第27回『夜学時代』
試験を受ける。
四月より通学する事になるが、
月謝の七十銭が工面出来ず、
でも何とか母の許しを得て通学する。
その年の十月に世話する人があって、
郵便局の電信課へ就職する。
日給月給で十二、三円。
全額を親に渡すが、
私の小遣いは一円。
臨時雇いで、
勤務時間は午前八時より午後四時までで、
それから局より帰り田畑に行き用事を済ませ、
夜学へ。
一年生の成績は皆勤賞と五十名中十番。
これが私の学校成績では最高でした。
就職の翌年の四月に本採用になるが、
勤務時間に変更があり、
一週間に三日、
夜勤が当たる。
後の三日の一日は午後六時終了で、
学校が始まるのは午後六時。
そんな状態で通学をしていると、
ある時、校長室に呼ばれて、
「これだけ休むのであれば退学しろ。」
と言われる。
勤務時間を話すと、
「ウンそうか仕方がない。」
で話しは打ち切り。
それでも通学をするが、
月小遣い一円では学用品も買えないし、
頭髪は伸び放題。
郵便局員が見兼ねて、
休憩時間に散髪をしてくれるが、
虎刈りになる。
給仕だから書類を持って局内を歩く。
行く先々で笑われて、
別の局員が剃刀で剃ってくれるが、
所々血が滲む。
そんな感じだが局員より励まされて、
教科書持参で通勤して、
その日学校で習うカ所を教えて貰う。
先生多数で不便を感じなかった。
皆は、
「電信のモールス信号を覚えて、
試験を受けて局員になれ。」
と進めてくれるが、
私には小さい時から偉大なる夢がある。
出来ないだろうが実行に踏み切りたい。
それは世界一周無銭旅行。
偉大な夢だが、
それには手に職を付けたい。
そんなこんなで散髪代金不用になり、
学用品が買えるようになった。
二年の正月の書き初めの時、
擦る墨が氷り、
字が書けない。
小使室で火鉢を借り、
すすりを温めて、
どうにか書き上げるが、
どうも気に入らぬ。
隣の友も首を傾げるので、
お互いに交換して出す。
後日、
講堂に張り出される書き初めを見ると、
友のが優秀賞で私は一等賞。
報償と褒美の品を受け取り、
先生に交換した事を相談すると、
「今更どうにもならん、
褒美の品だけ交換しろ。」
でケリが着く。
学期末の試験も終わり、
それでも五十余名中二十二番で卒業をする。
郵便局では二年間無事故で皆勤で、
時の郵政大臣より規定で褒状を貰う。
歳が嵩み、
いつ迄も給仕では恥ずかしく、
辞めると言えば父は不機嫌。
だが遂に十九歳で父に無断で辞める。
翌日より母と共に田畑で働くが、
父は早くも隠居気取りで出歩く。
第26回『高等小学校を卒業だ』
中学校や女学校は金持ちが行くところで、
それらの試験に滑り来る者も高等小学校である。
新入生は、
男女併せて二千人近い。
教室は男女別々で遊ぶ。
運動場も別々。
学校近く五十メートル程の手前より、
通学路も別々であった。
この時代、
小学校を卒業すると女の子は、
家事の手伝いで表で自由に遊ぶのを制限される。
家事全般の見習いや、
針仕事、裁縫、お茶、
お花と習い事が目白押しである。
結婚も早く、
二十歳も過ぎて家に居ると世間の目が恐ろしい。
「あの子、どうして結婚しないの?」と言われる。
結婚も殆どが、
世話好きの人が奔走して見合い結婚をする。
それが当然で、
恋愛結婚は極少数に限られた。
学校も無難に進級して早くも修学旅行に行く。
注意を先生が説明する。
家に帰り父母に話すと、
お金が無いから止めとけと言う。
一年生の時から、
毎月積み立てているが、
着て行く学生服が無い。
現在着て通学する服はボロボロで、
新調しても、
後に誰が着ると、
親に押し切られて断念する。
男学生千余名の中で五、六十余名行かずに残った。
朝礼を済ますと先生が自習しとけと、
後はほったらかしなので、
