第7回『母の思い出』
母の里は代々の庄屋で母は十三歳頃迄は、
お嬢サン育ちで過ごしたらしい。
家は網元で村民の世話をして居ったとか。
ある夜、
漁に出るその夜に暴風雨に遭遇して、
父と兄二人が帰らぬ人となる。
残されたのは、
妻と幼いが子供十五歳と十三歳と十一歳。
妻は実に穏やかな人だったらしい。
言われるままに、
借金の裏判を押す。
それが家庭の崩壊で貧乏の始まりであった。
蔵の長持ちの中には、
刀、槍、鉄砲等が一杯有ったとか。
それが一変して借家住まいとなる。
私が小学生の頃
母と母の里に行き村長サン宅に行くと、
母は上座で座り、
部屋の飾りものを指差して、
どさくさの折り持ち帰った物と言った。
又、
村会議員の家に行くと部屋の飾りは殆どが、
母の家の持ち物であった。
お祖母さんの家に行くと、
珍しい物が有り楽しみ多かった。
古文書も多数有ったし、
なによりも、
二メートルも有る大刀を抜くのが、
楽しみだった。
しかし、抜くと力不足で何時も畳を切る。
夏休みに宿題を下げてよく行った。
叔父サンも漁師で日没前に魚船を漕ぎ出し、
叔父サンと漁に行く。
漁方は、
ゲタコギ筒状の長い網を、
引き潮に長いロープで海底に沈めて流す。
あとは、
潮の流れに任す。
暗夜の静けさを破りエンジンの音を聞くと、
各漁船より鳴り物入りで自分の位置を知らす。
網を流すと身動き出来ないので、
時々、船縁を掠めて貨物船が通過する。
満ち潮の前に網を引き揚げる。
海草等々、
船内に様々な物が投げ出される。
海老や蛸、蟹、
多種類の魚類を生けすに投げ込むのは、
実に楽しかった。
海草は海へ戻す。
不思議なのは
蛸が逃げ出すのを見ると叔父サンは無言で蛸を睨み付ける。
そうすると、蛸は生けすに入る。
私が睨むと無視して逃げ出すのであった。
一度、
ゴム長靴の片方を海に落とした事があった。
翌日、
網を入れて四方を眺め乍(なが)ら長靴を拾い上げる。
叔父サン家の中の凸凹より、
海底の様子の方を熟知しておると話す。
夜食の時は海水で米を洗いご飯を炊き、
沸騰した鍋に生きた取り立ての魚を入れる。
その瞬間、
鍋の中で魚が泳ぐ。
それが実に美味しい。
漁師は、
取り立ての魚と、
生けすで3時間余過ごした魚を同時に炊いて、
何方が新しいかを食べ分ける。
間違いなく言い当てる。
帰りには叔父サンは網の修理をし、
私が櫓を漕ぎ帰る。
そして、
魚市場に出して帰り昼寝をする。
引き潮で泳いで居ると、
友達が大きな甲蟹を捕まえる。
三十cmも有ろうかというものである。
おばぁサン、
一人で泳ぎに行くとアノ槍で突かれるから、
行くなと論される。
夏祭りが有る。
御神興のお渡りは、
船を連ねて賑やかな笛や太鼓ではやし立て、
村民は船から船と渡り歩き酒を酌み交わして楽しむ。
私も叔父サンの船で行く、
庄屋の孫という事で、
先々で御馳走責めで遂にダウンするのであった。
私の家より歩いて行くと十キロ余り有る途中の、
峠を登ると蝉時雨で話し声も聞き取り憎い。
頂上より眺めると
山々に抱かれた入り江は湖水の様に優しく、
波静かに我々を迎えてくれる。
ここは、
かつての源平の古戦場で、
平家の船隠しの場所である。
遥かな眼下より吹き上げる微風に、
肌を曝(さら)しつつ、
昔を追想するが余りにも広く静かで、
