五目紙物店「寅屋」 -10ページ目

第17回『蛙』

我が家の畳は、
破れて中の藁が多数見える。
それを隠す為に渋紙を張り付けて誤魔化す。

父は酒の一滴も飲めぬが、
年末が来ると酒屋の主人が、
母に支払い(当時は盆と年末支払い)
を要求している。
醤油と酢の残金が何時も十余円を超えていて、
母は何時も苦渋を顔に頭を下げている。
訳が分からず寂しく眺める…。

父は器用な人で、
藁屋根の葺(ふ)き替え等を請負帰り、
私達、子供を連れて行く。
古い藁を屋根から降ろして束にするが、
多年の埃で全身真っ黒くなる。
兄達は荷車に積み込み藁を運ぶ。
運んだ新しい小麦藁を屋根に並べて、
それを大きな針に縄を通して縫いつけるが、
その針の穴に縄の端を、
通すだけの仕事に屋根裏に入る。
それが私の仕事。
僅かな明かりを頼りに、
差し入れた針の穴に縄を通して、
次を待つ。
見える物も無く、
長時間一人屋根裏の仕事は、
嫌だが嫌とも言えず。

頑張って仕上げ、
夕方帰ると全身鼻の中まで真っ黒で、
それを井戸水で洗い風呂に行く。
父より労りの言葉も無し。

時々連れて行かれるがその度に、
兄弟行くのを渋る。
又、時には掘抜き井戸の仕事の雑用に、
連れて行かれるが、
暇が多くて遊び相手も無く行くのは嫌だった。
父は左官仕事の壁土練りも行っていた。

私の家の裏庭には、
大きなイチジクの木が三本、
桃ノ木や蜜柑の木、
ザクロ、葡萄の木、
ユスラメ等がある。
季節毎に父の許しで収穫をするのが、
楽しみであった。

イチジクは朝目覚めると木に登り、
木の股に腰を降ろして、
朝露に冷えたイチジクを食べる。
実に楽しい。

又、
葡萄の房の中より、
熟したのを一粒ずつ食べるのも、
朝起きの楽しみ。

夕方近く、
鶏を小屋に入れる前に、
ザクロの木を揺するとブンブンが多数落ちる。
それを鶏が競って飲み込めば、
暫くは胃の中でブンブンと動いている。
その頃に離れの靴脱ぎ石の、
下の穴から数匹の『がま蛙』が出て来る。

鶏に突かれ乍らも、
目を白黒にしてブンブンを飲み込む。

何時の頃からか声を掛けてやると、
出て来て鶏と仲良く飲み込むようになる。

そして何時頃と無く、
私が呼ぶと、
のっそり出て来る。

雨降りの日なんかに庭を通り、
表に出て行くのを見ると、
私が、
「こら表に出ると殺される。」
と声を掛けてやると、
グルリと裏に向けて方向転換。

何時しか私の声だけでも方向転換をする。
それが評判になり、
大人達わざわざ見に来て、
「蛙でも人間の言葉が判るのか。」
と感心仕切り。
何年も数匹が居候していた。

秋深く田園へイナゴ捕りに行く。
番(つが)いを使えば二匹一度に捕れる。
それを鶏と蛙に与えると、
鶏の羽根の色が綺麗になる。

カマキリは交尾を済ますと、
雄は雌の餌食になる。
雌が雄の頭より食べるを見る。

諺(ことわざ)に、
『蜘蛛の子を散らす』と聞くが、
蜘蛛の白い膜が破れて蜘蛛の子が出て、
瞬時にして四方に小蜘蛛が飛散する。

第16回『アッパッパー』

夏は遠く行かずに近くの沿岸に行く。

引き潮の海岸で、
堤防の石組の穴に手を入れると、
蛸やなまこ、海老、小蟹等がいる。

素手でそれを掴み捕るが、
蟹に指を挟まれて目を白黒する。
泣けば皆に笑われるから辛抱をする。
大収穫の時は夕食のお膳を賑やかに飾る。

引き潮の時は餌を掘り、
釣り竿担いで磯釣りに精を出す。

熊手を作り、
潮の引いた時に誘い合い、
遠浅の砂地の流れに熊手を入れて引くと、
海老、蟹等、
様々な小魚も飛び出して来る。
結構、
収益を兼ねた遊びであった。
時には大人に連れられて行き、
穴場を知ったりする。

のんびりした時、
人数が揃えば草野球をする。
用具は不足だが、
適当に持ちよりバットの無い時は、
適当な棒切れで間に合わす。
幾組かが、
競り合い、
譲り合い、
仲良く時間を送る。
人数不足の時は三角ベースで済ます。
野球は実に盛んに面白く遊ぶ。

これも時代の流れか、
大正の終わり昭和の初め頃には、
女性の服装に驚く程の革命が起こる。

それ迄は、
和服に帯を締めて髪を結い上げ、
下着は肌ジバンにオコシで過ごす。
学校の女生徒は、
全員オコシを止めて、
パンツをして学校に来る事と義務付けられる。
それが大人にも浸透して、
流行に鋭敏な女性にウけて、
夏が近づく頃より、
簡単服(アッパッパー)が大流行をする。

帯を締めず、
髪も束髪で大喜びをするが、
オコシを裾より長く出してご満悦に浸る。
それが実はノーローズで男性達の密かな喜び?

