だるまと聖徳太子の不思議な、ふしぎなおはなし。~臨済宗南禅寺 達磨寺 (だるまじ)
だーるまさん、だーるまさん。
にーらめっこしーましょ
・・・
だーるまさんがこーろんだ
おなじみのダルマさん。
ほかにも、私たち日常で、雪だるま、だるま競争、だるまストーブと、だるまにまつわる言葉が多いですね。
選挙や、受験の合格祈願にも、片目を抜いた達磨(だるま)がよく用いられますね。遊びや、勝負事には、とかくなじみ深いですね。
さて、このだるまさんは、実は、実在の人物でした。
禅宗の開祖・達磨大師です。
南インドの王国・南天竺国香至王の第三王子として生まれ、
その後、中国に渡り、仏教の僧侶として活躍しました。
150歳まで生きたと伝えられています。
中国で座禅の修行をし手足をうしなったところから、今のダルマのモデルになったそうです。
さて、奈良県北葛城郡王寺町に、この達磨と聖徳太子の不思議なふしぎなお話があります。
「片岡山飢人伝説」という、時空を超えた二人の聖(ひじり)の邂逅があったのです。
聖徳太子御遺跡第十九番札所
臨済宗南禅寺 達磨寺(だるまじ)
山号は片岡山。
本尊は、千手観音・達磨禅師・聖徳太子。
推古天皇の発願によって建立されたと伝えられます。
南北朝時代、大塔宮の臣下であった片岡八郎利一、
片岡城主・片岡春利、
戦国のきょう雄・松永久秀の墓があります。
推古天皇21年(613)。
厩戸皇子(聖徳太子)が片岡山(奈良県北葛城郡王寺)を通りかかったときでした。
道端に、飢えて行き倒れている異人に出くわします。
傍らにより、姓名を問うても、答えません。
皇子は、哀れに思い、その異人に「安らかに寝ておれ」と語りかけ、
当座の寒さと飢えをしのぐため、食物と自分の衣服とを与えました。
このときに詠んだ歌が、万葉集に残されています。
「しなてる 片岡山に 飯に餓て 臥せる その旅人あはれ
親無しに 汝 生りけめや さす竹の 君はや無き
飯に餓て 臥せる その旅人あはれ」
(意味)
片岡山で、食い物がなく、餓えて斃れている、その旅人よ可哀相に。
親もなくて生まれたはずがあろうか。
ご主人様はいないのか。
食い物もなく、餓えて斃れている、その旅人よ可哀相に。
不思議と皇子は、その異人のことが気がかりに思います。
翌日には使いの者に異人の様子を見に行かせました。
しかし、異人は、すでに息絶えていたとのことでした。
皇子は、大いに悲しみ異人の遺骸を丁重に葬ったとのことです。
それからしばらくして、やはり皇子は異人のことが心から離れません。
「先日道に倒れていた者は、ただ者ではあるまい。きっと聖(ひじり)に違いない。」
そういってもう一度、墓の様子を見に行かせました。
おどろいたことに、遺骸が消えて、
衣服だけがきちんとたたまれて、棺の上に置かれているではありませんか。
それを聞いた皇子は、なにやら感慨深げで得心した様子でした。
「前世からの約束でめぐりあった聖(ひじり)・達磨大師の生まれ変わりに相違ない」と言い、
使いの者がもってきた衣服を、何もなかったように身にまとったのでした。
その後、皇子は自ら達磨像を刻み、この地に祀ったのでした。
これがこの達磨寺の始まりである伝えられています。
境内には、問答石があります。
それは、皇子と大師が問答をおこなった、または歌を詠み交わした場所とされています。
お寺の足元のこの伏した石が、伏した飢人(達磨大師)のお姿であると伝えられています。
達磨寺には、ほかにも、聖徳太子ゆかりのものが残されています。
唄に詠み込まれている「さす竹」は、君主、主人をあらわすのですが、
このお寺では、飢人がもっていた”竹”が、「一夜竹」の伝説としてのこされています。
こちらの竹がそうです。
竹をこの場にさすと、一夜にして芽をだしたと伝えられています。
そして、このお寺には、皇子の愛犬「雪丸」が葬られています。
この雪丸は、人語を解し、忌の際に「達磨寺に葬るように」と言ったそうです。
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にーらめっこしーましょ