我々弁当箱を持って学校を抜出して、
近くの山で遊ぶ毎日が続き、
ご満悦だったが、
京阪神から帰った級友達が、
旅行中の様々な話しをしているのを、
横で聞き空しさを感じた。
昭和四年四月に高等小学校を卒業をする。
就職はさされず、
家の百姓を手伝わされたが、
父は私にその日の仕事を言い付けて何処かへ行く。
母と二人で働く。
月小遣いとして一円を貰うが、
散髪と下駄は自分で買う。
散髪代は五十銭、
下駄は適当な物を買えば良い。
市内に商業専修学校の夜学がある。
父に相談すると、
「お前は小さい時に医者に金を運んだ」で、
話は打ち切られる…。
悩みに悩んだ末、
夜学に行き二年生になる人を探して、
不用になった一年生の教科書を、
タダで貰い受けるべく奔走する。
そして遂に願いが達成する。
第25回『昭和の初期頃2』
大正、昭和の初期頃は(一九二六年頃)、
子供が小学校に入学すると、
何処の家庭も、
庭の表の履き掃除を義務付けて、
サボルと夕食抜きの制裁がある。
いい加減に掃除をしていると、
近所の小母さん達にも叱られた。
学年があがるに従い、
家の中の履き掃除、
拭き掃除と言い付けられた。
廊下等の拭き掃除で汚れが目立ってくると、
親は「拭けと言ったが撫でろとは言わぬ」と、
力不足の掃除の仕方を叱りつつ指導をする。
初夏の頃、
夕食を早く済ませて、
土曜日の夜、
友を誘い合い、
往復七、八キロの田舎に蛍狩りに行く。
笹を折り、
即製の道具?で、
川の辺で点滅しつつ飛ぶ蛍を追う。
時間と共に辺りは真っ暗になり、
不案内の側溝を歩き、
草の葉に憩う蛍を捕る。
二、三十匹は籠に納めて帰るが、
その頃には、
もう十二時も近い。
籠の中へ蛍草を入れて、
裏の木に吊るして点滅にご満悦。
楽しみの一つで毎年行く。
近所の軒下に燕の巣がある。
親が小燕に餌を運ぶ。
その巣を狙い、
蛇が近づくが子供達騒ぎ見る。
親燕が飛び帰り、
奇声をあげて飛び去るが、
すぐに多数の燕を連れて帰る。
燕が蛇を襲い庭に落とす。
蛇の目は血だらけ…。
上空で囀ずる、
雲雀は私達に春を告げる使者である。
雲雀は、
飛び立つ時は自分の巣より飛びたったが、
降りる時は、
巣より相当離れた所に降りる。
田で麦の除草をしていると、
鳥が子鳥を連れて飛来する。
ミミズや蛙を投げ与えると、
直ぐ親鳥は子鳥に食べさすが、
幾日か過ぎる頃には今度は、
ミミズや蛙を投げ与えると、
子鳥が親鳥に食べさす。
古老の話では、
「鳥は親に育てられた恩を返して巣立つ」
と話す。
毎日、
餌を与えていると、
慣れて足元迄来て餌をねだる。
寒い風に吹かれながら、
心が暖まる時間が送れた。
夕暮れ近く、
塒(ねぐら)に帰る、
鳥と鳶(とんび)が喧嘩を始める。
鳥は鳶の腹を目掛けて、
直線に下より鳶を襲う。
鳶は、
上空より弾丸の様に直線に落下して鳥を襲う。
互いに奇声をあげて、
見る目を楽しませて貰う。
無数の蟻の大軍が集まり敏速に動く。
不審に思いかがんで見ると、
蟻の勢力争いらしい。
何分か後、
無数の残骸を残して両軍引き揚げる。
第24回『高等小学校について』
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小学校六年生の進級の時は、
クラスの番号は十番近く迄挙がるが、
中学校進級の者達が、
放課後の特訓と、
夏休みも返上の勉強で、
成績が向上したのであろうか、
私の卒業時の成績は、
五十余名中二十三番だった。
高等小学校に入学する頃の学生服を着る者は、
八、九割が着物で、
通学はチラホラ見受けた。
私もお古で縫い込みのある学生服で通学をする。
学校迄、
片道で七百メートル程あり、
帰宅の時は走り帰るが、