パンツを履けと喧しく宣伝するが、
大人の女性達何だか裾がモゾモゾすると、
だがご満悦。

若い女性達は、
パーマメントに飛びつく。
だが今と違い、
モジャモジャと髪の毛を短くちじらせた様で、
何と無く見苦しい。

子供達、
遊び疲れてぼんやりしている時に、
パーマメントの女性を見かけると、
サァー大変。

歩く娘サンに歩調を合わせて、
後ろより大声で、
はやし立てるが、
娘サン逃げも出来ず、
実に恥ずかしい思いだっただろう。

『パーマメントに火が付いて、
見る見る内に剥げ頭。
剥げた頭に毛が三本。
アァ恥ずかしや恥ずかしや、
パーマメントは止めましょう。』
と唄い、
はやし立てる。

その頃より朝は歯を磨けと、
学校で厳しく教えられる。
当時、
子供のオヤツは、
煎った空豆か、
大豆の煎ったのを与えられた。
空豆等一度に五、六ヶも口に剥げ煎れる。

甘い物は歯に悪く、
歯抜けになると言い聞かされる。

第15回『遊びまくり』

殆どの遊びは男女別々で遊ぶ。

女の子は主に、
オテダマとか縄跳びとかオハジキをする。
毛糸で編み物もする。
表の片側でゴザを敷きママゴト遊びをする。
たまに男の子が仲間に入ると、
その男の子は他の男の子に、
男@女と冷やかされて遊んで貰えなくなる。

男の子は、
地域ごとに餓鬼大将がおり、
集団を結成して遊ぶ。
泣かし泣かされて対立するが結局は、
餓鬼大将の強い組になびく事になる。

産めよ増やせの時代だから、
何処の家庭も六、七人が普通で、
十人兄弟も珍しくない時代であった。

雨が降ると表も静か。
だが雀がチュンと鳴けば、
表は子供の歓声で途端に賑やかになる。
雀は雨が止むと直ぐ飛び出すとか。

遊ぼうと誘いに行くと、
親の言い付けで出られない場合がある。
それを皆でやれば早く済むので手伝う。

例えば、
薪割りであれば、
木を切る者、
割る者、
束にする者、
後片付けをする者、
一時はテンヤワンヤの大騒ぎをするが、
出来上がると、
歓声をあげて遊びに飛び出す。
親も黙認で済ます。
とにかく手助けをしてでも皆と楽しく遊ぶ。

月小遣い等、
貰う者は皆無なので、
野山に行き食べられる果実を探して分け合い食べる。
でもこの時代、
何故かは知らぬが、
塵の捨て場で熟した果物、
例えば、
西瓜等は食べ頃でも食べてはいけない。
「人手に掛からずオロカ生えだから、駄目。」
と親より言い聞かされる。

田畑の水路で、
小魚やどじょう、
めだか等が泳ぐを見ると、
全員、裸になり、
水路に堰(せき)をして水をかえだし捕まえる。
時には網が欲しい時がある。
そんな時には、
「お前は網でも布でも拾って来い。」
「お前は針金を探せ。」
「お前は竹を取って来い。」
と、
部品が揃えば、
皆で掬い(すく)網を教え教えられつつ造り、
それで遊ぶ。

秋に山へ行くと、
松茸の生える所は縄を張り巡らしている。
入ると番人に叱られる。
でも縄の外の付近にも松茸の生える所があるので、
松茸を籠に入れて縄張りの所を歩いていると、
番人、
籠の中の松茸を見て、
盗んだのであろうと言い訳聞かず、
取り上げられる。

皆と相談して、
先ず、
縄張りの中で松茸の沢山生えている所を探し見つける。
そこで、
二手に別れて、
一組は人数を多くして騒ぐ組にする。
もう一組は少人数で縄張りに入って松茸を集める組。
騒ぐ組が、
番人に向かい、
大声で人が縄張りに入ったと騒ぐ。
番人が其の方に行く隙を見て、
松茸を集める組の者が、
松茸を集め盗み逃げる。
そして、
約束の場所に集まり、
小枝を拾い松の葉を集めて、
松茸焼きを造り、
皆でたらふく食べる。
それで全員が納得をする。

山には色々と食べられる物があって、
グイの実や柿の実。
だが柿は渋柿が多い。
グイの実も渋いのがある。
食べ過ぎて、
翌日に糞詰まりで難儀をする。

薮蚊や毒虫に刺された時には、
野草を数種類集めて良く揉み、
その汁を付けると不思議と、
かゆみや痛みが消える。
少々の怪我は野草で治る。

春秋は様々の花が咲く。
皆で抱えきれない程を、
手にして持ち帰り、
近所のおばさん達に配ると、
叱られる度合いが遠のく。
これも世渡りの一つである。

第14回『世相の様々』

当時は何処の家庭でも、
蚤(のみ)、虱(しらみ)、ごきぶりは、
付き物の様に目に付いた。

学校の朝会の折り、
前の生徒の襟に虱が這うを見る。
蚊は夕方、
各家庭の軒先に蚊柱が幾つも見られた。
学校の宿題にマッチ箱一杯の、
蚊を持って来いの宿題が度重なる程だ。

