニンの「宗教に対する闘争は結局その顛倒している社会をもう一つでんぐり返りさせて、正当な社会にするために闘う階級闘争の具体的実践の一分野として、それと共に闘われなければならない。」という言葉が最後に引用されている。
 繰り返すが、ここでの「宗教」は無論現代社会における理性的な宗教でもないし、科学と共存し得るような宗教でもないし、また人生における価値を探る指針となるような宗教でもない。例えて言うならば江原啓之であり、科学的言辞を散りばめた占いであり、そしてニセ科学であろう。まさに「阿片としての宗教」である。

 というわけで、この短文が議論している内容は、ほぼそのまま現代におけるニセ科学の問題にも通ずるのではないか、と私には思える。現代的新興宗教(のうち社会的に問題のあるもの)やニセ科学が昔に比べれば大規模な体系を持っておらず個別的な部分にとどまっているものが多いなど、状況の違いを考慮すべき点は多々あるけれども、結局現実社会における矛盾からの逃避としての宗教であったりニセ科学であったりという側面をおさえておく必要はあるのだろう。
 上記レーニンの言葉を引用した直後の多喜二の言葉をここで引用しておく。
然しこう云ったからとて、無神論の理論的宣伝の効果をちっとも否定しているのではなく、たゞそれだけでは不充分だということなのです。(もの分かりのいゝ自由主義者とか、急進ブルジョワ学者は、この「しゃべる」方面だけでしか宗教の闘争をしないので、殊更にこのことを強調するわけです。)
ニセ科学批判の文脈で捉えるなら、「無神論の理論的宣伝」というのは個別のニセ科学の批判(ベタ)であったり論理的な科学哲学の把握(メタ)ということになるのだろう。
 『信じぬものは救われる』(香山リカ・菊池誠)についてのエントリ でも触れたが、ニセ科学批判が潜在的に(あくまでも潜在的に)持つ射程の長さというのは、本質的にはこのような部分から来るのだろう。
 結局は、あとからあとから湧いてくるニセ科学を撃破しつつ、その発生源となる社会の矛盾―「超自然的」なものを信じることでしか救済されないとしか思えない矛盾―を取り除くということが、根本的な「治療」のためには必要なのだと思う。もちろん、人間社会があるかぎり矛盾はあるだろうから、完全になくなるということはないのだろうけど。

 新書のたった8ページの文章なので、立ち読みでもいいから目を通されることをおススメします。実に明快な文章なので。いや、それ以外の短編も面白いのだけど。

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