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だーるまさんがこーろんだ

おなじみのダルマさん。ほかにも、私たち日常で、雪だるま、だるま競争、だるまストーブと、だるまにまつわる言葉が多いですね。
選挙や、受験の合格祈願にも、片目を抜いた達磨(だるま)がよく用いられますね。遊びや、勝負事には、とかくなじみ深いですね。
さて、このだるまさんは、実は、実在の人物でした。
禅宗の開祖・達磨大師です。
南インドの王国・南天竺国香至王の第三王子として生まれ、
その後、中国に渡り、仏教の僧侶として活躍しました。
150歳まで生きたと伝えられています。
中国で座禅の修行をし手足をうしなったところから、今のダルマのモデルになったそうです。
さて、奈良県北葛城郡王寺町に、この達磨と聖徳太子の不思議なふしぎなお話があります。
「片岡山飢人伝説」という、時空を超えた二人の聖(ひじり)の邂逅があったのです。
聖徳太子御遺跡第十九番札所
臨済宗南禅寺 達磨寺(だるまじ)
山号は片岡山。
本尊は、千手観音・達磨禅師・聖徳太子。
推古天皇の発願によって建立されたと伝えられます。
南北朝時代、大塔宮の臣下であった片岡八郎利一、
片岡城主・片岡春利、
戦国のきょう雄・松永久秀の墓があります。
推古天皇21年(613)。
厩戸皇子(聖徳太子)が片岡山(奈良県北葛城郡王寺)を通りかかったときでした。
道端に、飢えて行き倒れている異人に出くわします。
傍らにより、姓名を問うても、答えません。
皇子は、哀れに思い、その異人に「安らかに寝ておれ」と語りかけ、
当座の寒さと飢えをしのぐため、食物と自分の衣服とを与えました。
このときに詠んだ歌が、万葉集に残されています。
「しなてる 片岡山に 飯に餓て 臥せる その旅人あはれ
親無しに 汝 生りけめや さす竹の 君はや無き
飯に餓て 臥せる その旅人あはれ」
(意味)
片岡山で、食い物がなく、餓えて斃れている、その旅人よ可哀相に。
親もなくて生まれたはずがあろうか。
ご主人様はいないのか。
食い物もなく、餓えて斃れている、その旅人よ可哀相に。
不思議と皇子は、その異人のことが気がかりに思います。
翌日には使いの者に異人の様子を見に行かせました。
しかし、異人は、すでに息絶えていたとのことでした。
皇子は、大いに悲しみ異人の遺骸を丁重に葬ったとのことです。
それからしばらくして、やはり皇子は異人のことが心から離れません。
「先日道に倒れていた者は、ただ者ではあるまい。きっと聖(ひじり)に違いない。」
そういってもう一度、墓の様子を見に行かせました。
おどろいたことに、遺骸が消えて、
衣服だけがきちんとたたまれて、棺の上に置かれているではありませんか。
それを聞いた皇子は、なにやら感慨深げで得心した様子でした。
「前世からの約束でめぐりあった聖(ひじり)・達磨大師の生まれ変わりに相違ない」と言い、
使いの者がもってきた衣服を、何もなかったように身にまとったのでした。
その後、皇子は自ら達磨像を刻み、この地に祀ったのでした。
これがこの達磨寺の始まりである伝えられています。
境内には、問答石があります。
それは、皇子と大師が問答をおこなった、または歌を詠み交わした場所とされています。
お寺の足元のこの伏した石が、伏した飢人(達磨大師)のお姿であると伝えられています。
達磨寺には、ほかにも、聖徳太子ゆかりのものが残されています。
唄に詠み込まれている「さす竹」は、君主、主人をあらわすのですが、
このお寺では、飢人がもっていた”竹”が、「一夜竹」の伝説としてのこされています。
こちらの竹がそうです。
竹をこの場にさすと、一夜にして芽をだしたと伝えられています。
そして、このお寺には、皇子の愛犬「雪丸」が葬られています。
この雪丸は、人語を解し、忌の際に「達磨寺に葬るように」と言ったそうです。
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