蝿も蝿採り紙が直ぐ真っ黒くなる。

夕景ともなると、
青松葉を炊き蚊を追い出す煙で、
火災かと間違う状態…。
親達は、
早く蚊が少ない内にご飯を食べてと急がす。

ごきぶりは台所の隅を素早く這い回る。
不潔さ年中であった。

物売りの声は絶え間もなく、
のんびりと忙しく通り過ぎる。

春は植木売り、
売り声のんびりと過ぎ行く後より、
間の伸びた売り声の金魚売りが、
ゆっくりゆっくり重い荷を担ぎ通る。

竹竿売り、
下駄の歯ま替え。
盥(たらい)の輪替えは、
長い割った竹を巧みに扱い、
輪を造り取り付けるが、
その前で見ておると、
「仕事のじゃまだ後ろで見ろ」
と叱られる。

煙草のみのキセルの掃除は、
子車を押して、
湯気の圧力でピーと鳴らして来る。
キセルを取り付けて湯気を出すと、
凄いヤニが飛び出す。

暑くなると、
鈴を気忙しく振りつつ、
自転車でアイスクリンと走り去る。

キリギリス、
コーロギ、
秋が深まるとクッワ虫、
鈴虫と売り声高く売り歩くが、
子供達、
暑い日中に友を誘い、
墓場でキリギリスを採る。
胡瓜や瓜の切れ端を置いて、
食べに来た虫類を採る。

屑紙買い、
夕景近くは、
豆腐売り、
寒くなるに従い、
人気のイカケ屋さん(鍋、釜等を修理する人)が、
落語の場面そのままに、
折り重なる様に修理の炎で僅かに温もる。

大正年間の子供達は歯は磨かず、
歯に歯糞が付くと爪でコサゲテ取る。

現在の様に、
各家庭には暖房施設は完備されておらず、
部屋に蒲団を敷き、
コタツを入れて足の暖房
(コタツの燃料は炭を粉にした大人の一握りの大きさ)
にする。
そして、火鉢の小さな炭火で手を温める。

日常皆を遊ぶ時は手袋はせずで、
学校も児童の通学時は手袋は禁止であった。

毎日、
氷が張り詰める寒さの中、
児童達の多くは、
霜焼けで手の甲は腫れあがり、
重傷ともなると、
裂けて血膿が出るので、
包帯を巻く児童を多数見かけた。

手足には、
皹(あかぎれ)(寒さで手足の皮膚が裂ける事)や、
ひび割れと被害者大半を占める。

日中は、
子供は風の子で、
何処の家庭も子供を家で遊ばせない。
綿入れ着物を着て羽織りを重ね、
前掛けをする。
下着はネルのシャツに股引を履く。
足袋を履き、
下駄か草履を履く。

着物は裾が冷えて寒さも倍加されるから、
温もる為に走り回るか、
日溜まりで暖をとる。

とにかく、
遊びは温もる遊びに熱中する。

大人も子供も女性も腰巻き(おこし)をする

寒さも厳しかったと思う。

極寒の折り、
五十メートル位離れた所の風呂屋に行った時、
帰りに濡れたタオルが、
家に帰り着く迄にカチカチに氷り付く有り様…。

とにかく、
現在と違い寒さは厳しかった。
それを思うと現代の子供は実に幸福と信ずるが、
慣れれば同じ事かも知れない。

第13回『子供の頃の我家の暮しぶり』

三年生になる。
学校の休憩時間には運動場で遊ぶようなり、
家でも皆と遊ぶが…着物を破り母に良く叱られた。
兄達は殆ど破らない。

着物を破れば叱られるので、
暖かくなると裸で遊ぶが、
今度は全身砂だらけで叱られた。

ある日、
母の世間話の折りに、
下の子供達は古着でよく破れるので、
可哀想と話しておった。

私の着る物は下着も着物も全部が、
三代目のお古ばかりで、
破れて当然。
又、
教科書も三代目。

二年遅れの妹は一年生の時から、
石盤、石筆で無く、
雑記帳を使った。
親達は勿体無いと、
ぼやいていた。
教科書も内容一新で、
全部が新品で通学する。

我が家には電灯は無く、
ランプの生活が長く続いた。
長兄が毎朝、
ランプのホヤの掃除をしていたが、
我家にも待望の電灯が灯る。
中央の六畳の間に長い長いコート1つで、
食事時には台所に裏の炊事場へと、
移動する。
初日、
夕暮れ近く電灯が灯ると、
兄弟各自団扇で仰ぎ、
消えない消えないと騒いだのであった。
悲しい悲しい思い出である。

ランプと違い、
部屋の隅々迄明るく、
寄り合って喧嘩をしながらの宿題も離れて出来る幸せ。

当時の児童達は大半が個人の机等は持たされず、
素麺箱を机変わりにして教科書を入れて持ち歩く。

我が家は殆ど現金収入が無い。
物心着いた頃には、
もう内職のバッカン真田を編んでいた。

これは夏の帽子の材料で、
一束二十七間(約五十一メートル)で六銭の収入。
父を除き全員で、
毎日の夕食後に、
暗いランプの下で寄り合い編んだ。
四つに割り、
道具で柔らかくして組む。
早い人で一時間に約四間。
材料は麦藁を硫黄で薫製して白くして、
それを組む。
その頃は何処の家庭でも内職に励んでいて、
燐寸箱傘の骨の組み立て等があった。

