聖徳太子がひらいた三輪山 平等寺 大三輪寺 三輪流神道 ~ 隆盛と廃仏毀釈
平等寺・十六羅漢像。
・・・・
大神神社の若宮社・大直禰宜子神社 かつての「大御輪寺」 と対をなすかのようにある「平等寺」。
山号「三輪山」。
本尊は釈迦如来。
かつては大神神社の神宮寺、「三輪流神道」を提唱し、
明治以前までは隆盛を誇っていました。
むかし聖徳太子が、賊徒を平定するために三輪明神に祈願しました。
みごと成就した暁には十一面観音像を刻み、「大三輪寺」を建立されたとあります。
鎌倉時代に慶円上人を迎え、「平等寺」と改めました。
これを機に大伽藍が再建されたのでした。
しかし、明治以後、廃仏毀釈により境内は荒れ果ててしまいます。
昭和に入り復興され、今の姿となります。
付近の田畑には、明治以前の大伽藍の石垣が残されており、当時の隆盛を偲ばせます。
ポチッとよろしくお願いします。
↓↓↓↓↓
薩摩より感謝をこめて。天下分け目の関ヶ原の合戦と三輪 ~ 三輪山平等寺の伝説 島津義弘
むかしむかし、
三輪山(桜井市)の南のふもとに平等寺(びょうどうじ)という、大きなお寺がありました。
天下分け目の関ヶ原の合戦の時のことでした。
落ち武者がこの寺に逃げ込んできました。
疲弊しきった武者は、お寺の住職に、匿ってもらうように懇願したそうです。
住職は機転をきかせます。
落ち武者の鎧を脱がせ、頭を丸め、坊主に扮装させました。
そこへ関東方の探索の武士たち、寺におしかけてきたのでした。
「ここに豊臣方の落ち武者がきただろう。」
落ち武者狩りの報奨金に目がくらんだ武士たちは、強引に押し入ろうとします。
「この寺では、侍を入れることはまかりなりません。
お探しの武者なぞはいるはずはありません。
どうぞお引き取り下さい。」
住職は毅然としてはねのけます。
果して武士たちは、根負けし退散します。
無事に落ち武者は、国元にかえることができました。
一命を助けられたお礼に、毎年、お寺へ米四十石を納めたそうです。
その落ち武者は、薩摩の島津義弘でした。
関ヶ原の合戦で、西軍の豊臣方についていた島津義弘。
西軍が敗色濃厚となると、戦場を脱します。
東軍が勢いをます中の壮絶な敵中突破は、武勇伝として今も語り継がれています。
その後、命からがら国元へと戻ります。
大三輪町史には、慶長5年9月から70日ほど、平等寺でかくまっていたと記録されていました。
ランキングに参加しています。
ポチッとよろしくお願いします。
↓↓↓↓↓
三輪山と大神神社の目次はこちら
「大神神社 古事記の山「 三輪山 」【総集編】」
三輪山(桜井市)の南のふもとに平等寺(びょうどうじ)という、大きなお寺がありました。
天下分け目の関ヶ原の合戦の時のことでした。
落ち武者がこの寺に逃げ込んできました。
疲弊しきった武者は、お寺の住職に、匿ってもらうように懇願したそうです。
住職は機転をきかせます。
落ち武者の鎧を脱がせ、頭を丸め、坊主に扮装させました。
そこへ関東方の探索の武士たち、寺におしかけてきたのでした。
「ここに豊臣方の落ち武者がきただろう。」
落ち武者狩りの報奨金に目がくらんだ武士たちは、強引に押し入ろうとします。
「この寺では、侍を入れることはまかりなりません。
お探しの武者なぞはいるはずはありません。
どうぞお引き取り下さい。」
住職は毅然としてはねのけます。
果して武士たちは、根負けし退散します。
無事に落ち武者は、国元にかえることができました。
一命を助けられたお礼に、毎年、お寺へ米四十石を納めたそうです。
その落ち武者は、薩摩の島津義弘でした。
- 島津義弘―関ヶ原・敵中突破の豪勇 (PHP文庫)/加野 厚志

- ¥690
- Amazon.co.jp
関ヶ原の合戦で、西軍の豊臣方についていた島津義弘。
西軍が敗色濃厚となると、戦場を脱します。
東軍が勢いをます中の壮絶な敵中突破は、武勇伝として今も語り継がれています。
その後、命からがら国元へと戻ります。
大三輪町史には、慶長5年9月から70日ほど、平等寺でかくまっていたと記録されていました。
ポチッとよろしくお願いします。
↓↓↓↓↓
三輪山と大神神社の目次はこちら「大神神社 古事記の山「 三輪山 」【総集編】」
桶屋 と 徳川家康 と 真田幸村 ~算命学と奈良歴史 漢國神社 春日大社(再掲載)
連動企画【算命学で見た、奈良・歴史上の人物とミステリー】
第八弾、 徳川家康
近鉄奈良駅から、大阪方面へ大通りに歩き、
三条通りと交差する、やすらぎの道へと進みます。
やがて、町の中の小道に大きな鳥居が現れます。