遂には何百漕の面影も脳裏に浮かべられず…。
又、
その場所に巡航船に乗ると1時間で行ける。
強い風で船に乗る人を、
希望者だけに限定する日の事である。
父と乗り込む事になった。
巡航船は荒波に翻弄されて、
船内にも水しぶきが雪崩込み、
遂には手摺に体を巻き付けて忍。
どうにか浅橋に着く事が出来る。
多数の人々が、
何時転覆するかと冷や冷やして眺めいたらしい。
その船から子供が出て来て皆は驚く。
お嬢サン育ちで過ごしたらしい。
家は網元で村民の世話をして居ったとか。
ある夜、
漁に出るその夜に暴風雨に遭遇して、
父と兄二人が帰らぬ人となる。
残されたのは、
妻と幼いが子供十五歳と十三歳と十一歳。
妻は実に穏やかな人だったらしい。
言われるままに、
借金の裏判を押す。
それが家庭の崩壊で貧乏の始まりであった。
蔵の長持ちの中には、
刀、槍、鉄砲等が一杯有ったとか。
それが一変して借家住まいとなる。
私が小学生の頃
母と母の里に行き村長サン宅に行くと、
母は上座で座り、
部屋の飾りものを指差して、
どさくさの折り持ち帰った物と言った。
又、
村会議員の家に行くと部屋の飾りは殆どが、
母の家の持ち物であった。
お祖母さんの家に行くと、
珍しい物が有り楽しみ多かった。
古文書も多数有ったし、
なによりも、
二メートルも有る大刀を抜くのが、
楽しみだった。
しかし、抜くと力不足で何時も畳を切る。
夏休みに宿題を下げてよく行った。
叔父サンも漁師で日没前に魚船を漕ぎ出し、
叔父サンと漁に行く。
漁方は、
ゲタコギ筒状の長い網を、
引き潮に長いロープで海底に沈めて流す。
あとは、
潮の流れに任す。
暗夜の静けさを破りエンジンの音を聞くと、
各漁船より鳴り物入りで自分の位置を知らす。
網を流すと身動き出来ないので、
時々、船縁を掠めて貨物船が通過する。
満ち潮の前に網を引き揚げる。
海草等々、
船内に様々な物が投げ出される。
海老や蛸、蟹、
多種類の魚類を生けすに投げ込むのは、
実に楽しかった。
海草は海へ戻す。
不思議なのは
蛸が逃げ出すのを見ると叔父サンは無言で蛸を睨み付ける。
そうすると、蛸は生けすに入る。
私が睨むと無視して逃げ出すのであった。
一度、
ゴム長靴の片方を海に落とした事があった。
翌日、
網を入れて四方を眺め乍(なが)ら長靴を拾い上げる。
叔父サン家の中の凸凹より、
海底の様子の方を熟知しておると話す。
夜食の時は海水で米を洗いご飯を炊き、
沸騰した鍋に生きた取り立ての魚を入れる。
その瞬間、
鍋の中で魚が泳ぐ。
それが実に美味しい。
漁師は、
取り立ての魚と、
生けすで3時間余過ごした魚を同時に炊いて、
何方が新しいかを食べ分ける。
間違いなく言い当てる。
帰りには叔父サンは網の修理をし、
私が櫓を漕ぎ帰る。
そして、
魚市場に出して帰り昼寝をする。
引き潮で泳いで居ると、
友達が大きな甲蟹を捕まえる。
三十cmも有ろうかというものである。
おばぁサン、
一人で泳ぎに行くとアノ槍で突かれるから、
行くなと論される。
夏祭りが有る。
御神興のお渡りは、
船を連ねて賑やかな笛や太鼓ではやし立て、
村民は船から船と渡り歩き酒を酌み交わして楽しむ。
私も叔父サンの船で行く、
庄屋の孫という事で、
先々で御馳走責めで遂にダウンするのであった。