我家には時計も無いが、
近くを通る汽車の汽笛で時間を知る。

毎夜、九時頃迄、
バッカン編みの内職をして、
それから学校の宿題をするが、
眠くて居眠り半分の頑張りだった。

総領がまだ十三歳で子供は七人、
そして小作の三段百姓。
当然ながら貧乏暮しの明け暮れを迎える。
米の収穫が豊年であれば年間を通じてどうにか、
米三割、麦七割のご飯にありつけるが、
平年作か不作が続くと何時しか雑炊になり、
それも葉っぱの所々に麦がくっつく有り様の食事になる。
遂には、
連日、
馬鈴薯ばかりの食事が続く。
焼いたり蒸したり変化の有る姿だが、
主体は馬鈴薯だ。
母は漬け物のたくあんを切り、
味付けをしてオカズに変える。
苦しい遺り繰りも何時しか雑炊になり、
米三割、
麦七割のご飯に変わる。
そんな繰り返しの経済状態の生活振りだった。

父は塩田作業の下請けをして、
我々男兄弟三人を連れて行く。
それは広く広げた塩の付着した砂を、
所定の枡に入れた後へ新しい砂を広げるという作業。
七月に入ると毎日(学校の日は行かず)、
午後一時頃より六時頃迄、
炎天下を走り回る作業。
終われば、
クタクタに体力を消耗するが、
作業が終わると、
潮の干潮の時には釣り竿下げて、
遠浅の海に入り、
釣りを楽しむ。
釣り上げて持ち帰り夕食のオカズで食べる。

学校が夏休みに入ると、
午前中は水車を回して田へ水を入れて、
午後より塩田仕事に行く。
長兄は五年生、
次男は三年生、
私は一年生。
力の入る仕事だが不平は言えず黙々として父に従う。
春秋は二、三日に一回位のペースで塩田作業をする。
冬は広い広い冷たい塩田で、
寒風に吹かれて全身感覚を失う。
作業が終わり、
塩炊きの釜場で温めるが、
冷えた手足には痛みを感ずる。
帰る途中に掘り抜きの井戸があるので、
その水は暖かい。
感覚を失った手足を温める為に、
弟力を合わせてポンプを押す。
からだを温めて帰るが寒さで唇の色は無い…。

第12回『戦争の時の話し@いろいろ』

これは米国の捕虜生活をした者の話である。
友達が敗戦の折り南方で捕虜になり、
全員離れ島に追い上げられる。
最初の頃は食料もあり、
無為な日を送る(それでも最初に渡された二週間分で三ヶ月持たせたそうです。)が、
食料が底をつき補給も無い。
日が立つに従い、
体力の無い者達は寂しく永眠をする。

島の密林に入り、
蛇や鼠やトカゲや生きて走り逃げる動物は、
見かけると皆で追いかけて捕まえる。
捕まえた者の所有権である。
体力減退の状態で見つけても追う。
しかし体力不足で逃げ行く動物を眺める悔しさ…。

食べられる物を求めて、
島内を捜し求めて浮遊する。
見つけると、
その雑草の横で寝ずの番をするが、
ついウトウトして目覚めると誰かに横取りされて無い。
悔しさは倍増し、
一層の空腹を感ずる。

内地と違い
果実が大きくなるのは驚く程早いと話す。

捕虜生活を解かれて内地に帰国するが、
骨と皮のみで、
一人で歩く体力も無い。
やっとの想いで我が家に辿り着き、
そのまま其処で倒れて遂に立たれず…。

戦争に行くと戦場は頑強な体力が必要で、
軍隊には小便一町(109メートル)
糞八町(872メートル)という言葉がある。
行軍中に小便をするだけで本隊に一町も遅れ、
本体に追い付くには大変な体力が必要だという意味

友達の衛生兵、
行軍中に糞を済ませて、
本隊を追えど探せど見当たらず。
野宿をして畑の物で空腹を凌ぎ、
戦場の荒野を彷徨う。

とうとう日本軍を見つけて
追い付けば、
それは見知らぬ部隊であった。
居候しつつ戦線に参加するが、
そのまま敗戦で祖国に帰ると、
家族宛に自分は既に戦死の仲間入りであった。

こうした笑えぬ悲劇の話は多数聞かされた。

従兄弟で第二次上海事変の折りに、
敵前上陸をして足に軽傷を受ける。
養生の為に内地に送還され、
そのまま除隊する。
戦争も初期頃だったから、
知人友人見知らぬ人々より凄い。

歓待を受けるを見て、
俺も戦場へと心ははやるのであった。

これも従兄弟、
用便を済ませて本隊を探すが見当たらず、
数日を彷徨う。
ある日、耳に銃声が聞こえる。
前方の小高い丘より、
銃に日章旗を揚げるが、
進む程に銃撃を受ける。
応戦をしつつ前進をすれば、
前を多数敵兵が走り去る。

丘に登り、
日章旗を立木に掲げる。
歓声を揚げて顔見知りの戦友が走り来る。
そこは日本軍が、
苦戦で攻めあぐねておった戦場。
敵軍は思いもよらず、
後方からの日本軍襲撃と勘違いして、
逃げたのであろうか…。
戦争とはこういうもの?

