五目紙物店「寅屋」 -8ページ目

第37回『工場ワーキング』

不運にも翌年の新入社員は募集を見送る。
私の食器と風呂の始末は一年余に及ぶ。

皆の寝静まるのを待って、
工場に入り、
昼教わった諸々を脳裏に描き、
真っ暗の工場内で練習を繰り返す。

作業中文句を言われ怒鳴られても、
ひたすらに教えに従順に従う。

何時とは無く、
職人に好感を持って教えられた。
各自の仕事のコツを、
厳しく、
又、
優しく教えられた。

翌々年、
新規の住み込みが入る。
食器、
風呂の掃除ともお別れをする。

社長の奥さん、
皆を集めて、
「寅吉(私の名前)は一年にも余って食器を洗うが、
その間、
茶碗を割ったのは四、五個だけ。
皆も反省して見習え。」
と訓辞があった。
私は小学生卒業してより、
その頃の躾として、
数年間炊事を教えられた。
その成果が出たのであろう。

遂に私の年齢がバレテ、
社長に叱られたが、
常に精勤に免じて許すと、
特別に社長の弟が指導してくれる。

耳が悪く、
陰ではツンボと言われるが、
仕上げ工、
施盤も、
火造りも、
厳しく教わる。

火造りの折り、
気短の弟さん。
「ハンマーの振り方打ち場所が違う。」
と、
真っ赤に焼けた鉄を足元に投げつける。

休憩の時に、
工場の片隅で土に重いハンマーを打ち込み、
その傾斜で稽古をする。

施盤で物を削るが、
幾度となく叱られたが、
辛抱、辛抱と我慢をする。

一度休日の日に、
弟さんとバタバタ(自動三輪車)で、
大阪の住吉神社に参拝に行く。
張り切って、
お賽銭を投げたが思案顔。
一銭と五十銭を間違って投げ入れた。
帰りのガソリン買う金が無い。
社務所で訳を話すと、
「五十銭が一つだとお返ししますが、
複数の時は諦めて下さい。」
と言われる。
開けると複数あった。
当時のガソリン、
一ガロン三十二銭でも、
どうにか家に辿り着く。

工場も狭くなり、
東淀川区に新工場を建設して移転をする。
本社に製品を運ぶ時、
バタバタに(自動三輪車)乗り、
十三大橋を渡り往復をする。

夏は、
阪急電車の鉄橋の下に、
市営の水泳場が設置される。
二人で本社に荷を運び、
帰りに淀川を泳いで渡るのが楽しみであった。

技術も順調に覚える?
そんな折りに、
工場の一隅に、
ご隠居の住まいがある。
そのご隠居のおばあさん、
気短で女中が直ぐ辞める。
社長、
「お前が行って、
ご隠居の部屋を掃除しろ。」
文句も言えず従う…。

掃除の最中、
おばあさん、
私の事をずっと見ている。
掃除を済ませて報告すると、
おばあさん、
「椅子を持って来い。」
それに立って、
鴨居を指で撫でて、
私に指を示して、
「寅吉、
これで掃除が出来たのか?
やり直しをしろ。」
心では、
この糞ババアと思う。

私の母は綺麗好きで、
掃除の仕方は厳しく仕込まれているが、
これが奉行人の辛さ、
しぶしぶ、
やり直す。

繰り返し注意を受ける内に、
何故か信用されて、
「おばあさん掃除をします。」
と行くと、
掃除中は工場内を散策するようになった。
その内に目に付くところだけ掃除をし、
帰って来るまで、
のんびり過ごす。
帰って来ると出来たと報告し、
そしたら、
おばあさん、
「良く出来た。」
と誉め、
私を相手に時間を過ごす。
その間、
工場の人が、
「何をサボってるんだ。」と叱りに来ると、
おばあさん、
「掃除をさせている。」
と、
かばってくれるのであった。