私の家より歩いて行くと十キロ余り有る途中の、
峠を登ると蝉時雨で話し声も聞き取り憎い。
頂上より眺めると
山々に抱かれた入り江は湖水の様に優しく、
波静かに我々を迎えてくれる。
ここは、
かつての源平の古戦場で、
平家の船隠しの場所である。
遥かな眼下より吹き上げる微風に、
肌を曝(さら)しつつ、
昔を追想するが余りにも広く静かで、
遂には何百漕の面影も脳裏に浮かべられず…。
又、
その場所に巡航船に乗ると1時間で行ける。
強い風で船に乗る人を、
希望者だけに限定する日の事である。
父と乗り込む事になった。
巡航船は荒波に翻弄されて、
船内にも水しぶきが雪崩込み、
遂には手摺に体を巻き付けて忍。
どうにか浅橋に着く事が出来る。
多数の人々が、
何時転覆するかと冷や冷やして眺めいたらしい。
その船から子供が出て来て皆は驚く。
第6回『親父と母の話し』
親父は子供時代、
手の付けられない餓鬼大将であったとか…。
近くに紫雲山と言う山があって、
悪童を連れて山に登り、
狸の穴に煙を送り込み子狸を捕まえて帰り、
小屋に匿う。
その夜、
その内の一人の子供が、
山より帰り高熱を出す。
医者に係れど原因不明で、
近所のオガミヤにオガンデ貰うと、
狸が子供を返してくれとその子に取り付いたのだそうだ。
喜サン(親父の愛称)が悪いと相手の親が怒鳴り込んで来る。
すぐに狸を山に返すと熱も冷めたという。
嘘のような話しである。
又、
青年の時、
塩田の堤防に雨の夜に、
幽霊が出るという噂が仕切りにあり、
雨の日独り堤防に行き幽霊を捕まえて帰ったという。
なんと、
釜炊きオッサンが、
退屈しのぎに皆を驚かせたとの事…。
又、
近くの工芸学校が火災に会った時。
猛煙の中に飛び込むと、
奉安殿の天皇陛下のお写真を持ち出す。
すると声掛ける人があったので、
その写真を手渡し顔を拭き、
その方向を見ると誰もいない。
そのまま帰り翌日の事、
新聞記事の一面に、
猛煙の中より持ち出した人として、
写真を手渡した人が、
写真入りで大体的に報じられている。
その写真を持って、
父の行動を知る人が来て、
「喜サン新聞社に行き真実を伝えよう」
と薦めるが父は、
「これで良い。
この人は、今は気持ち良いが、
後日必ず、自分に恥じるだろう。」
と…。
喉自慢で、
盆等音頭取りで行くが、
何時も優勝旗を持ち帰る。
何をしても、
丁寧で早くて綺麗と自他共に許すが、
人一倍の話し好きの欠点がある。
しかしながら力持ちで、
雨の日、
傘を差しかけ米俵を担ぎ精米所に行く。
父と私と他の兄弟を連れ立って、
潮干狩りに行く時には僅かな塩持参する。
そしてゆっくり砂地を歩くいくと、
小さな穴がある。
そこで立ち止まり、
その穴に少量塩を入れるて二、三分すると、
穴の中よりマテ貝が飛び出して来る。
そして他の穴を見て、
そこを掘ると大きな貝が現れる。
父は穴を探して歩きどんな貝が潜むか言い当てるのであった。
それは、随分と参考になる。
又、
船を雇い沖釣りに行くのは実に楽しい。
行けば時間を忘れるくらいだ。
一度船頭の息子が、
食事の時眺めるだけで食べようとしない。
「何故か」と聞くと、
「船頭は最後にします」との事。
二十歳前後の青年であった。
そして私達が食べ終わり、
順番が来れば食べるは食べるは、
茶碗に山盛り何と十七杯!?