少しでも帰りが遅いと父に嫌味を言われた。
その分、
妹達が頑張る。
冬は胡瓜の温床作りで忙しく、
秋は稲の刈り込み取り入れ、
春は地こしらえ。
夏は夏休みがあるが、
稲田への水かえの水車回しで、
夏休みの宿題に四苦八苦で毎年過ごす。
私の一番嫌な事は、
毎月の様に父の車の後押しで、
人糞を汲みに行く事。
通学路を通り往復するが、
翌日学校に行くと級友から苛めに合う。
こいつ臭い臭いと突き飛ばされる。
実に悲しい数日を過ごした。
人糞は毎日田で見ているが、
糞汲みの日は実に憂鬱であった。
級友で私が独り百姓だったから…。
一度、
終身の時間に二宮金次郎は、
肥坪の肥料が熟しているかおらぬか、
指を入れて嘗めて確かめて使ったと、
先生が説明をする。
さぁ大変、
休憩時間に、
「お前、糞を嘗めるのか。」
と苛めにあった。
級友で一年生の時から、
歩行困難で毎日乳母車に乗せられ、
母が連れて来る者がいた。
通学路の途中だったので押して帰る。
それが切っ掛けで私を入れて三名、
毎日、
雨の日も風の吹く日も、
三年間休まず通学するが、
一度として誉めて貰った事が無いが、
当時としてはそれが当たり前。
私達三名三年間、
重い鞄を乳母車に投げ入れて、
背負う事無く過ごせた。
六年間一度だけ、
父の言い付けで、
田植えの時に学校を欠席する以外は、
なにも賞を貰えぬが、
皆勤賞だけは持ち帰る。
高等小学校の折り、
学校で売る、
五銭の豆パンが食べたかったが、
遂に心を残して卒業をする。
今だに思い出す。
第23回『遊びまくり2』
「寒い寒い」と言えば、
「冬は寒い」と叱られた。
親に対しては絶対に服従して、
言い訳は禁物。
ラヂオも数少なく、
子供は早く寝ろを追い立てられた。
寝床の暖房は一切無い。
冷たい蒲団に潜り込みそのまま寝込む。
現在と違い、
毎朝二、三センチの氷が張る。
夜中に雪が降ると、
戸の隙間より雪が吹き込み積もる。
台所のお櫃の中のご飯が氷り、
お湯を掛けて氷を溶かして食事をする。
貧しい家の常識とされる。
多くの童子達は、
目糞鼻糞の顔で遊び、
鼻下には二本の青鼻を垂らす。
それを着物の袖口で撫でるから渇き、
袖口ピカピカに光る。
学校に入学する子供にも良く見かけた。
雨が降らぬと春夏秋冬は、
表で遊べと親に追い出された。
家の中で遊ぶと畳は早く破れるし、
襖障子を破るから、
貧乏人の悲しい護衛。
時には雨の降る日、
蓄音機のある家に行き聞き、
楽しむ事がある。
自転車、
氷の冷蔵庫、
魔法瓶、
ラヂオ等のある家庭は資産家が多い。
子供達は、
大きくなったら、
あんな家に住みたいと話し合う。
庭に電話を取り付けた資産家、
隣、近所の人の呼び出しの電話が掛かると、
女中を走らせ呼出しを知らすが、
遠い所は片道二、三十メートルは普通だった。
ガスも市の中心部に行くとあった。
男の子の遊びは、
ベッタン遊び、
ラムネの玉遊び、
鉄独楽遊び、
すべて勝負で取り合った。
三センチ程の小さな鉄独楽(こま)を回して、
相手の回る鉄独楽(こま)を弾き飛ばせば戴き。
これ等は全部、
学校では禁止の遊びだが、
隠れて遊ぶ。
傍を通るおじさん達に、
止めぬかと注意されるが、
知らぬ顔で済ます。
先生が
「巡査が来た」
とそれを聞くと、
一斉に止めて、
品物を懐に隠して知らぬ顔をする。
近所に勇敢な小学生の女の子がおった。
喧嘩をするが何時も負けるのは男の子。
この子、
絶対に女の子と遊ばず、
我々と遊ぶが我々立ち小便をすると、
自分も立って小便をする。
裾を濡らして悔しがる。
ある日我々を呼び、
「私にも小さなチンコが生えて来た。」
と、
大喜びで皆に股を広げて見せるが無い。
「良く見ろ。」
と更に広げるが見えぬ。
遂に泣き出すが、
我々チンコ等は生えるかと言い合う。