また、
工場で嫌な事があると、
「おばあさん掃除に来ました。」と行き、
私の顔色を見て、
遊んで行けと茶菓子を出して、
「嫌な事もあろうが辛抱しろ。」
と論された。

第36回『大阪上陸』

大阪の天保山港に上陸する。
地理不案内で、
もたもたしている内に、
乗るはずだった市電は出てしまう。

その折りに、
客待ちの自動車盛んに乗ってと勧誘してくる。
当時は何処迄乗っても一円で、
円タクの別名がある。
ままよと乗り込む。
ところが、
エンジン不調で私の前途を暗示するごとく、
終にはエンスト。
運ちゃん五十銭にまけてくれる。

訪ねる家は野田阪神前。
なんとも、
ごみごみと立て込んだ、
狭い道路の一角に、
炭屋の商売をしている。

挨拶を済ませて、
翌日住み込み先に行く前に、
作業服を買う。
上下続きで三円。

福島区で、
従業員五十余名。
その中で住み込みが三十名。
鉄工所で、
小型三輪車のダイハツのエンジン組み立てをする。
施盤もある。
他に焼き玉エンジンの組み立て仕上げもする。
民家を改良していて、
階下は工場、
二階は倉庫に住み込みの住居であった。

私は十八歳と嘘の履歴書を出す。
当時の履歴書の書き方は(一九二六当時)、
自分の氏名の上に、
華族、
士族(侍の子孫)、
平民(農・工・商)、
新平民(部落民)、
と書く。

社長、
「歳は行き過ぎているが、
まぁ頑張れ」
と入社に決定をする。

翌日より皆と働くが、
新入者は朝食が済むと、
全員の食器を洗い、
整理をして工場に入る。
工場長、
「何をしておった、
遅い。
皆は仕事をしている。」
私は、
「食後の整理をしておりました。」
言ったが、
「早く済ませて皆と共に現場に入れ。」
と一喝される。
食器類百に及ぶ。
途端に厳しい奉公の辛さを感じた。
翌日より早飯に済ませて、
皆が洗い場に持って来るのを順序よく洗い、
どうにか皆と共に現場に入れた。
人使いは荒い。

皆と共に銭湯に行き、
一つの布団に二人寝る、
疲れ甚だしく文句も考えず、
睡魔に襲われる。

日とともにヤスリの持ち方、
ハンマーの振り方を会得しつつ、
自動三輪車の免許も手にする。

間もなく家庭風呂を設置する。
古参者より入り、
私は最後…。
しかも、
湯も少なくどろどろ…。
そんな風呂場を洗い、
火の始末をして一日が終わるが、
毎夜の様に夕食後十時近くまで、
奉公人のみ働かされた。
それが仕舞えばウドン一杯夜食のサービス。
それから風呂に入る。
就寝は十二時近い。

何処の奉公人も大差は無い時代で、
入って一年は小遣いとして五円を渡される。
順次五円程度あがるのであった。

第35回『故郷を発つ』

大阪の知人数名に、
自動車関係の所へ、
就職の依頼の手紙を出す。
しかし、
表面は父の言い付けを守る。

夏も過ぎ秋深まる頃、
個人経営の工場で、
自動車の修理もあると通知を受ける。
稲の刈り取りも始まるが、
これを外せば、
再度の機会は望み薄し。

私のこれからの人生は、
お先真っ暗との懸念が起きる。
人生に悔いを残さぬ為にも思い切って、
前進してみよう。
だが黙々と働く母を思うと、
決心は鈍る。

そんな事を悩みつつ、
母に話して了解を戴く。
父が夜遊びに出た直後に、
僅かな着替えを風呂敷に包み、
母に五円を貰って、
十一月三日(明治節)、
見送りに寂しい姿で戸口に立つ母に、
心を残して住み慣れた我が家を出る。
振り返りもせず、
急ぎ足で角を曲がる。

