イーストアングリア - 016 | 遠い夏に想いを

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 さて今日も出かけるが、行き先はチャールズにお任せ。


 ここイーストアングリアはケンブリッジ、エセックス、ノーフォーク、サフォーク、ベドフォード、ハートフォード、リンカーンの7つのシャーからなり、ケンブリジ以外は日本人に馴染みが薄く、殆ど行かない。アメリカ人は結構来るらしい。とにかくアメリカ人の故郷みたいな土地だから。


 フランス人は英語をAnglais、英国をAngleterreと呼ぶ。アングロ人の言葉、アングロ人の土地。エセックスはイースト・サクソンの土地をいう。イーストアングリアは10世紀にアングロサクソン人が築いたイギリス七王国の一つがあった地域。大陸に最も近かったのでジュート人やデーン人やヴァイキングが押し寄せ、最後にノルマン人が侵入して現在のイギリスの基礎をつくる。イギリスで最も古い歴史の詰まった地域なのです。


 17世紀の中頃、王統派と議会派が内戦を起こした事がある。皆さんも高校時代の世界史で習った記憶があるかも知れません。議会派のピューリタンが優勢だったのがイーストアングリアと呼ばれる英国の東部地方で、ケンブリッジなどは彼等の本拠地であった。イーストアングリアの何処へ行ってもピューリタンの足跡があるという。


 フランス革命のように、民衆が王様の首を切ったのは、英国ではウイリアム征服王以来たった一度だけある。いわゆる、ピューリタン革命と言われるもので、首を切られたのはチャールス1世。


遠い夏に想いを-cromwell  ピューリタン戦争で民衆を率いて戦ったのはオリヴァー・クロンウエルである。名門の出で、ケンブリッジ大学を卒業し、17世紀前半を疾風のごとく駆け抜けた男。王様のいない一種の共和制をとり、彼は国王に代わって国の護民官となった。ところがピューリタンと呼ばれる人達は、プロテスタント主義の権化みたいな連中で、一般民衆は彼等の厳格な政治に飽き飽きしてしまう。まさに15世紀のフィレンツェのサヴォナローラのようにメディチ家を追い出して一種の共和制をとるのだが、余りに宗教による締め付けが強すぎて、民衆が反発し、サヴォナローラは火刑に処されてしまう。フランス革命のように宗教に無縁の民衆の不満が爆発したのとは違う。


 王様が生きていた時代が懐かしい、という訳で、また王政復古になる。この時、政治体制を変革する絶好の機会を逃してしまう。この時に共和制が続いていれば、英国はものすごく変わってしまったであろう。先ず、土地改革は間違いなく断行されたし、現在の千人ほどの貴族が英国の土地の大半を所有するという形態はなくなっていたであろう。ということは、英国は現在我々が見る景色と様相を異にしている筈だ。


遠い夏に想いを-cambridge  だが、現実はそうはならなかった。王政復古が断行されて、ピューリタンが逃れた先は新天地アメリカだった。だから、ハーバード大学など何処となくケンブリジに似ている。ハーバード大学の創始者、ジョン・ハーバードはケンブリッジ大学の卒業者でクロンウエルの朋友であった。ハーバード大学の所在地はケンブリッジというし、そばを流れる川も王様の名にちなんでチャールズ川だ。(右の写真はケンブリッジ大学)




遠い夏に想いを-replica  今でもアメリカの旧家と呼ばれるのはメイフラワー号でやって来た人達の子孫などが多い。これもピューリタン革命の後に行き場を失った人達がメイ・フラワー号でアメリカにやって来た。ピルグリムと呼ばれる移民である。(右の写真はボストンにあるメイ・フラワー号のレプリカ、1972年撮影)


遠い夏に想いを-thanks  この時、原住民から農作方法などを教えてもらって、秋には収穫を迎えた。この収穫を祝って神に祈ったのが感謝祭の始まりである。と同時にアメリカ・インデアンの受難の始まりでもあった。


 アメリカの小学校では、ピルグリムの話をいやと言うほど聞かされる。アメリカはプロテスタントの権化みたいな国だから、宗教活動もいまだに活発で、キリスト教の神様の存在を信じる学生が90%以上という国なのだ。だから、アメリカと戦争をする国は背後の見えざるキリスト教を敵に回すことになる。アメリカ人が「単純だ」という背景には、この福音書中心のプロテスタント至上主義がある。イーストアングリアのお話がとんでもない所に行き着いてしまったようだ。


 ミネソタの遠い日々 - New (「別れ」を掲載) -
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