でも喧嘩早い強い女の子だった。
又、
絶対に男の子と遊ばない男の子もおった。
男女共通でも遊ぶ。
隠れんぼう、
陣取り、
鬼ごっこ、
又、
男女手を丸く繋ぎ輪になって、
その真ん中に目を瞑り座り込む。
その子を中心に、
童唄を唄いつつ回る。
「かーごめ
かーごめ
籠の中の鳥は
いついつねやる
よあけのばんに
つるとかめが
すべった
うしろの
しょめん
だぁれ」
と唄い、
停止すると中の目を瞑る子が、
後ろに立つものを言い当てるが、
間違えば、
「そーれは
おおきな
おおまちがい」
と、
それを繰り返して遊ぶのが、
囲め遊び。
正月には羽子板で羽根突きの遊びをする。
「ひとめ(ひとつ)
ふため(ふたつ)
みやこし(みっつ)
よねこ(よっつ)
いつやの(いつつ)
むさし(むっつ)
ななさし(ななつ)
やさし(やっつ)」
唄い遊び、
負けると顔に墨を塗り合う。
スゴロク遊び、
カルタの取り合い、
百人一首、
大人も交えて離れで男女仲良く騒ぎ遊ぶ。
だが昭和の初め頃には、
男の子の遊びと女の子の遊びは、
殆どが別々に遊んだ。
第22回『昭和の初期頃のいろいろ』
大道芸人には支那人が多くて、
十歳未満の少年を連れて芸をする。
少年が足と頭で腹を上に反り、
その腹の上に大人の支那人が乗る。
下の子供はアイゴーアイゴーと泣き叫ぶと、
乗った大人が、
「皆さん下の子供が可哀想だ。
早くお金投げる宜しい。」
と叫ぶ。
そんな芸当が殆どだった。
又、
朝鮮人が、
幼い子供を数人連れて家に、
「こんにちは。」
と入り、
「食べるのに困るお金ください。」
と哀願する。
家人が、
施しをと部屋に姿を消す僅かな隙を見て、
何でも持ち去る。
駅の雑踏での置き引き当等、
油断の出来ぬ相手であった。
そんな朝鮮人達がウヨウヨと彷徨う。
そんな時代。
日本も一等国の先進国に習い、
夏の暑い日に、
警官が巡回の時に、
家の中を覗き見て、
家人が裸で涼んでいると、
上着を着ろと注意をした頃もあった。
その頃の人に与えられた選挙権は、
所得税の納税者のみで、
私の知った人は、
初めて選挙に行く年齢になり、
紋付を着て、
羽織袴で行くのを見る。
金品の受け渡しは、
半ば公然だった思いがする。
変われば変わるもの。
今は無いが、
戦前は政府公認の遊廓があった。
遊廓とは男女が裸で接する所で、
港内の船の停泊する所にあった遊廓は、
船員が船の手入れをしていると、
遊廓の二階より前を広げて、
オコシを振り振り船員を呼ぶ。
それが有名だった…。
こうした女を女郎と呼ぶ。
若者の精力の捨て所、
一度の遊びで花柳病に侵され、
恥ずかしい思いで、
医者通いの若者を良く見かけた。
その遊廓も整備されて、
今は跡形も残さず。
雨の降る日には、
番傘差して高下駄を履いて歩く。
この番傘の骨組は全部が竹細工です。
糊で紙を張り油を吹きつけて出来上がり。
高下駄は六センチ~八センチ位の高さで、
つま先に、
先皮を着けて足の汚れを防ぐ。
女性が、
この格好でヨナヨナ歩く姿を遠目に見て、
『ぶ女も遠目、夜目も傘の内。』
と、
ぶ女も美人に見えるという例え、
古人の言葉には実に味がある。
隙間の多い当時の建物だから、
隙間風に怯える。
誠に、
針の穴から、
立て臼の様な風が入るとの例えがある。
立て臼とは餅を搗く時の臼を言う。
だから隙間風には敏感で、
得に障子の開閉には注意しろと、
これは喧しく躾られた。
貧乏人も躾だけは厳しかった。
成長するに従い、
女性の行儀は特に厳しく躾けられる。
立て膝、あぐらを組むのは論外で、
隣近所の挨拶から、
箸の正しい持ち方、
女の木登り等は繰り返し教わる。
小学校を卒業すると、
男性との語らいは世間の目が厳しくなる。
大声は出さず、