関西汽船の船賃一円二十銭。
築港に着いて驚いた。
青年訓練所の友達が並んでいたのだ。
弁論部員、
鼓笛隊の部員と他の部員が、
総数三十余名。
弁論部の部長を二年間したお礼なのか。

出船のドラが鳴り響く。
音量に負けじと、
鼓笛隊の演奏に併せて、
進軍ラッパが高らかに吹奏される。
感激の友情に見送られての船出だった。
デッキに立ち、
遠く薄れ行く故郷に、
一抹の名残りを惜しむ…。

これにて故郷の思い出を打ち切ります。
次は大阪より…。

第34回『大人への階段』

昭和九年六月八日(一九三四年)、
数えの二十一歳。
徴兵検査の通知書を受け取る。

自分の現在の様子を振り返り、
空しさを痛感する。
同年代の知人達は皆、
一人前として働くが、
自分はどうか…。
手掛かり足掛かりも無いと悩む。
生活の安定の無い小作の百姓では、
父の轍を践む一生で、
終わるのではないかと危惧を感じる。

母は息子のこの日の為に、
苦しい所帯より捻り出した金で、
購入したセルの布地で仕立てた着物を出す。
親の愛情を身に染みて感じて、
膝に置き眺める。
「お母さん、
通知で今日は青年訓練服で来い、
とありますから、
悪いですが、
私は服で行きます。」
生まれて初めての、
私の着物に心を残して、
服で家を出る。

公会堂には、
卒業以来の友達の顔が並ぶ。
中には誰だろうと思う様な、
顔も交じるが懐かしい。
皆一様に、
「お前、背が高くなった。」
と驚く。
学生時代は、
組でも二番目のチビが、
十九歳頃より伸び出して、
一年に十五センチも伸びる。
母は、
「春に仕立て直した着物を、
秋に仕立て直さないといけない。」
と、
ぼやいていた。

全員起立、
青年訓練所の服を着用の者は右へ。
そして試験が始まる。
その時の私の成績で、
商業専修学校卒業(夜学)、
算術八点、
国語八点、
公民七点であった。
体格検査は、
目、鼻、心音、
身長一六三.九メートル、
胸囲七六.五メートル、
体重四四キロ、
視力左右共一〇。

褌一つで囲いに入ると、
「褌を取れ。」と言われる。
緊張で、
ちじんだチンポを強く握り、
前に引っ張る。
小便の出る小さな穴を開き、
「よし回れ右。」
指定の手足の印に手足を置き、
「四つん這いになれ。」と。
肛門を開き、
尻を叩き、
「よし終わり。」
着衣をして、
検査官の前に直立不動の姿勢で立つ。
「この不忠者(国に、天皇に対して。)。
筋骨薄弱、丙種合格。」
やっと検査を済ませて、
集合場所へ。
これで検査は終了する。

人前で遠慮なく、
酒も飲めるし煙草も吸える。
早くも煙草を吸う者もいる。
どこかで急にパンパンと叩く音がする。
「お前は検査前で未成年であろう。
煙草を吸うな。」と、
制裁で何十回も両ビンタを食わす。
この検査は大切して持っていった資料より写す。

帰路、
氏神様に参拝してお礼を述べて、
学校の先生宅に行き、
丙種合格と報告する。
あのチビがと驚き、
「丙種でもいいじゃないか。
忠孝は一つ、
親に孝行しなさない。」と言われる。

母の愛情の着物に着替えて、
親戚にお礼参りを済ます。
兵役には、
甲種、
第一乙種、
丙種、
丁種、
とある。
甲種はその年に入隊する。
その数が満たなければ、
第一乙種より入隊を促進する。
丙種、
丁種は兵役免除で、
第二国民兵に編入する。
だから以後の行動は自由に過ごせるが、
国から見れば不忠者に当たる。