お櫃を空にする健啖振りである。
その日、
皆が釣り上げるのに私は駄目で、
そんな時に、何だか重いものが掛かる。
船頭からの一声、
「糸が切れるかも知れないから、ゆっくりゆっくり。」
引き揚げると、
一メートル程の木切れに海頬好きがびっしり。
船頭は、
「これは素晴らしい。
五円で買いましょう。」
船賃は五円である。
最高の大漁の沖釣りであった。
六歳の折り、
父に連れられて、
まだ泳げない私と海水浴に行く。
そして、父に背負われて沖に出ていると、
突然、
父が潜るのだがアップアップと溺れそうになる。
それを特訓のように繰り返す事何回か、
その日の内に泳げる様になる。
農業熱心で品評会に、
出来た様々な物を出し、
その時の一等賞等の賞状を良く見かけた。
今年の米の出来高予想に呼出されていった。
信心深い人で、
寺の寄付集めには米持参で、
何日も泊まり掛けで出掛けて行った。
母は代々、
庄屋の家に生まれて、
十三歳頃迄女中付き切りで成長したとか。
父親(母の)が網元で、
一夜の暴風雨で遭難し、
家は没落して苦労をする。
綺麗好きで、
庭の戸袋の戸は何時も磨かれ姿が写る程だ。
それにしても、人に優しく良い母であった。
手の付けられない餓鬼大将であったとか…。
近くに紫雲山と言う山があって、
悪童を連れて山に登り、
狸の穴に煙を送り込み子狸を捕まえて帰り、
小屋に匿う。
その夜、
その内の一人の子供が、
山より帰り高熱を出す。
医者に係れど原因不明で、
近所のオガミヤにオガンデ貰うと、
狸が子供を返してくれとその子に取り付いたのだそうだ。
喜サン(親父の愛称)が悪いと相手の親が怒鳴り込んで来る。
すぐに狸を山に返すと熱も冷めたという。
嘘のような話しである。
又、
青年の時、
塩田の堤防に雨の夜に、
幽霊が出るという噂が仕切りにあり、
雨の日独り堤防に行き幽霊を捕まえて帰ったという。
なんと、
釜炊きオッサンが、
退屈しのぎに皆を驚かせたとの事…。
又、
近くの工芸学校が火災に会った時。
猛煙の中に飛び込むと、
奉安殿の天皇陛下のお写真を持ち出す。
すると声掛ける人があったので、
その写真を手渡し顔を拭き、
その方向を見ると誰もいない。
そのまま帰り翌日の事、
新聞記事の一面に、
猛煙の中より持ち出した人として、
写真を手渡した人が、
写真入りで大体的に報じられている。
その写真を持って、
父の行動を知る人が来て、
「喜サン新聞社に行き真実を伝えよう」
と薦めるが父は、
「これで良い。
この人は、今は気持ち良いが、
後日必ず、自分に恥じるだろう。」
と…。
喉自慢で、
盆等音頭取りで行くが、
何時も優勝旗を持ち帰る。
何をしても、
丁寧で早くて綺麗と自他共に許すが、
人一倍の話し好きの欠点がある。
しかしながら力持ちで、
雨の日、
傘を差しかけ米俵を担ぎ精米所に行く。
父と私と他の兄弟を連れ立って、
潮干狩りに行く時には僅かな塩持参する。
そしてゆっくり砂地を歩くいくと、
小さな穴がある。
そこで立ち止まり、
その穴に少量塩を入れるて二、三分すると、
穴の中よりマテ貝が飛び出して来る。
そして他の穴を見て、
そこを掘ると大きな貝が現れる。
父は穴を探して歩きどんな貝が潜むか言い当てるのであった。
それは、随分と参考になる。
又、
船を雇い沖釣りに行くのは実に楽しい。
行けば時間を忘れるくらいだ。
一度船頭の息子が、
食事の時眺めるだけで食べようとしない。
「何故か」と聞くと、
「船頭は最後にします」との事。
二十歳前後の青年であった。
そして私達が食べ終わり、
順番が来れば食べるは食べるは、
茶碗に山盛り何と十七杯!?