思いも寄らずして殊勲を立て、
二階級進級して、
内地帰国の慰安休暇を許されて帰る。
再び戦場を復帰するが、
敗戦を待たずして戦死する。
心優しい従兄弟だった。

何故戦争なんかをするのであろうか。

現在は中国だが敗戦以前は支那の呼称だった。
何処の軍隊も勝ち戦ともなれば兵隊達は、
明日の生命は保証されておらぬから、
生きて居る内に悪の限りを、
悪とも思わず心のままに実行に移す。

旧ソ連が、
日本国が英米との戦いで疲れ、
仲裁を依頼をするを受け入れず、
敗戦の一週間前に連合軍に加担して参戦する。
逃げ惑う満州開拓者の金品強奪。
婦女子の強姦。
それを止めに入る者達を、
銃殺して高笑いを残して立ち去る。

日本人に悪の限りを尽くして、
樺太の南半分と北方四島を取り上げて、
現在に至も平和条約を結ばぬ。
ロシア憎いロシア憎い憎いと心底より憎む。
国民感情とはこうしたもの。
でも現在は国力の差に屈しているが、
憎しみ心底に渦を巻く思いでいる。

さて、
支那人は日本兵を悪の化身程に恐れる。
日本は日清戦争、日露戦争、満州事変と戦うが、
全部、大陸での戦い。
部分的に戦況不利な場合もあったが、
殆どが勝ち戦に終始する。

兵隊達が長い年月に渡り悪行を重ねる。
遠くは江戸時代に支那の沿岸荒らした八幡船(海賊船)。
支那人は固く信ずる一つに、
日本刀で切り殺されると、
再びこの世には生まれて来られないとの迷信がある。

満州事変、上海事変、第二次世界大戦と戦うが、
大陸では、
日本兵は実に様々な悪行をしている。
追跡行軍中、
道路の片側で若い全裸の女性が倒れている。
その陰部に誰が差したか野の花が揺れる。

狭い路地で強姦中に、
二階より竹竿で女性諸共田楽刺しに刺されて殺された日本兵。

掃討戦の最中に隠れた少女を見つけると、
両親の前でその子を強姦する。
後で両親が泣叫ぶ子供の陰部を拭っておったとか…。

子供連れの若い女を引き倒して強姦をする等々、
除隊兵の話を聞く。

上海で平服を着て支那人と親しく語らう。
日本人は信頼の於ける人達だが、
在郷軍人の衣服を着て、
道を歩き親しい人に会い、
挨拶をすると横を向き挨拶をせず。
後日、詰ると、
「日本人は軍服を着ると、
途端に豹変する恐ろしい民族」
と語るのであった。

第11回『長男の話し』

私の家の長男。
学校の成績は半ばで過ごすが、
度胸もあり頭の回転が早く、
近所の餓鬼大将で幼年期を過ごす。

四国は温暖の地で、
大正十年頃(1921年)小鳥の飼育が大流行する。
日毎に高値を繰り返し、
十始末一番いが茶色の羽でも五円~十円。
白の羽で一番いで十円~五六十円。
セキセイは青い羽で一番い二十三円以上する。
羽がブルー色とも成ると一番いで二百円以上の値段はする。
当時の中堅サラリーの月給で三十円前後である。
オウム、
九カンチョウも高値の取り引き。
毎夜の様に至る所で、
競市が目立つ。

我長兄、
十四歳頃にも関わらず、
十始末とセキセイを競り落として持ち帰り、
小鳥の世話は私に任せて金儲けに奔走する。

時々、
逃げ出した小鳥を捕まえ様と、
大人も子供も網を片手に、
目の色変えて追っかける。

当時、
笑えぬ悲劇が山積する…。
先祖伝来の田畑を売り、
小鳥を仕入れて帰る汽車の中で、
辺りの人に自慢すべくそっと幾重にも包んだ風呂敷を開けると、
鳥籠の中で、
一儲けを企んだ小鳥の死骸がある。
途端にその人は発狂をする。
当時は汽車の中には生き物を持ち込めない規制があった。

そんな小鳥景気も五、六年で終わり、
多数の高価な、
十始末やセキセイが雀と共に飛ぶが、
追っかける者は無し。

次にオモトが(万年青)大流行して、
高値を呼ぶが二、三年で廃り捨てられる。

次は兎が高値を呼ぶ。
アンゴラ兎?子供達も競って飼い、
増えるに従い値段も下落して遂に飼育する者も減少する。

当時は世の中極端に不景気で、
こうした、
取り留めも無い一掴み千金の、
心理に陥ったのであろう。

私の長男もその都度流行の物を追っかけたが、
儲けたのか損をしたのか…。
そのままに尋常高等小学校を卒業した十六歳で、
横に荷の積める自転車を買い入れて、
我が家で栽培した野菜類や市場で仕入れた果物を積み込み、
行商をしながら縁日等にも店を出す。
又、朝市等にも店を出して、
忙しい時には私も引っ張り出され手伝う。

徴兵検査を済ませて、
京都にゆく。
家に帰り、
新聞配達所を開業するが焦りであろう。
当時としては珍しい、
洗濯物取り次ぎ店を開業するが詐欺に合い、
体調を崩す。