第33回『決心』

市街が開けるに連れて区画整理される。
我が田畑のある広範囲にも、
遠慮無く至る所に杭が打たれる。

農民が反対をして、
その道筋を皆で耕し、
狼煙を挙げて戦う。
父もその一員で役所と渡り合うが、
終に押し切られて道路は完成する。

狭い農道を荷物を運ぶのに、
難儀をしておったが、
結果的に、
自転車が走る便利な道になる。

次々と成人して、
表で遊ぶ顔は変わるが、
依然として、
餓鬼大将と鼻たれ小僧は減少しない。

不景気は相変わらずの世相が続く。
一時期、
背広を着込み、
タオルを腰にぶら下げる姿が流行したり、
風邪も引いておらぬのに、
マスクをするという行為が、
マスクせずして道も歩けない程に大流行する。
「大学は出たけれど…。」
の言葉が流行する

就職先が無い。
手に職を付けて一人前になるが、
勤め口が無い。
人の捨てた煙草の吸い殻を拾って吸う。
安くても月給とりと人は言う。

そんな時代に私は職人を希望する。
読み書きは何時でも習えるが、
職人になるには日数が掛かる。
一日でも早く、
住み込みで手に職を付けたい。

父は、
私に対して無関心では無かろうかと、
疑問に思える程、
何にも言わぬ。

容赦なく日は過ぎ行く。
私の事は私が結論を出そうと決心をする。

第32回『青白く光る物体』

夜学を終えて帰る我々に、
警官が、
「この道は今は通行止め。」
と遮られる。
前方を見ると、
白い堀の壁に五本の指を、
そのままに引いた血の後がある。
警官は、
「大喧嘩があった。」
と話す。
我々、
その翌日より遠回りをして帰る。

ある日、
池の縁に青白く光る物がある。
慌てて帰り話すと、
父は、
「着いて来い。」
池の縁で死んだ犬の骨が、
霧雨で光るのを見る。
又、
近所の人の屋根棟より、
青白い物体が流れる様に上昇している。
恐怖心で走り帰り話すと、
父は、
「おばあさんが死んだか。」
翌日、
本当におばあさんの死亡を知る。

当時は市の周辺は街灯も少なかった。
夜、
暗い農道を歩く時に、
足元を提灯で照らして歩く。
フワフワ揺れる灯を見て、
人魂と騒ぐ人も居る。

鉄道も高徳線が、
我々の田畑を横切り敷設された。
雨の日は工事は中止するので、
悪童達の格好の遊び場に変貌する。
荷を運ぶトロッコが、
線路の横に取り外しているのを、
皆を協力して線路に取り付けて乗る。
これは危険が一杯だが、
坂を下るトロッコに飛び乗ったり飛び降りたり、
痛快な遊びだった。

第31回『三越百貨店』

古老の話では、
明治の末期頃に水上飛行機が飛来して、
それを囲い、
入場料を払って見物したと聞く。

私の少年時代には時々飛来して、
堤防近く浮かぶ。
その水上飛行機のフロートに乗り、
遊んでいたら叱られた。

夏も終わる頃の日曜日、
隣近所の人々が誘い合って、
汚れた蚊帳や蒲団の敷布等を、
大きな物を乳母車等に積んで弁当持参で、
近くの川に洗濯に行く。

子供達は親の洗濯を手伝いつつ、
全裸で水飛沫を派手に掲げ思い切り遊び、
帰りは疲れて、
乳母車に積まれてうたた寝をする。
横を、
ラッパを高らかに吹きつつ、
乗り合い馬車が追い越す。
一度でも良い乗ってみたいなあー

夜学に通学の時、
本を買うお金が無く、
何時も四、五軒回って立ち読みするが、
続くと店員が横に来て嫌味を言う。
ある日、
いつものように立ち読みしていると、
横で本の上に風呂敷包みを押し込み、
立ち読みをする不振な人を見る。
間も無く風呂敷を持ち上げて帰るが、
そこだけ本が無い。
店員に急報する。
店内で調べると、
風呂敷の中は空洞で、
押し込むと本が入る仕掛けであった。
その日より公認で立ち読みが出来たが、
公認になると立ち読みのスリルが消えて、
面白みが半減した。