高笑いは叱責を食う。
二言目には、
女らしくとの一言で躾は厳しさを増す。
大人になると、
幼年期、
少女期の着物の、
筒袖に変わり袂も長く、
帯もヘコ帯で無く、
幅が広く胸高に結ぶ。
髪もお下げで無く、
長く伸ばして変化がある。
正装の時は長い振袖を着る。
羽織もはでになり、
娘らしい装いになる。
そして様々な習い事を始める。
男性も、
肩挙げ腰上げが無くなり、
筒袖が徴兵検査を済ます頃より、
袂のある着物に変われば、
アァあの子も青年に成長したかと、
大人との付き合いが出来て、
人前で煙草も吸える。
酒も飲めるが、
何事も自分の責任で物事を処理しろと、
社会人としての躾が、
一層厳しさを増すのであった。
第21回『お遍路さん』
人の心はまろやかで、
信心深い。
弘法太師が開祖の八十八ケ所巡りは、
特に噂高い。
江戸時代より難病に苦しむと、
八十八ケ所を巡礼する。
四国の人はそれを、
太師のご利益で早く全快して帰れと、
餞別を渡して、
ていよく追い出す。
最初の頃は白衣を着て、
金剛杖を持ち熱心に回るが、
日が過ぎて何時頃とも無く、
乞食に落ちぶれる人々が、
集団で暮らすようになる。
巡礼の道筋は早朝より門を開けると、
早くもリーンと鈴の音が聞こえる。
お布施をしない時はオトーリと断るが、
門に立つのも修業の一つで、
経文を高らかに唱えて立ち去る。
お布施は、
お米か一銭。
だが毎日一日数多く立つ。
お遍路サンと呼ぶが、
落ちぶれて乞食になると、
ヘンドと呼ぶ。
子供の時、
このお遍路サンとヘンドを間違えて、
お遍路サンに怒鳴られる事は、
始終体験をする。
このヘンド、
集団で暮らすが様々な奇怪な話がある。
村の長者の注文で、
結婚式の祝いのお膳の注文を受けて、
配達すると、
長者戸惑い、
「知らぬ。」と。
付近に乞食が立つ。
アァそれはコチラですと、
乞食部落へ連れて行かれる。
そして無抵当で、
お金を貸します。
煙草を吸うキセルが純金のキセルであった。
私の前の池の辺に、
乞食が住み着く。
朝はイザリに変装して、
小さな箱車を竿で押して出て行くが、
帰りに池の水で手足を洗って、
銭湯に行き、
着替えて夜の繁華街に遊びに行く。
食事は、
季節の初物を食べる。
実に贅沢な生活風景でした。
大阪の天王寺の沿道で、
讃岐の乞食を見る。
乞食も出張をするらしい。
実にのんびりとした世相だった。
讃岐の特産品の中に醤油豆がある。
それは弘法太師が空豆を煎っていると、
一つが飛び出して横の水の中に飛び込む。
翌日見るとフックラと美味しそうに膨らむ。
それを醤油で味付けする。
それが名物の醤油豆の由来とか。
見苦しい病人を良く街頭で目にするから、
観光客は四国は不潔と言っていた事もあった。
たしかに、
当時は癩病(性病)患者は良く目にしたが、
その殆どは、
本土の落ちぶれた乞食の人々の姿だったのです。
第20回『放火魔犯の解決の糸口になるの巻』
男の児童の遊びに、
日用ボール(ケン玉)が日増しに、
追い風に振られるように大流行する。
これは、
自分用を持って居らぬと遊べない。
私も欲しいが親にも言えず、
皆の遊びを横で眺める。
何かの時に皆が、
休む時がある。
そんな時に親しい者に、
借り受けて練習をする。
真剣だから上達は早い。
友達同士の試合があると、
皆が進んで貸してくれる。
縁日に行くと、
何ケ所にも売り場がある。
売り主と競争をして、
勝つとケン玉がタダで貰えるが、
負けると倍額を支払う。
それが又人気なのである。
値段は二十三銭。
その内に、
学校で一時禁止命令が出る。
でも手軽く足腰の鍛練には、
最高の遊び器具と思う。
夏の暑い日、
畑の横で妹を背負い子守をする。
フト見れば男が溝を跨いで、
小屋に火を付けている。
火災だ!
