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忠義の人 片岡八郎利一 【太平記「大塔宮熊野落ち」より】 ~ 達磨寺

日本は一天に両帝を抱いた南北朝の動乱の時代のおはなしです。

片岡八郎利一は奈良県北葛城郡王寺町出身の人です。
父は鎌倉の家人、母は後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王の乳母でした。
皇子が鎌倉幕府倒幕におわれ、熊野へ逃げ延びる時でした。
元弘2年(1332)。
今に伝えられる太平記の「大塔宮熊野落ち」です。
僧籍にあった皇子は、このとき俗人になり名前を護良親王と改めました。

皇子につき従える9人の供の中に片岡八郎はいました。
一方、熊野地方では、皇子に賞金がかけられ鵜の目鷹の目で皇子の行方を探していました。
一行が十津川へと向かう道中、熊野地方の豪族・玉置荘司盛高が行く手をはばみます。

片岡八郎は、矢田彦七と二人で、玉置に味方するよう説得にむかいました。
しかし玉置は聞き入れず、それどころか二人をたばかり軍備を整えようとするではありませんか。
皇子の危機を察し片岡たちは、もときた道を引きかえそうとします。

二人の後を追って5、60人の玉置の手のものが迫ります。
片岡は一計を案じ、道端の松の木に身をひそめ、追手を待ちかまえました。
騎馬の足音が迫り、今かと躍り出て、馬の両足を切り払い、返す刃で落馬した武者の首をおとしました。
その勇猛な姿に追手はすっかり驚き、遠巻きに片岡たちを警戒します。

やがて二人に激しい矢の雨が襲います。
奮戦空しく片岡は矢を受けてしまいました。
片岡は彦七に皇子への伝言を託します。

矢田殿、私の傷は深い。一命をもってここで敵をくいとめます。
 この隙に親王のもとへおもどりくだされ。

「いいや、片岡様を見捨てていくことはできません。
 わたしめもここでともに戦います。」

しぶる彦七を片岡は叱咤します。

ここで我らが死して親王に危うくするのは末代までの不忠。
 小さなことにとらわれず、どうか少しでも早く親王へお伝えくだされ。

彦七はなくなく、片岡をおいて皇子のもとへと駆けて行きました。

それをみとどけると片岡は、
もう、これまでよ」とひとりごち、単身、追手の軍勢へ斬り込んだのでした。

・・・

忠義に死した片岡の活躍により、皇子は危機を脱することができたのでした。

十津川村玉置山山頂から北へ2キロあたり。
片岡八郎が討ち死にしたと伝えられる場所があります。
人々は、片岡の忠義の心をしのび、山中の花を追って供えたのでした。
いつしかそこは、花折塚といわれるようになったそうです。

後の大正4年(1915)皇子につくし、国家のために忠義を尽くした者として正五位が贈られたのでした。

そして彼の菩提は故郷にある達磨寺に弔われています。


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だるまと聖徳太子の不思議な、ふしぎなおはなし。~臨済宗南禅寺 達磨寺 (だるまじ)

だーるまさん、だーるまさん。 
にーらめっこしーましょ 音譜

・・・

だーるまさんがこーろんだビックリマーク


だるま。おなじみのダルマさん。

ほかにも、私たち日常で、雪だるま、だるま競争、だるまストーブと、だるまにまつわる言葉が多いですね。

選挙や、受験の合格祈願にも、片目を抜いた達磨(だるま)がよく用いられますね。遊びや、勝負事には、とかくなじみ深いですね。



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さて、このだるまさんは、実は、実在の人物でした。
禅宗の開祖・達磨大師です。
南インドの王国・南天竺国香至王の第三王子として生まれ、
その後、中国に渡り、仏教の僧侶として活躍しました。


150歳まで生きたと伝えられています。
中国で座禅の修行をし手足をうしなったところから、今のダルマのモデルになったそうです。


さて、奈良県北葛城郡王寺町に、この達磨と聖徳太子の不思議なふしぎなお話があります。

片岡山飢人伝説」という、時空を超えた二人の聖(ひじり)の邂逅があったのです。

聖徳太子御遺跡第十九番札所
臨済宗南禅寺 達磨寺(だるまじ)
山号は片岡山


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本尊は、千手観音達磨禅師聖徳太子

推古天皇の発願によって建立されたと伝えられます。
南北朝時代、大塔宮の臣下であった片岡八郎利一、
片岡城主片岡春利
戦国のきょう雄・松永久秀の墓があります。


推古天皇21年(613)。
厩戸皇子(聖徳太子)が片岡山(奈良県北葛城郡王寺)を通りかかったときでした。
道端に、飢えて行き倒れている異人に出くわします。
傍らにより、姓名を問うても、答えません。
皇子は、哀れに思い、その異人に「安らかに寝ておれ」と語りかけ、
当座の寒さと飢えをしのぐため、食物と自分の衣服とを与えました。