家の手伝いをしていったが、
痔病の手術をして家で寝ていると、
「昼間よりフテ寝をするな」
と父に枕を蹴られて寝てもいれずと、
大阪で徒弟で働く私の所に来る。
一夜を語り明かして、
私の持ち金の二十五円余を持ち、
京都の友達を頼り行く。

暫く音信不通だったが、
広島の造船所で人を使い、
下儲けをしていると便りがあった。
造船所で障子張りをしているとの内容で?
船の外装の鉄板の取付けだった。
真っ赤に焼けたリベットを穴に打ち込む作業なのだが、
長兄は未経験の筈…。

戦争激化の最中に、
私が務める上海の勤務先へ、
写真入りで長兄よりの手紙が来る。
椅子に腰掛けて長剣を手に納まる。

『現在、
山下軍団と共にマレー半島を南下中。
百人余の軍属の隊長をしている。』

との便り。
驚くと共に感心もする。
その後、
シンガポールにも入城して、
その次の作戦で、
輸送船で移動中に敵の潜水艦の魚雷を受けて、
船は爆破されて、
二昼夜余を波に揉まれて過ごす事になる。
フト目覚めると甲板上に収容されている。
助かったと思えど、
極端な疲労で身動きも出来ず時間を過ごしたとか。

再び隊員を引き連れて、
南方の諸島を転戦する。
終戦はボルネオで迎える。
其処の権力者に、
「敗戦の祖国へ帰っても苦労だけだ。
居残りここに骨を埋める気持ちで、
我が娘と結婚してくれ。」
と言われたが、
国の父母が心配で捕虜の船に乗る事に。
餞別に純金の板を貰い、
それを服の襟に縫い込む。

シンガポールに収容されて捕虜生活を体験する。
長兄の話した数々の内より、
得に印象に残った話は当番で便所の掃除をしていて、
警備兵に銃を突きつけられて、
『便器』の中に入り、
掃除をしろと強要される。
胸元に銃を突き付けられると反抗も出来ず、
遂には入り掃除をしたが、
この野郎今に見ておれと、
隊内に帰り話すと複数の者達もやられているとの事。
辛抱強く、
やり返しの機会を待つ。
遂に、
その機会が到来する。
それは英国の上官が視察に訪れる時の事。
整列して迎えて万事が終了する。
上官達が会議に入る、
捕虜の全員が掃除用のバケツに、
便所の中の糞を入れて、
手渡しで会議中の上官に向かい、
バケツの糞を投げかける。
一時騒然となるが、
全員が座り込み再三の掃除の命令を黙視する。
最悪の場合は銃殺刑を覚悟しているので、
何があっても動かぬ。
捕虜を諦めて、
彼等で掃除をするのを糞で汚れた身で眺める。
それ以来幾分か、
おとなしくなったと話す。
その他、様々な虐待があったらしい。

帰国の折り、
下関に上陸をする。
全員、
風呂に入れの命令で、
戸口でタオルを手渡されて風呂に入る。
出口は違った出入り口で、
其処には新しい下着も服もあるが、
長兄の古い服には純金が縫い込んである。
命令で仕方なく諦めたと話す。
あれを持って帰られたら、
苦労も少なかったと悔いる長兄であった。

帰国して二、三日が過ぎた頃、
父の信用を利用して、
トラック二台を連ねて田舎に行き、
闇の炭を買い集めて、
昼日中に検問所を手を降りつつ突破する。
市内の繁華街で、
切符不用と瞬く間に売り尽くし、
翌日も繰り返すが検問所を無難に突破する。

今度は太い竹を買い、
竹筒を造り、
田舎で密造酒を買い集めて、
検問所で引っ掛かると家で竹細工をしますと誤魔化す。
そして繁華街の飲食店で酒を売る。
これも四、五回でやめる。
続けると検問所で引っ掛かってしまうからである。

当時、
資金等あろう筈が無いのだが、
父の信用と度胸だけで、
土地を買い家を建てる。

そんな長兄も医者の誤診で敢えなく永眠するが、
度胸と世相を読む目で波乱万丈の人生を送ったのであった。
最大の希望は小説家に憧れて暇さえあれば読書に専念する。

第10回『子供の遊び場』

秋、
一家総動員して稲刈りをする。
籾(もみ)を取り入れて乾燥して、
それから、
籾擦りをして俵に詰めて庭に積み上げる。

ほっと眺めるのも二、三日で、
車に積み込み、
その殆どは年貢米として、
持ち出されて、
僅かに残る俵。

我が家の食事は、
米が三割り、麦は七割の御飯。
豊作の年は年間を通じてこの状態が続くが、
不作の年は年貢を納めると残る米俵が無い状態。
そんな年は、
何時しか殆どが麦だけで、
その内に雑炊になるが、
葉っぱばかりが目立ち、
麦が所々に遠慮深く、
くっつく有り様の日が続くのであった。
その内に朝も昼も夕食も、
馬鈴薯ばかりの日が続く。
副食物は野菜ばかり、
一言も不平も言えず。
空腹を抱えてご馳走様。

