裸のラリーズ - 青山ベルコモンズCradle Saloon '78 (Live, 1978) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

裸のラリーズ - 青山ベルコモンズCradle Saloon '78 (Live, 1978)
裸のラリーズ - 青山ベルコモンズCradle Saloon '78 (Live, 1978) :  

Released by Univive UNIVIVE-007, 4CD, 2006 (unofficial)
全作詞作曲・水谷孝
(Disc 1 & 2) Source1 + Source2
1-1. 氷の炎 - 7:58
1-2. 夜の収穫者たち - 8:02
1-3. 夜、暗殺者の夜 - 16:37
1-4. 夜より深く - 12:11
2-1. Blues - 24:26
2-2. Intermission - 13:05
2-3. The Last One - 40:54
(Disc 3 & 4) Source2 Only
3-1. 氷の炎 - 7:32
3-2. 夜の収穫者たち - 8:26
3-3. 夜、暗殺者の夜 -14:00
3-4. 夜より深く - 13:04
4-1. Blues  - 23:39
4-2. Intermission  - 13:32
4-3. The Last One - 41:51 

水谷孝 - vocals, lead guitar
三巻俊郎 - bass guitar
野間幸道 - drums 

 unofficialながら裸のラリーズ音源専門発掘として25点、70枚あまりの未発表スタジオ音源・ライヴ音源を高音質のオリジナル・サウンドボード・マスターをソースにリリースしてきたUnivive社は、データの正確さやマスターテープの良好さから先発のIgnatius社のリリース作品を一掃するほどで、生前の水谷孝(1948-2019)が直接関与していると思われていたレーベルでしたが、現在では正式にラリーズ音源を管理する公式サイトから水谷孝の関与を否定されています。いずれも2枚組~6枚組におよぶUnivive社からのリリースの中で、ファンの中ではテープ・コピーによる定番音源として流通されているものの、ラリーズ史上の問題作のひとつとされたのがこの「Cradle Saloon '78」で、2種類のテープから良好な部分をミックスしたディスク1・2と、ベーシックなソースとなったマスターからのディスク3・4という入念な形態でリリースされました。このライヴ・スポット「Cradle Saloon」で行われたコンサートでは、ラリーズの前座にこの出演がデビュー・ライヴとなったフリクションが出演しています。フリクションは元○△□、元3/3でニューヨークのパンク・シーンに触れて帰国し、アンダーグラウンド・シーンで注目されていたレック(b, vo)、チコ・ヒゲ(ds, sax)が結成したスリーピースのパンク・バンドで、このデビュー・ライヴではデビュー10年目のラリーズを上回る期待を集めていました。フリクションは翌1979年にギタリストにツネマツ・マサトシを迎えポスト・パンク色を強めますが、初代ギタリストのラピス在籍時だったこのデビュー・ライヴも3/3とノーウェイヴ・パンクをつなぐ音楽性で、のちの2008年にカメラマンでもあったレックの写真集『ZONE TRIPPER/FRICTION 1978-2008』の付録CDで公式リリースされ、盤起こしブートレッグでも流通しています。そちらも試聴リンクが引ければなお良かったのですが、1978年のラピス在籍時のフリクションはライヴ映像1曲、15分半で5曲のデモテープしかYouTubeから引けません(ただしライヴ映像には絶大な価値があります)ので、これが青山ベルコモンズでの裸のラリーズの前座でデビューを飾ったバンドと思ってください。
Friction - Crazy Dream (MV, Live 1978)  

Friction - Early Demo 1978 (Studio Demo, 1978) 

 一方裸のラリーズは、1975年11月には水谷、中村武志(g)、楢崎裕史(b)、三巻俊郎(ds)という公式アルバム『'77 Live』(Rivista, 1991)で聴ける最強ラインナップが揃ったものの、1977年8月の「第四回夕焼け祭り」出演後には同年12月に渋谷・屋根裏で四カ月ぶりのライヴを行ったのち、一年あまり活動を休止(事務所のスタッフ異動も重なってライヴができなかったとも言われます)してしまいます。1978年11月1日の青山ベルコモンズ「Cradle Saloon」でのコンサートは、いわばカムバック的な意味あいの強いものでした。これまで水谷孝のヴォーカルとリード・ギターを支えるために不可欠だったサイド・ギタリスト抜き、ドラマーだった三巻がベースに廻ったスリーピース編成のラリーズの演奏はしばしばリズムやアンサンブルが不安定で、それでも7曲で2時間強(「Blues」「Intermission」はともに長尺のギター・インプロヴィゼーションです)という演奏の長大さはライヴ定番の最終曲「The Last One」では1曲40分にもおよび、1973年後半のスタイル確立以降ではもっとも不安定なパフォーマンスがコンサート全般に渡って聴けます。「夜、暗殺者の夜」のリズム・パターンがレゲエとのミクスチャーになっているなど新たな体制ならではの試行もうかがえますが、成功の当否は微妙で、1976年~1977年の絶頂期ラリーズの演奏の完成度から一転して、途中で止まってしまうのではないかと思われるほどたどたどしい演奏が続きます。このコンサートで水谷孝はフリクションのラピスをセカンド・ギタリストに勧誘したとも言われ、1979年には水谷、三巻(ベースからギターに転向、つまり三巻俊郎はラリーズ史上ドラムス、ベース、ギターの全パートで活動したことになります)、Doronco(b)、野間(ds)の四人編成に戻ったラリーズは、1980年8月~1981年3月にはDoroncoがベース、野間がドラムスに残留したまま、山口冨士夫(元ダイナマイツ、村八分、1949-2013)をギターに迎え、山口冨士夫在籍期間には確認されただけでも7回のライヴ、未発表に終わったアルバム・レコーディング『Mars Studio 1980』(やはりUnivive盤で発掘されています)が行われています。