このときに詠んだ歌が、万葉集に残されています。

「しなてる 片岡山に 飯に餓て 臥せる その旅人あはれ
  親無しに 汝 生りけめや さす竹の 君はや無き
   飯に餓て 臥せる その旅人あはれ」

 (意味)
  片岡山で、食い物がなく、餓えて斃れている、その旅人よ可哀相に。
  親もなくて生まれたはずがあろうか。
  ご主人様はいないのか。
  食い物もなく、餓えて斃れている、その旅人よ可哀相に。


不思議と皇子は、その異人のことが気がかりに思います。
翌日には使いの者に異人の様子を見に行かせました。
しかし、異人は、すでに息絶えていたとのことでした。
皇子は、大いに悲しみ異人の遺骸を丁重に葬ったとのことです。

それからしばらくして、やはり皇子は異人のことが心から離れません。
「先日道に倒れていた者は、ただ者ではあるまい。きっと聖(ひじり)に違いない。」
そういってもう一度、墓の様子を見に行かせました。

おどろいたことに、遺骸が消えて、
衣服だけがきちんとたたまれて、棺の上に置かれているではありませんか。

それを聞いた皇子は、なにやら感慨深げで得心した様子でした。
「前世からの約束でめぐりあった聖(ひじり)・達磨大師の生まれ変わりに相違ない」と言い、
使いの者がもってきた衣服を、何もなかったように身にまとったのでした。

その後、皇子は自ら達磨像を刻み、この地に祀ったのでした。
これがこの達磨寺の始まりである伝えられています。

境内には、問答石があります。

それは、皇子と大師が問答をおこなった、または歌を詠み交わした場所とされています。
お寺の足元のこの伏した石が、伏した飢人(達磨
大師)のお姿であると伝えられています。

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達磨寺
には、ほかにも、聖徳太子ゆかりのものが残されています。

唄に詠み込まれている「さす竹」は、君主、主人をあらわすのですが、
このお寺では、飢人がもっていた”竹”が、「一夜竹」の伝説としてのこされています。


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こちらの竹がそうです。
竹をこの場にさすと、一夜にして芽をだしたと伝えられています。

そして、このお寺には、皇子の愛犬「雪丸」が葬られています。

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この雪丸は、人語を解し、忌の際に「達磨寺に葬るように」と言ったそうです。








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神代の時代より、人々が崇拝されていた三輪山。

ここに大神神社があります。


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古来から山自体が御神体とされ、大神神社には神殿(本殿)がありません。

さて、あるとき、三輪明神にお参りに来たひとたちは、ふしぎに思いはじめました。

どこの神社にも神殿があるのに、三輪明神には神殿がないのはおかしい。

これでは大物主さんがかわいそうだ。

ご神殿をたててさしあげようとお金や材木を出し合いました。

今の拝殿から奥に神殿をたてようと決めました。

さていよいよ翌日には上棟式です。

その晩のことでした。

いずこからか何百、何千ものの烏(からす)が飛んできました。

カアー!
せまくるしい御殿なぞ、造らんでもよいわっ
カアー!

あれよあれよと、烏たちは、神殿の材木に群れると、たちまちに空へもちあげ、飛び去って行きました。

夜の闇に消える烏のむれを、人々は、あぜんとみおくるばかりでした。

人々は、親切でおこなったつもりでしたが、どうやら、三輪明神の意にそわなかったようです。

烏は、三輪明神のおつかいだったのでしょう。

・・・

こんなお話もあります。

大神神社には、大御輪寺(おおみわてら・だいごりんじ)、平等寺のふたつの神宮寺がありました。
里の人たちが禁足地に神殿をたてようとしていたので、たしなめるために僧たちが打ち壊したとか。

烏は黒衣の僧を意味しています。




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