今年の2月、新宿の床屋に行った時、30代の若い理髪師が髪を切ってくれました。
「髪が太くて硬いですね」
「太くて硬いから白髪になったのかな。若い頃、床屋で女性の理髪師に髪を切って貰ってる時に、ハサミがバラバラになり、『お客さんの髪、硬すぎるから』って言われたことがあるよ」
「お客さん、お若く見えますね」
彼は私の歳を10歳くらいさば読んで若くみたらしい。
「お世辞がうまいね。それより10歳くらいは歳とっているよ」
自分では年取ったと思うけど、若い頃から若く見られてきた。男性は若いときは余り若く見られると、昔は何かと見下され、損をしたものです。歳をとってからも、元気だと思われ厄介な仕事を押し付けられたりするから、嫌なものですね。
「お客さん、クラス会か同窓会に出たことがありますか?」
突然訊いてきた。
「中学も高校も地方だからないよ」
「同窓会に出たら、みんな変わっていて誰が誰だか判らないて、親父が言ってましたよ」
今年の4月に高校の在京卒業生から同窓会を開くと通知が来ました。高校卒業以来出たことが無いので、思い切って出てみることにしました。
当時はこの写真のように立派な校舎ではありません。入学して最初に登校した校舎は北海道庁立札幌高等女学校という植物園の裏にあった女子の学校で、若くして亡くなった姉が卒業した学校でした。ひどくオンボロの校舎で、遅刻しそうになると教室の窓から飛び込んだ記憶があります。今は建て替えられて市立中央幼稚園になっているらしい。
それで、街の北側に急いで作った安普請の新校舎で、校舎の西側は牛が放牧されている長閑な農場で、匂いが漂ってきていました。
大学を出てからも付き合いがあった数人の卒業生以外は、男女とも誰が誰だか全然判りません。高校時代の私は無口で大人しいタイプだったと思うし、むしろ中学時代の方が活発だった記憶があります。中学時代から一緒だった友人の記憶も同じでしたから。
むしろ小学校や中学校の方が楽しい思い出が多い。子供の減少で母校が消えていく。私の小学校は札幌の時計台の南側にありました。明治時代に建てられた校舎で、室内運動場で飛び跳ねると、床がトランポリンみたいに揺れました。小学時代は活発で、野球、卓球、スピードスケート、鉄棒などをやり、学校代表でスキーの選手にも選ばれたりしました。今は跡地に市役所が建てられ、小学校はありません。
それに隣にあって公民館として使われていた豊平館も南の方に移設されています。その後に市民音楽ホールが建てられました。実家はお菓子屋で時計台の斜め前にありました。二階の窓から時計台の時計が見えましたから、2分前に家を飛び出しでも学校に間に合う距離でした。
中学は札幌の豊平川のそばにあり、西の円山公園から三越前を通って市電が走り、東の終点が中学校前でした。私は電車には乗らずに家まで歩いたものです。靴底が減って、靴屋さんで修理してもらうと、「すごいね、歩き方がいいんだ、踵が平らに磨り減っているし」と言われた記憶が蘇ります。
市立中学ながら当時珍しくモデルスクールに指定されており、週5日制で木曜日が休みでした。クラスも授業毎に移動するシステムだったと思います。明るく自由な雰囲気で、活気に満ちた中学でした。ヴァイオリンを始めたのも中学に入って直ぐでした。その後この校舎は札幌東高になり、今はありません。跡地に市民ギャラリーが建っているようです。
小学校も中学校も無くなり、記憶の中に残るだけ。今は児童の減少で小中学校の廃校や統合が当たり前ですから、皆さんも同じでしょうか?
Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学(University of Minnesota)へ留学した記録のホームページにもどうぞ