その先には”漢國神社”があります。
園神として大物主命、
韓神として大己貴命、少彦名命を祀っています。

境内の一角に林神社(りんじんじゃ)があります。
貞和5年(1349)、中国から渡来した林浄因(リンジョンイン)が、漢国神社で、日本初の饅頭(まんじゅう)を作ったと伝えられています。
この由来から、日本唯一の饅頭の神社として製菓業者の信仰を集めています。
林浄因の命日である4月19日には、全国の製菓業者が集まり、「饅頭祭」が開催されます。
○●○●○●○●○●
さて、この漢國神社には「桶屋と徳川家康」のお話が伝えられています。
豊臣秀吉が亡き跡、世は再び乱れようとしていました。
豊臣、徳川と軍がわかれ、関ヶ原の合戦、そして大坂の陣を迎えることとなります。
慶長19年(1614)、大坂の陣(大坂冬の陣)の緒戦の頃。
徳川家康の軍は、二条城を後にし、何故か奈良を経由します。
法隆寺をまわり、摂津から住吉に詣で大坂の茶臼山の陣に向かいます。
このお話は、奈良に立ち寄った時に起こったものと推察されます。
木津の戦いで徳川家康は、真田幸村に大敗を喫し、奈良まで逃げ込みます。
そんな戦乱の最中のことでした。
漢國神社の前で、桶屋が桶をなおしていました。
すると、なにやら物々しい騒ぎが方々から聞こえてきます。
戸を叩く音に、なんだろうと思い戸を開きます。
真っ青な顔の鎧武者でした。
大将らしき武者をおぶさり中を見回すと言いました
「その桶の内に、我らが殿を隠してはくれぬか」
その殿こそ、誰であろう、徳川家康、その人でした。
驚いた桶屋でしたが、快く承知しました。
そして何食わぬ顔で、再びトントントン・・・と桶の修理にかかります。
このとき家康は齢70を超えています。
真田幸村は、得意の占いで漢國神社の前まで追ってきました。
しかし不思議なことに、ここで家康の気配を見失います。
家来に命じ、村中を探させますが、果たして見つけだすことができませんでした。
危うくのところを命拾いをした家康でした。
しかし、家康は、また真田幸村に追われます。
次に、春日大社へ逃げ込みました。
今度は真田幸村自ら先頭に立ち境内を探索します。
ふと気配を感じ取り、あろうことに幸村は、祠に槍を突き立てます。
手ごたえなしとみると、次々と祠を突きます。
最後に、残ったのは本殿の祠でした。
ここに家康が身をひそめていました。
幸村は、本殿の祠である遠慮から躊躇します。
やがて槍をおさめ引き揚げてしまいました。
奈良で九死に一生を得た家康。
大坂の陣を終え、世の中は徳川の天下となります。
家康は命を助けてくれた桶屋に沢山の褒美を与え、漢國神社に自らの鎧を奉納したのでした。
(現在は、奈良国立博物館に展示。)
また、春日大社に二万五千石の社領を与え、徳川が保護することになったのでした。
■山の寺念佛寺
表通りから外れた路地奥に、「念佛寺」があります。

漢國神社の真裏手にあたります。
元和8年(1622)松平定勝が、油坂・漢国町を買い受けました。
袋中上人を開山として山の寺「念仏寺」を建立しました。
山門には、葵の紋があります。

こちらの掲示板に、先のお話が記されていました。

(クリックすると拡大します。)

大阪の陣の戦史には、見受けられないお話のようです。
それでも伝承として残された所以はなんであるのでしょうね。
民間人が家康を助け、そのため特権を許されたお話は多くあります。
これも何かの役目を果たした者の経緯が、逸話として残されたのでしょうか。
しかし、春日大社をあらした真田幸村の豊臣方と、春日の神様の庇護を受けた徳川家康。
互いの勝敗と命運を示唆するようなお話ですね。
算命学カウンセラー紅星くれないぼし先生の鑑定結果は、こちら。
連動企画【算命学で見た、奈良・歴史上の人物とミステリー】
第八弾 「徳川家康 」
ポチッとよろしくお願いします。
↓↓↓↓↓
*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:
関連情報:
紅星先生との連動企画で紹介した歴史上の人物はこちら。
第一弾、豊臣秀長 。
第二弾、筒井順慶 。
第四弾、菅原道真 。
第五弾、中将姫 。
第七弾、志賀直哉。