海水浴場の堤防上には、
有料の脱衣場が並ぶ。
我々子供はお金が無く、
堤防の石垣に脱いだ服を、
隙間に押し込み泳ぎ没頭。
田舎から来た人達は勝手判らず、
堤防上の有料の脱衣場で脱衣をする。

又、
着替えの時に、
風に振られて裾が乱れると、
悪童達が堤防の下より、
見えた見えたと騒ぐ。
すると女の人達が大慌てをする。
それが面白いと繰り返し遊ぶ。

郵便局の前に三越百貨店が開業する。
当日、
電信課の二階より眺めると、
開店前より押すな押すなの盛況で、
ハラハラする程の混雑振り。
田舎の人達は市内に入る時は、
藁草履を脱いで手提げ袋より出した、
下駄か草履に履き替えて、
市内に入るとか聞く。

百貨店の入り口で、
店員が声をからして大声で、
「入り口は下駄を脱がずにそのままで、
入ってください。」と、
繰り返し繰り返し叫ぶが、
効き目無く、
入り口は下駄の洪水で大混雑であった。
店内に入ると、
エレベーター前にも下駄の洪水で、
エレベーターを見るのも乗るのも初めてで、
目に物珍しく各階押し合い。
商品を見るどころか人の渦に巻き込まれる。
終了後閉店する。
戸口の泥除けの金網を挙げると、
土砂がバケツに山盛りで、
これには驚いた。
それは僅かに履き物の裏についた土砂であった。
私も勤務が終えて店内に入る。
街の商店と違い見るのが忙しい。
エレベーターでは、
友達と何回も上下を繰り返し、
家に帰り皆に自慢をする。

第30回『ほんの少しの思い出』

活動写真館(映画館)に行く事は殆ど無かった。
何年かに一度、
学校の講堂で地域の人を集めて、
動かぬ漫画を見る。
それでも講堂は満員で入れぬ時があった。

繁華街の活動写真館に、
学校から連れて行く事があると、
朝よりワクワクと、
学校より列を造り引率されて行く。
教育映画でも嬉しかった。

当時は大人と同伴の子供は無料だ。
市内の繁華街には四軒あった。

夜遊びの集合場所は飲食店で粘る。

風呂屋の脱衣場の片隅に、
大きな火鉢がある。
横に将棋盤を備え付けてあって、
何時見ても誰かが勝負を競いあっている。

又、
散髪屋も店を開けると、
将棋愛好者の集合場所が其処で、
駄弁で時間を過ごすが、
店主形成不利の時は。
「待っとれ。」で待たされる。
文句も言えず、
横で勝負を見る。
閉店まで、
客で無い客で満員が続く。

昭和に入り、
喫茶店が開業する。
カフェーが開店してエプロン姿の女給が、
店の戸口で客を呼ぶ姿が珍しく、
男は馬鹿だと言いつつ見物に行く人も。

夕方が近くなると、
そよ風がピタリと止まる。
讃岐の夕凪。

行水を済ませて浴衣を着込み、
海岸へ、
砂浜は無く堤防上は多くの人達が団扇片手に。
遠く、
島陰を縫う様に浮かぶ連絡船に、
旅行の夢を託して。
夜釣りの船を眺め岸近く、
提灯を吊るしす賃貸しのボトを見て、
暮れゆく海に持参の打上げ花火を上げて、
暑さをを忘れ友と語らう。
片側では、
水飛沫を遠慮無く飛散して、
飛び込む若者達が涼を求める。
時間と共に、
堤防上の白い浴衣姿も何時しか減少する。