父に知らす。
日曜日で野球練習見物多数の人々が、
バケツを手渡して消火に協力をする。
その頃市内で放火が続発するが、
犯人を確認出来ず。
苦慮する最中に犯人を目撃する私に、
消火後、
刑事が現場で次々と、
犯人の容姿を繰り返し聞く。
遂に私は泣き出す有り様であった。
後日、
何回か家から警察に刑事同伴で、
連れて行かれる。
それが犯人逮捕に繋がる事になる。
刑事室で、
アノ窓を覗いて中の人の顔を見ろと言う。
が恐ろしくて覗けぬ。
アノ窓の硝子は中からは、
外の人の顔は判らぬし、
中の人には鏡だと教えられるから、
意を決して覗き見ると、
アノおっさんだ。
頑強に否認する犯人も遂に白状する。
秋祭りは夏と違い。
人出も多数で、
物売りの店鋪も両側にびっしりと並ぶ。
子供達親戚を訪れてご馳走を頂き、
財布の中身も重くなる。
五銭のラムネでも買おうか、
また悩む。
お渡りの合図の花火が、
景気良く上空で炸裂する。
少しでも、
見やすくと場所の取り合いも過ぎる頃、
笛や太鼓も賑やかに囃し立てて来る。
各町内よりの山車も目の前に、
奴を振り、
上手く受け止めて喝采を受ける。
獅子舞、
だんじりが景気良く四人で太鼓を叩き来る。
一度乗って太鼓を叩きたいと思った。
飽きずに眺めるお渡りも、
殿(しんがり)が過ぎると、
さっと、
人々も帰りを急ぐ。
何時も思うがお祭りが終わり、
後の片付けは大変だと思う。
第19回『祭り』
昭和天皇の御大典記念の行事は、
日本国中休みでお祝をする。
毎夜の様に提灯行列が続き、
夕暮れ時、
早くも市内の繁華街には、
思い思いに仮想した市民が繰り出す。
我々悪童達も、
提灯行列にて又侍姿に変装して、
腰には両刀、
旧家より借り出した、
真剣を差して闊歩するが、
翌日疲れで昼寝をする。
学校も臨時休校で、
翌日も繰り出す。
遊びも続けば、
魅力は半減する。
都会は商売の暇な時にお祭りをするが、
田舎は農閑期にする。
市内の氏神様の五月のお祭りは、
百姓相手で、
様々な農機具類や植付けの種や砂糖黍類が、
多様に並ぶ。
子供は祭りを最大限に喜ぶ。
常日頃は小遣い貰えず過ごすが、
お祭りには、
氏神サンで平均的に三銭から五銭、
地域の神社で一銭から二銭である。
ニッキ水が二銭、
ミカンスイが二銭、
ラムネが五銭、
飴玉が三ヶで一銭、
広い台の上に欲しい物が並ぶ。
アレもコレも欲しくて、
指を加えて見つめる横では、
ガリガリ音を立ててのカキ氷が一銭。
アイスクリームも欲しい。
線香花火が一束が一銭から。
これが楽しみの1つで、
二、三銭の小遣いを貰い、
あっちの商品をこっちの品物をと、
見て歩く。
そして、迷いに迷う。
横では大人達も、
農機具、種芋、砂糖黍等々。
腰を折っての座り込み。
試しすかして担い、
天秤棒の選別に余念が無い。
その横では何を植えようか、
蒔こうかと思案投げ首。
主婦達は大量に吊るした竹細工の中から、
ザルを物入れを、
大小を、
深いとか浅いとか、
出来具合を透かし見て、
ふところ具合に自問自答して、
値段の交渉で楽しんでいる。
手に乗せて押さえたり、
重さを感触で楽しみつつ、
値段の交渉で一銭でも安くと、
値引きの駆け引きで腹の探り合い。
竹細工の物は多種多様で、
お互いに一銭でも高く一銭でも安くと、
相互の楽しみの時間を送る。
農機具は、
これから田植えの時期を迎えて、
藁に笹に筍の皮で編んだ傘や、
鳥追い傘等を頭に乗せたり、
藁を笹を着たりと、
お互いに値段の交渉に一時を過ごす。
納得をして支払い、
品物を受け取り、
隣で品物を見ると、
同じ物で、
まだ安いのがある。
シマッタと悔いを残す。
これが祭りの最高のスリルである。
買わずと冷やかすのも、
又、
楽しみの一つ。
地域神社の祭礼も、
