桶屋 と 徳川家康 と 真田幸村 ~算命学と奈良歴史 漢國神社 春日大社(再掲載)
連動企画【算命学で見た、奈良・歴史上の人物とミステリー】
第八弾、 徳川家康
近鉄奈良駅から、大阪方面へ大通りに歩き、
三条通りと交差する、やすらぎの道へと進みます。
やがて、町の中の小道に大きな鳥居が現れます。

その先には”漢國神社”があります。
園神として大物主命、
韓神として大己貴命、少彦名命を祀っています。

境内の一角に林神社(りんじんじゃ)があります。
貞和5年(1349)、中国から渡来した林浄因(リンジョンイン)が、漢国神社で、日本初の饅頭(まんじゅう)を作ったと伝えられています。
この由来から、日本唯一の饅頭の神社として製菓業者の信仰を集めています。
林浄因の命日である4月19日には、全国の製菓業者が集まり、「饅頭祭」が開催されます。
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さて、この漢國神社には「桶屋と徳川家康」のお話が伝えられています。
豊臣秀吉が亡き跡、世は再び乱れようとしていました。
豊臣、徳川と軍がわかれ、関ヶ原の合戦、そして大坂の陣を迎えることとなります。
慶長19年(1614)、大坂の陣(大坂冬の陣)の緒戦の頃。
徳川家康の軍は、二条城を後にし、何故か奈良を経由します。
法隆寺をまわり、摂津から住吉に詣で大坂の茶臼山の陣に向かいます。
このお話は、奈良に立ち寄った時に起こったものと推察されます。
木津の戦いで徳川家康は、真田幸村に大敗を喫し、奈良まで逃げ込みます。
そんな戦乱の最中のことでした。
漢國神社の前で、桶屋が桶をなおしていました。
すると、なにやら物々しい騒ぎが方々から聞こえてきます。
戸を叩く音に、なんだろうと思い戸を開きます。
真っ青な顔の鎧武者でした。
大将らしき武者をおぶさり中を見回すと言いました
「その桶の内に、我らが殿を隠してはくれぬか」
その殿こそ、誰であろう、徳川家康、その人でした。
驚いた桶屋でしたが、快く承知しました。
そして何食わぬ顔で、再びトントントン・・・と桶の修理にかかります。
このとき家康は齢70を超えています。
真田幸村は、得意の占いで漢國神社の前まで追ってきました。
しかし不思議なことに、ここで家康の気配を見失います。
家来に命じ、村中を探させますが、果たして見つけだすことができませんでした。
危うくのところを命拾いをした家康でした。
しかし、家康は、また真田幸村に追われます。
次に、春日大社へ逃げ込みました。
今度は真田幸村自ら先頭に立ち境内を探索します。
ふと気配を感じ取り、あろうことに幸村は、祠に槍を突き立てます。
手ごたえなしとみると、次々と祠を突きます。
最後に、残ったのは本殿の祠でした。
ここに家康が身をひそめていました。
幸村は、本殿の祠である遠慮から躊躇します。
やがて槍をおさめ引き揚げてしまいました。
奈良で九死に一生を得た家康。
大坂の陣を終え、世の中は徳川の天下となります。
家康は命を助けてくれた桶屋に沢山の褒美を与え、漢國神社に自らの鎧を奉納したのでした。
(現在は、奈良国立博物館に展示。)
また、春日大社に二万五千石の社領を与え、徳川が保護することになったのでした。
■山の寺念佛寺
表通りから外れた路地奥に、「念佛寺」があります。

漢國神社の真裏手にあたります。
元和8年(1622)松平定勝が、油坂・漢国町を買い受けました。
袋中上人を開山として山の寺「念仏寺」を建立しました。
山門には、葵の紋があります。

こちらの掲示板に、先のお話が記されていました。

(クリックすると拡大します。)

大阪の陣の戦史には、見受けられないお話のようです。
それでも伝承として残された所以はなんであるのでしょうね。
民間人が家康を助け、そのため特権を許されたお話は多くあります。
これも何かの役目を果たした者の経緯が、逸話として残されたのでしょうか。
しかし、春日大社をあらした真田幸村の豊臣方と、春日の神様の庇護を受けた徳川家康。
互いの勝敗と命運を示唆するようなお話ですね。
算命学カウンセラー紅星くれないぼし先生の鑑定結果は、こちら。
連動企画【算命学で見た、奈良・歴史上の人物とミステリー】
第八弾 「徳川家康 」
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関連情報:
紅星先生との連動企画で紹介した歴史上の人物はこちら。
第一弾、豊臣秀長 。
第二弾、筒井順慶 。
第四弾、菅原道真 。
第五弾、中将姫 。
第七弾、志賀直哉。