お櫃を空にする健啖振りである。
その日、
皆が釣り上げるのに私は駄目で、
そんな時に、何だか重いものが掛かる。
船頭からの一声、
「糸が切れるかも知れないから、ゆっくりゆっくり。」
引き揚げると、
一メートル程の木切れに海頬好きがびっしり。
船頭は、
「これは素晴らしい。
五円で買いましょう。」
船賃は五円である。
最高の大漁の沖釣りであった。
六歳の折り、
父に連れられて、
まだ泳げない私と海水浴に行く。
そして、父に背負われて沖に出ていると、
突然、
父が潜るのだがアップアップと溺れそうになる。
それを特訓のように繰り返す事何回か、
その日の内に泳げる様になる。
農業熱心で品評会に、
出来た様々な物を出し、
その時の一等賞等の賞状を良く見かけた。
今年の米の出来高予想に呼出されていった。
信心深い人で、
寺の寄付集めには米持参で、
何日も泊まり掛けで出掛けて行った。
母は代々、
庄屋の家に生まれて、
十三歳頃迄女中付き切りで成長したとか。
父親(母の)が網元で、
一夜の暴風雨で遭難し、
家は没落して苦労をする。
綺麗好きで、
庭の戸袋の戸は何時も磨かれ姿が写る程だ。
それにしても、人に優しく良い母であった。
第5回『真田バッカン』
何処の家庭も内職で子供達を使う。
マッチ箱の製作の内職や、
雨傘の組み立ての内職がある
我が家の内職は、
真田バッカンを編む事。
これは夏の麦藁帽子の材料で、
麦藁を裂き、
四本で編んで長くするという作業。
四歳の妹も一緒に編む。
早い人で一時間に約四メートル位編むという。
七十一メートルで六銭。
これが我が家の唯一の現金収入。
夕食を済ませて、
全員薄暗いランプの下で編む。
大体、責任の長さになるとやめる。
それが、
大体九時前後で、
それより学校の宿題に取りかかるが
居眠り半分で苦闘する。
宿題をさぼると罰として、
一週間教室の掃除をさせられる。
掃除は良いが学校の帰りが遅くなり父の罵声が飛ぶ。
その方が恐ろしい。
父は夕食後、
直ちに家を出て行き、
三百六十五日夜遊び…。
母は父の帰りを待ち、
子供達の繕い物をする。
何時目覚めても母は何かをしているので、
子供達は、
「おかぁさん何時寝るの?」
と聞いたものだ。
我が家の状態を書こう。
貧農で喘ぎ喘ぎの家庭で、
近所ではもう、
八割方電灯が灯っているが、
我が家はランプの生活が続くのであった。
ランプのホヤの掃除は、
長男の義務で朝学校に行くまでに済ます。
大正時代の子供達の躾(しつけ)は実に厳しかった
小学校に入学すれば、
男女ともに庭の掃除は義務付けである。
我が家では、
まず、長男が庭表の掃除をする。
次男が一年生になると、
庭表の掃除は次男がする事になる。
長男は場所が移動し、
台所と離れの両側の縁側の拭き掃除をする。
三男が一年生になると、
同じようにずれていき、
長男は、
今度は表座敷の八畳と次の六畳と四畳半と離れの八畳の拭き掃除になる。
次の一年生が入学する頃には、
長男は高等尋常小学校を卒業するので、
母に起こされ炊事場で、
朝の味噌汁やお茶を湧かす手伝いをする。
我が家は百姓なので、
燃料は麦藁、小麦藁、豆柄、松の葉等々である。
直ぐに燃え尽きるから油断は出来ない。
炭を使う時はカンテキに燃え安い物を入れ、
燃やして木切れを入れ、
上に炭を置き団扇で仰ぐという作業。
実に手間の掛かる方法であった。
これが約二年間続き、
女の子の場合は、
それから本格的に家庭の主婦としての、
教育に追われる事になる。
裁縫やお花、
お茶といった習い事がびっしりなのである。
マッチ箱の製作の内職や、
雨傘の組み立ての内職がある
我が家の内職は、
真田バッカンを編む事。
これは夏の麦藁帽子の材料で、
麦藁を裂き、
四本で編んで長くするという作業。
