第13回『子供の頃の我家の暮しぶり』
三年生になる。
学校の休憩時間には運動場で遊ぶようなり、
家でも皆と遊ぶが…着物を破り母に良く叱られた。
兄達は殆ど破らない。
着物を破れば叱られるので、
暖かくなると裸で遊ぶが、
今度は全身砂だらけで叱られた。
ある日、
母の世間話の折りに、
下の子供達は古着でよく破れるので、
可哀想と話しておった。
私の着る物は下着も着物も全部が、
三代目のお古ばかりで、
破れて当然。
又、
教科書も三代目。
二年遅れの妹は一年生の時から、
石盤、石筆で無く、
雑記帳を使った。
親達は勿体無いと、
ぼやいていた。
教科書も内容一新で、
全部が新品で通学する。
我が家には電灯は無く、
ランプの生活が長く続いた。
長兄が毎朝、
ランプのホヤの掃除をしていたが、
我家にも待望の電灯が灯る。
中央の六畳の間に長い長いコート1つで、
食事時には台所に裏の炊事場へと、
移動する。
初日、
夕暮れ近く電灯が灯ると、
兄弟各自団扇で仰ぎ、
消えない消えないと騒いだのであった。
悲しい悲しい思い出である。
ランプと違い、
部屋の隅々迄明るく、
寄り合って喧嘩をしながらの宿題も離れて出来る幸せ。
当時の児童達は大半が個人の机等は持たされず、
素麺箱を机変わりにして教科書を入れて持ち歩く。
我が家は殆ど現金収入が無い。
物心着いた頃には、
もう内職のバッカン真田を編んでいた。
これは夏の帽子の材料で、
一束二十七間(約五十一メートル)で六銭の収入。
父を除き全員で、
毎日の夕食後に、
暗いランプの下で寄り合い編んだ。
四つに割り、
道具で柔らかくして組む。
早い人で一時間に約四間。
材料は麦藁を硫黄で薫製して白くして、
それを組む。
その頃は何処の家庭でも内職に励んでいて、
燐寸箱傘の骨の組み立て等があった。
我家には時計も無いが、
近くを通る汽車の汽笛で時間を知る。
毎夜、九時頃迄、
バッカン編みの内職をして、
それから学校の宿題をするが、
眠くて居眠り半分の頑張りだった。
総領がまだ十三歳で子供は七人、
そして小作の三段百姓。
当然ながら貧乏暮しの明け暮れを迎える。
米の収穫が豊年であれば年間を通じてどうにか、
米三割、麦七割のご飯にありつけるが、
平年作か不作が続くと何時しか雑炊になり、
それも葉っぱの所々に麦がくっつく有り様の食事になる。
遂には、
連日、
馬鈴薯ばかりの食事が続く。
焼いたり蒸したり変化の有る姿だが、
主体は馬鈴薯だ。
母は漬け物のたくあんを切り、
味付けをしてオカズに変える。
苦しい遺り繰りも何時しか雑炊になり、
米三割、
麦七割のご飯に変わる。
そんな繰り返しの経済状態の生活振りだった。
父は塩田作業の下請けをして、
我々男兄弟三人を連れて行く。
それは広く広げた塩の付着した砂を、
所定の枡に入れた後へ新しい砂を広げるという作業。
七月に入ると毎日(学校の日は行かず)、
午後一時頃より六時頃迄、
炎天下を走り回る作業。
終われば、
クタクタに体力を消耗するが、
作業が終わると、
潮の干潮の時には釣り竿下げて、
遠浅の海に入り、
釣りを楽しむ。
釣り上げて持ち帰り夕食のオカズで食べる。
学校が夏休みに入ると、
午前中は水車を回して田へ水を入れて、
午後より塩田仕事に行く。
長兄は五年生、
次男は三年生、
私は一年生。
力の入る仕事だが不平は言えず黙々として父に従う。
春秋は二、三日に一回位のペースで塩田作業をする。
冬は広い広い冷たい塩田で、
寒風に吹かれて全身感覚を失う。
作業が終わり、
塩炊きの釜場で温めるが、
冷えた手足には痛みを感ずる。
帰る途中に掘り抜きの井戸があるので、
その水は暖かい。
感覚を失った手足を温める為に、
弟力を合わせてポンプを押す。