打ち上げ花火、
仕掛け花火と楽しみ満載。
境内の舞台でニワカの演劇を、
立ち見で見物して時間を忘れる。
電灯で無くガス灯の匂いも懐かしい。
新しい足に食い込む、
心地よい下駄を履き、
ピーンと折り目の浴衣を着て、
植木を下げて、
皆とを語らいつつ帰るのも夏祭りの楽しいひととき。
解放された心地で、
家に帰り、
花火で遊ぶのも、
縁日であればこそと感謝をする。
第18回『学校話しもいよいよ後半です』
皆勤賞と学力優等賞を貰う。
そして、
六年生に進級する。
全国の六年生の習字の中から、
選ばれて私の書いた習字が、
台湾総督府へ送られる。
それからというもの放課後、
習字の先生より特訓を受ける事になる。
ある日、
教室の戸口に父の野良着姿を見る。
先生と暫く話しておったが、
先生が父に、
「この生徒は習字を教えれば物になる。
貴方も忙しいだろうが子供の為に辛抱して習わしなさい。」
と。
父は、
「百姓には字は要らぬ」
と私を連れて帰る。
先生、最後に、
「惜しい。」
と言っておった。
六年生だから、
中学校へ進級の者達は放課後居残り、
夏休みを返上して試験準備の特訓を受ける。
組の半数近く居残る。
秋に修学旅行がある。
県内だが一晩留まりで汽車に乗り立つ。
生徒の半分以上は汽車に乗るのは初めてで、
わぁわぁ騒ぎ楽しむ。
親に離れて宿に泊まるのも初めて。
旅行より帰り、
感想を綴り方で書く事になる。
余りにも見聞が広くて綴り方で無く、
あずり方と騒ぐ。
中学校へ試験が合格して十余名行く。
尋卒が三名ばかりで、
残りは市内に一ケ所ある高等小学校へ。
その頃、
学生服を着る者は男は約七割で、
女は半数でした。
私は着物を着る。
私の家は雨が降ると、
父は庭で縄をない。
母は機械でコモを織る。
我々兄弟は父が使う藁を、
小槌で叩き柔らかくするが、
小学一年生の私には小槌が、
片手では重すぎて叩けず父に叱られた。
力不足はどうにもならん。
私達兄弟は八月のお盆に、
お参りする人々を相手に商売をする。
墓の掃除や希望する人々に水を持参して、
線香やロウソクを売る。
売り上げは全部父に渡す。
野球場の中売りは、
昼近くはパン類を、
午後に入るとカチ割り氷を、
激戦の試合中は涼しい所で試合を見る。
そして涼しい日にアイスクリ-ムを売る。
それは涼しいと売れ残るので、
店主が食べさせてくれるからである。
グランド掃除が楽しみ。
様々な物が落ちていて、
拾い、
沼沢を得て持ち帰る。
扇子等何本も持ち帰り、
親しい人に差し上げ喜ばれる。
高等小学校の一年生の折りに、
写生会で神社を写生する。
それが台湾総督府へ送られる。
先生、
私に、
「写生は写生だが、
お前、
習字を習う気があるか。」
後日の事を話すと、
先生、
「親に話してやる」
と、
家に来て父に話すが、
百姓には字は要らないと断る。
先生も惜しいと言っておった。
習字は実に楽しい科目だった。
六年生の頃に、
我が家で待望の柱時計がやってくる。
時を知らすチーンチーンと。
何時しか汽車の汽笛も忘れて時計を見る。
便利な物と改めて時計を見る。
四年生の頃に、
我が家の前の道路に水道管が敷設された。
これで長い水汲み作業も終わりかと喜ぶが、
我が家は水道を取り付けず。
六年生を卒業の頃に、
町内に共同水道が出来て、
その時、やっと長い水汲みから解放された。
大正十五年の年末に、
天皇陛下が崩御なされる。
日本全国に鳴物一切禁止の触れが出されるが、
間も無く正月で、
子供達が表で騒ぐと、
巡回の巡査に騒ぐなと叱られた。
ひっそりとした正月を迎えるが、
我が家の離れは、
例年のごとく大勢集合する。
何をしても騒げず、
遂には蒲団の中に蓄音機を入れて、
皆は頭をツッ込み音楽を聞く。