学校より持ち帰る通信簿には、
兄弟全員、
筋骨薄弱で栄養不良と書かれていた。

我が家の目の前の四メートル程の道路を渉ると、
前方は広い広い広場で、
中央に土手があり、
夏には月見草に覆われて子供の遊び場所になる。
そこは古老の話では旧国鉄の跡地であったとか。
遊びで掘っていると、
様々な物が出て来るのも魅力で、
終日に渡り子供の歓声に包まれる。

春は若草と遊ぶ。

夏は夕涼みを兼ねて、
月見草の中での隠れん坊で汗を流す。
大きな池もあり、
夕焼け雲の棚引く頃には、
池の上の蚊を狙いトンボが折り重なり飛来する。
多数の子供達が、
竹竿振り回してトンボを叩き落とす。
これが毎日の行事であった。

秋は野草の実捜しも楽しい。

冬は寒さに負けて、
土手の片隅で枯れ草を集め、
草焼きで暖まるが、
風に吹かれて飛び火して燃え広がり、
ワァワァ騒ぐ子供の声で、
大人達飛び出して来て懸命に消化する。
子供達は頃合を見計らい逃げ出す。
大人達に捕まれば長い長い説教をされる。

それが毎年繰り返される。
それが子供の天国のような遊び場であった。


秋も深まる頃には、
丸亀の十二連隊の秋の演習がある。
各家庭には兵隊さんが宿泊に来る。
俺の家は何名だと競い合うのも面白い。
夜食持参で来るが、
各家庭でご馳走をして持て成す。
その折り広い広場は軍馬で埋まる。
翌朝、
子供達が多数の馬を見ようと、
集まる頃は、
広場には馬の糞が渦高く残るのみ。

その広場の、
東の一角に盲唖学校が建設され、
西の一角にも紡績工場が建つ。
紡績工場の作業員が私の離れで宿泊をする。
その折りに丸いお膳の足が、
折り畳み式なのに驚く。

高い煙突が出来上がり、
頂上まで登り、
皆に自慢をする。

広場の中央にタドン工場が居座り、
途端に遊び場無くなる。
広い池と周辺は残るが、
何時頃とも無く子供の姿も減少する。

西側にも小さな池があり、
極寒の折りに氷が張り詰めて、
子供達恐る恐る乗り、
大丈夫と確認すると下駄履きで、
氷滑りをするが乗り過ぎて氷が割れて大騒ぎをする。
これも楽しい遊びの思い出であった。

大雪が積もると、
子供達は、
東西に別れて子牛ほどもある、
雪達磨を造り、
翌日それを崩して雪合戦をする。
毎年何回か繰り返した。

楽しい思い出がある沼地もあり、
そこに一度、
市の塵を捨てて埋め立てる。
その夏、
凄い蝿の発生で、
蝿の中に人間が住む状態になる。
毎回の食事時に蚊帳を吊り食事をする。
取りモチの蝿取紙は真っ黒くなる。
蝿も越冬するのか秋が深くなると、
天井裏は逆さまに止まる蝿で、
天井板も見えぬ有り様…。
それが、数年間続く。
市はお座なりの処置のみであった。

第9回

明治、大正、昭和の初期頃は、
十二月に入ると何処の家庭も大多忙な日々を迎える。

薄茶色に変色した障子紙を張替え、
普段は障子を破るとキックが飛び叱られるが、
この時は破れ破れと手伝いを言い付けられる。
新しく張り替えた障子で、
部屋の中は勿論の事、
心迄明るい気持ちにさせてくれる。

我が家で使う、
漬け物の大根は、
大きな樽に塩と大根を順次押し込み並べて、
親は教え、
子は習いつつ、
我が家の自慢の味に漬け込んでいく。

大豆を洗い、
水に漬けて翌日、
臼を据え付けて湯気の揚がる臼に大豆を入れて、
塩と麹(こうじ)で味噌造り。
これも家伝の伝授で、
親子仲良く終日を過ごすのであった。

年末近く餅を搗(つ)く、
何処の家庭も早朝より杵(きね)音も威勢が良く、
四斗は普通で、
出来上がれば近所隣へ、
我が家も餅を搗きましたと配る。
仕来たりで、
我々子供達が使い走りに忙しい毎日を過ごす。
さぼると、
お年玉に影響するのだが、
そこは子供、
親に叱られるのを覚悟で、
凧造りに時間を忘れて過ごす。

その凧も、
竹屋で竹を買い自分で造る。
殆どの子供達は、
手製の凧や独楽で得心をする。

1年を通じて小遣いは貰えず、
近所の小母さん達の走り使いをした折に、
時たま戴くお駄賃を母に預けたのを貰い、
欲しいものを買う。

大きな凧を造りたいが、
糸代が無いから六十七センチの八角のを造り、
弓にトウを張り、
揚げるとワンワン鳴るようにする。

広い広い麦畑が続き、
電柱も無く、
立ち木も無く、
引っ掛かる心配は皆無の状態で、
田の隅に積み上げた稲藁を風避けに、
食事も忘れて凧揚げ遊びに満喫する。

又、
独楽も欲しいが、
適当な太さの切れ端で、
丹念に独楽も手造りで回して楽しむ。

子供相手の雑貨屋に行くと、
人形凧は五銭か十銭で、
高いもので五十銭もするのであった。
独楽も回せばワンワンと鳴るのも有り、
欲しいが十銭はする…。
凧も四角な風呂敷凧や、
細長い凧、
飛行機凧と色々有るが、
八角の凧を揚げた方が見栄えが良い。
揚げて、
糸を絡ませ糸の切り合いも面白い。
相手のを切れば最高の気分。