からだを温めて帰るが寒さで唇の色は無い…。
学校の休憩時間には運動場で遊ぶようなり、
家でも皆と遊ぶが…着物を破り母に良く叱られた。
兄達は殆ど破らない。
着物を破れば叱られるので、
暖かくなると裸で遊ぶが、
今度は全身砂だらけで叱られた。
ある日、
母の世間話の折りに、
下の子供達は古着でよく破れるので、
可哀想と話しておった。
私の着る物は下着も着物も全部が、
三代目のお古ばかりで、
破れて当然。
又、
教科書も三代目。
二年遅れの妹は一年生の時から、
石盤、石筆で無く、
雑記帳を使った。
親達は勿体無いと、
ぼやいていた。
教科書も内容一新で、
全部が新品で通学する。
我が家には電灯は無く、
ランプの生活が長く続いた。
長兄が毎朝、
ランプのホヤの掃除をしていたが、
我家にも待望の電灯が灯る。
中央の六畳の間に長い長いコート1つで、
食事時には台所に裏の炊事場へと、
移動する。
初日、
夕暮れ近く電灯が灯ると、
兄弟各自団扇で仰ぎ、
消えない消えないと騒いだのであった。
悲しい悲しい思い出である。
ランプと違い、
部屋の隅々迄明るく、
寄り合って喧嘩をしながらの宿題も離れて出来る幸せ。
当時の児童達は大半が個人の机等は持たされず、
素麺箱を机変わりにして教科書を入れて持ち歩く。
我が家は殆ど現金収入が無い。
物心着いた頃には、
もう内職のバッカン真田を編んでいた。
これは夏の帽子の材料で、
一束二十七間(約五十一メートル)で六銭の収入。
父を除き全員で、
毎日の夕食後に、
暗いランプの下で寄り合い編んだ。
四つに割り、
道具で柔らかくして組む。
早い人で一時間に約四間。
材料は麦藁を硫黄で薫製して白くして、
それを組む。
その頃は何処の家庭でも内職に励んでいて、
燐寸箱傘の骨の組み立て等があった。
我家には時計も無いが、
近くを通る汽車の汽笛で時間を知る。
毎夜、九時頃迄、
バッカン編みの内職をして、
それから学校の宿題をするが、
眠くて居眠り半分の頑張りだった。
総領がまだ十三歳で子供は七人、
そして小作の三段百姓。
当然ながら貧乏暮しの明け暮れを迎える。
米の収穫が豊年であれば年間を通じてどうにか、
米三割、麦七割のご飯にありつけるが、
平年作か不作が続くと何時しか雑炊になり、
それも葉っぱの所々に麦がくっつく有り様の食事になる。
遂には、
連日、
馬鈴薯ばかりの食事が続く。
焼いたり蒸したり変化の有る姿だが、
主体は馬鈴薯だ。
母は漬け物のたくあんを切り、
味付けをしてオカズに変える。
苦しい遺り繰りも何時しか雑炊になり、
米三割、
麦七割のご飯に変わる。
そんな繰り返しの経済状態の生活振りだった。
父は塩田作業の下請けをして、
我々男兄弟三人を連れて行く。
それは広く広げた塩の付着した砂を、
所定の枡に入れた後へ新しい砂を広げるという作業。
七月に入ると毎日(学校の日は行かず)、
午後一時頃より六時頃迄、
炎天下を走り回る作業。
終われば、
クタクタに体力を消耗するが、
作業が終わると、
潮の干潮の時には釣り竿下げて、
遠浅の海に入り、
釣りを楽しむ。
釣り上げて持ち帰り夕食のオカズで食べる。
学校が夏休みに入ると、
午前中は水車を回して田へ水を入れて、
午後より塩田仕事に行く。
長兄は五年生、
次男は三年生、
私は一年生。
力の入る仕事だが不平は言えず黙々として父に従う。
春秋は二、三日に一回位のペースで塩田作業をする。
冬は広い広い冷たい塩田で、
寒風に吹かれて全身感覚を失う。
作業が終わり、
塩炊きの釜場で温めるが、
冷えた手足には痛みを感ずる。
帰る途中に掘り抜きの井戸があるので、
その水は暖かい。
感覚を失った手足を温める為に、
弟力を合わせてポンプを押す。
からだを温めて帰るが寒さで唇の色は無い…。