 在日イギリス軍人と日本人とのハーフに生まれた山口冨士夫は、64歳の2013年に福生市の駅前でタクシー乗り場で割りこもうとした在日アメリカ人と日本人との喧嘩を止めに割って入りアメリカ人に撲殺されましたが、山口在籍時のラリーズはラリーズ史上唯一と言ってよい、リーダーの水谷孝と対等なツイン・ギターの、強力無比なアンサンブルになりました。また山口冨士夫脱退以降のラリーズは山口と競った経験も反映したか、水谷孝のギターはさらにボトムの太い音色とフレーズに変化しました。しかしこの1978年の青山ベルコモンズ音源は、ほぼ一年間の活動休止を経て水谷孝自身が方向性に迷っている印象を受けます。1991年に裸のラリーズ初の公式アルバム3作が一気に発売された時に、水谷孝は「1978年の青山ベルコモンズ音源まで500時間分の音源から選んだ」と公言しており、実際には1968年~1969年音源の『'67-'69 STUDIO et LIVE』と1970年~1972年音源の『MIZUTANI -Les Rallizes Denudes-』の2作のコンピレーション、1977年3月12日の立川社会教育会館のCD2枚組ライヴ『'77 LIVE』がリリースされましたが、その時も結局この1978年音源は公式アルバムとしてはリリースされなかったのです。また、この「Cradle Saloon」コンサートはラリーズのカムバック・ライヴとして各種の音楽誌にコンサート評が載りましたが、前座のフリクションの好評と対照してラリーズの演奏は古くさいサイケデリック・ロック視され不評を買うことになりました。'50年代・'60年代のガレージ・ロックからサイケデリック・ロック、ハード・ロックやプログレッシヴ・ロックのアンダーグラウンド・バンドが、オルタナティヴ・ロックの系譜で再評価されるようになったのは1980年代後半以降のことです。1991年にバンド結成からほぼ25年にして初めて公式アルバムをリリースした裸のラリーズの本格的評価も、そうしたアンダーグラウンド・シーンのロック史の再評価に符牒を合わせたものになりました。そしてラリーズは日本のアンダーグラウンド・ロック・シーンのレジェンドとして1996年まで活動し、初回限定プレスだった3作の公式アルバムは日本のロックきってのプレミア盤となり、200枚あまりの海賊盤発掘スタジオ音源・ライヴ音源がリリースされる存在となります。

 前述の通り1978年のこの青山ベルコモンズ「Cradle Saloon」音源は水谷孝自身が公式アルバム編纂の際にリリースの視野に入れていた伝説的音源で、裸のラリーズ=水谷孝自身が公式マスター・テープを秘蔵していたとおぼしく、Univive盤が水谷孝自身による半公式レーベルと目されていただけあるオリジナル・マスターから起こされた最上級の音質で聴けるライヴ盤です。しかし本作で聴ける演奏はこれまでにご紹介した1974年の『明治学院大学ヘボン館地下・1974年7月13日』や『渋谷アダン・1975年10月1日』、『金城学院大学ロック・コンサート1976年10月30日』、『第四回夕焼け祭り・1977年8月13日』などよりも明らかに試行錯誤の跡が見える過渡的なもので、再び四人編成になり三巻俊郎がセカンド・ギターにまわった1979年ラインナップ、山口冨士夫を迎えた強力無比の1980年ラインナップに較べても異色の、セカンド・ギタリスト不在の水谷孝のギターがしばしばベース、ドラムスと乖離をきたしている、ボトムの弱さが露呈したライヴです。逆にそれゆえに演奏曲も多ければ1曲あたりの演奏時間も長く、2時間のセットリストで全7曲、「The Last One」にいたっては40分と記録的な長さの演奏になっているのも聴きものです。完成度では公式ライヴ『'77 Live』を筆頭に前記の発掘ライヴ音源をお薦めしますが、この青山ベルコモンズ・コンサートもラリーズこのライヴでしか味わえない、非常に特色のある音源には違いありません。本作についてはまた稿を改めて鑑賞してみたいと思います。