元日に学校で四方拝の式を済まし帰ると、
お年玉集めに親類を一巡する。
これは最高の楽しみであった。
先ず一番に行くのは、
一番多い五十銭をくれる親戚の所へ、
一巡すると一円余りに成るが、
親の勧めで貯蓄に回す。
子供が欲しい凧も独楽も店先に並ぶが、
我慢して手造りで辛抱したものだ。

貧乏乍らも私の家庭も年末には、
親類知人集まって、餅搗きをする。
離れ座敷の畳を揚げて、
筵(えん)を広げて搗いた餅を並べる。
餡餅黒豆入りや、
胡麻餅、きなこ餅、
赤や青が賑やかに並ぶ。
二、三日すると薄く切りカキ餅を造る。

温床胡瓜を作る我家には、
正月気分は味わえぬが、
それでも雑煮で祝ったり、
お年玉も手にしてご満悦気分を味わう。
他家を知らぬ我々は、
お鉢に山盛りの数の子や、
仕来たりの山海の珍味が並ぶ。
お膳は実に楽しい。
子供達は、
自家製の甘味噌で餅の食べる数を競うのであった。

第8回『田んぼについて』

我が家の田は全部、
自家の掘り池より三ケ所有る水車を回して、
田へ水を入れる。

一年生の夏に初めて水車を踏むのを教わる。
父と二人、
踏み台に昇るが不安定で、
水車上に立つだけでも足が震えて、
一歩目が前に出ない。
父の叱責で踏み出すが、
直ぐ踏み外して向こうすねを打つ。
青い打ち身が出来るが、
父の怒鳴りで足を踏み出すのであった。
回る水車が目の錯角でどんどん前に進む様に感じる。
でも何とか踏めるようになると、
父は、
「一人で踏め。」
と言い置き、
田の草取りに入る。

掘り池に水が満水の時は、
ツルベで水かえをして、
次に水車で水を入れる。
底水になるとヨドと言って、
特殊な水車で田へ水を送る。
炎天下の中、
僅かの日陰を筵(エン)で造り水車を踏むのは、
実に力の要る重労働と痛感する。

三年生に進級する。
長兄は尋常高等小学校で月謝は二十銭。
次兄は五年生で月謝は五銭。
私は三年生で十銭。
妹は一年生で二十銭。
父は農業熱心で明治か大正の初め頃に、
畑に藁(わら)囲いをして油障子を造り、
それで温床を造って、
胡瓜の栽培をする。
当時として珍しく、
二月頃に胡瓜を市場に出す。

十月に入ると、
胡瓜の植付けの苗床造りに日を送る。
稲刈りをして脱穀をしながら新藁を、
東西二十数メートル、
南北二十数メートルの垣根にくくり付ける。
北西は高さ四メートル、
南は一メートル、
東は二メートル位であった。
握り々の作業。
毎日、
手元が暗くなるまで頑張って、
日中は稲刈りの後の株切りをして、
牛を入れて畝(うね)を造り麦撒きをする。
学校に行く迄に、
取り入れた籾(もみ)を、
筵(エン)に広げて表で干す。
乾けば夕食を済ませて、
家族全員で大きな臼(うす)を回し、
籾擦りをする。
学校の宿題は精神的に重圧となる。
そして、鶏の世話に毎日の飲料水の汲み置き…。
不平も言えず頑張る以外になし。

十二月二十日頃に胡瓜の種を撒く。
二葉が出ると植え替えて障子の数も日増しに多くなり、
夕方には、
油障子の上にコモを乗せて夜の温度を取る。
日中は麦田の除草や手入れをし、
夕刻迫ると何処に居っても帰り覆いをする。
突然の吹雪、雨等は、
家族の全員で、
大多忙で覆いに奔走(ほんそう)をするのであった。
昭和の初期頃は現在と違って、
毎日、氷が張り詰める。
それも二、三センチは珍しくない。
吹雪や雨の日は、
覆いはそのままに過ごすが、
翌日、
濡れた重いコモの覆いを取り除き、
乾かす作業は力不足の子供には、
耐え難い重労働であった。
兄弟揃って学校は皆勤だが、
冬休みに次ぐ正月も我家庭には無かった。
麦踏み除草、
1.5メートル程の油障子も百枚に及ぶ。
大雪の日は除雪の為に、
終日覆いの上の雪を取り除く作業。
強風の時には、
波打つ油障子に縄を掛けて押さえる。
一枚でも飛ばせば、
全滅の非運に浸される。
暖かい日は
障子を開けて伸びる胡瓜の先を押さえる作業と、
寸暇も無い手入れに忙殺される。

この苦労が有って二月に入り、
市場に出荷して貧しい家計に潤と憩いを感じる。
日曜日は兄弟で、
収穫した胡瓜を市場に運ぶ。
それも高値で市場へ。
往復十キロ余の道のり。
伝票とお金を父に渡して遅い昼食にありつくが、
父より労りの言葉聞かず…。