市内の繁華街に行くと街角の片隅で、
バイオリン片手に、
流行の演歌を歌い客を集めて、
何やら懐より取り出すと、
演歌集を売り始めるのであった。

回り灯籠、植木、
冷たい飲み物と、
多種多様に売り声高く客を呼び暑さを忘れる。

第29回『戦時へ』

弁論部も、
場数を踏むに従い、
地区の市の県の弁論大会に出る。

世相は急激に悪化の一路を辿る思いで、
昭和三年五月、
満鉄で張作霖を爆殺する。
昭和六年八月、
満州事変勃発。
昭和七年、
大満州国誕生。
同年、
英国のリットン卿が満州国を視察する。
我々巷でスットン卿とはやし立てる。
昭和八年、
国際連盟脱退。
昭和十一年、
二・二六事件と続く。

世相は軍事様々で、
将校の肩章で市中を闊歩する。
市内を歩くと至る所に、
出征軍人の幟が立ち並ぶ。
召集令状(赤紙とも言う)を受け取ると、
三日以内に万難を廃して、
所定の部隊に入隊をする。

親類の若者に令状が来る。
縁者、知人、友人集まって、
盛大に送別会の宴席を設けて送り出す。
門には祝、
○○君出征の旗や幟が所狭しと林立する。
見送りの当日は、
国防婦人がエプロン姿で多数。
近所、隣の人々が、
日の丸の小旗を手に、
旗や幟を高々と打ち振り振り。
駅頭まで万歳万歳を連呼して賑やかに見送る。
これは、
出征兵士に対する国民の義務。

街角では出征兵士に贈る。
千人針(布に一針ずつ括り目を付ける)千人に依頼する。
これは女性のみの行為で、
これを腹巻き変りに体に付けると、
敵の弾が当たらないとの迷信。

男は墨で布に力と書く。
千人力。
寅年生まれの人は自分の歳だけ書いた。
寅は千里を行って千里を帰る。

故事に倣う後に、
残る出征兵士の家族達が、
我が息子、我が夫。
女性が恋人よ生きて帰ってと、
祈りを掛けて、
一人一人に頭を下げて、
通行人千人に依頼して出来上がる。

日の丸の日章旗にも親しい。
友に贈るべく街頭で、
その人の氏名を書いて貰った。
親友が親しい友達が、
令状受け取り入隊するが、
当分は音信が不通で、
ある日突然に受け取ると、
意外な戦地よりの便りだが、
検閲の判を押した内容平凡な、
便りのみが届く。
知りたいことは書かれてない。
内地では想像も出来ぬ、
極寒の荒野で軍務に精励に励んでおりますと…。

第28回『青年訓練所での事』

肥桶を担ぎ、
無言で日を過ごす。
自作農であれば考えも変わるが、
我が家は小作の三段百姓、
貧困のどん底での生活から抜出したい。

どうせこの体では、
徴兵検査は丙種合格と思うが、
検査終了迄は何事も体験で辛抱しようと、
父の言い付けに無言で従う。

当時男児十六歳になれば、
地域の青年訓練所に入所の義務がある。
私もその四月に友と共に入所する。
弁論部があるのを知り友と共に入部する。

家に帰り、
弁論部の事を話すと皆は目を丸くして、
「へー。」
と信用しない。
私は人前に出ると顔を赤らめて話も出来ぬ、
恥ずかし屋であった。

最初の頃は、
演壇に立つのも足が震えて、
喋る事は不可能に近い。
繰り返している間にどうにか慣れて声が出る。
原稿は全部自分が考え書き、
それを機会あるごろに演壇で喋る。

青年訓練所は月二回程度で、
午後六時頃より軍事訓練を受けるが、
筋骨薄弱で身長は低く、
整列の時には最後列か前列に並ぶが、
百姓をしているせいか力はあった。

雨が降ると訓練は休みで、
講堂で我々弁論部の活躍の時間で過ごす。

公会堂での演説等は、
時間を繰り合わせて聞きに行った。
風水害のニュース映画を街頭で見て、
部員と話し合い、
鼓笛隊に頼みに頼み、
ブカブカドンドンで、
人を集めて繁華街で募金を募った事もあった。