四歳の妹も一緒に編む。
早い人で一時間に約四メートル位編むという。
七十一メートルで六銭。
これが我が家の唯一の現金収入。
夕食を済ませて、
全員薄暗いランプの下で編む。
大体、責任の長さになるとやめる。
それが、
大体九時前後で、
それより学校の宿題に取りかかるが
居眠り半分で苦闘する。
宿題をさぼると罰として、
一週間教室の掃除をさせられる。
掃除は良いが学校の帰りが遅くなり父の罵声が飛ぶ。
その方が恐ろしい。
父は夕食後、
直ちに家を出て行き、
三百六十五日夜遊び…。
母は父の帰りを待ち、
子供達の繕い物をする。
何時目覚めても母は何かをしているので、
子供達は、
「おかぁさん何時寝るの?」
と聞いたものだ。
我が家の状態を書こう。
貧農で喘ぎ喘ぎの家庭で、
近所ではもう、
八割方電灯が灯っているが、
我が家はランプの生活が続くのであった。
ランプのホヤの掃除は、
長男の義務で朝学校に行くまでに済ます。
大正時代の子供達の躾(しつけ)は実に厳しかった
小学校に入学すれば、
男女ともに庭の掃除は義務付けである。
我が家では、
まず、長男が庭表の掃除をする。
次男が一年生になると、
庭表の掃除は次男がする事になる。
長男は場所が移動し、
台所と離れの両側の縁側の拭き掃除をする。
三男が一年生になると、
同じようにずれていき、
長男は、
今度は表座敷の八畳と次の六畳と四畳半と離れの八畳の拭き掃除になる。
次の一年生が入学する頃には、
長男は高等尋常小学校を卒業するので、
母に起こされ炊事場で、
朝の味噌汁やお茶を湧かす手伝いをする。
我が家は百姓なので、
燃料は麦藁、小麦藁、豆柄、松の葉等々である。
直ぐに燃え尽きるから油断は出来ない。
炭を使う時はカンテキに燃え安い物を入れ、
燃やして木切れを入れ、
上に炭を置き団扇で仰ぐという作業。
実に手間の掛かる方法であった。
これが約二年間続き、
女の子の場合は、
それから本格的に家庭の主婦としての、
教育に追われる事になる。
裁縫やお花、
お茶といった習い事がびっしりなのである。
第4回『水車踏み』
翌る夏
日照りで雨が降らないので、
我が家の稲田は、
全部、自己の持ち掘り池より水を水車で田へ送る。
日照りの時は田へ送る水替えで、
家族持ち場を決めて精を出すが、
順番の場合もある。
真夜中に順番が来れば、
行き水車を踏む。
学校に行けど居眠りが出る。
私の昼の持ち場は一反三畝の稲田で、
水車はヨドと言って、
直径三メートル程の丸い用具で水が入る筒が二十四個着くものである。
それを回して田へ水を送る。
池の水が多い時は、
一人では、
回し兼ねるが助太刀は無い。
四苦八苦どうにか回して、
休憩をする時は、
時期は夏休みなので夏休みの宿題をする。
弁当持ちで夕方帰るが、
楽しみはある。
水車を回す池には鮒(ふな)や鰻(うなぎ)がいるので、
底水になると網で捕り針で釣る事が出来る。
時には大きな鰻を持ち帰り夕食のお膳を飾る。
梅雨頃に、
田植えを済ませてからは、
田の水の深い浅いは稲の成育に深く関わるので、
ここが百姓の腕の見せ所である。
諺(ことわざ)に、
『夏の夕焼け水落とせ秋の夕焼け鎌を研げ』
というのがある。
夏の夕焼けは翌日雨が降るので、
田の水が深くなるから水を田より減らす。
秋の夕焼けの翌日は晴天だから、
稲刈りに最高なので鎌を研ぐ、
という意味である。
西風は翌日晴天日が多く、
東風は翌日は雨天が多い。
毎日水替えに四苦八苦の折り、
夕立雲が現れると期待して待つ。
そのまま降らず晴天の時はヨドを踏む足も重い…。
新盆の頃ともなれば、
田の水は浅水図で良いので水替えも一息着く。
それから実りの秋迄、
多少のんびり出来る。
日照り続きの年は豊作が多いが、
水替えの苦役がある。
雨の多い年は水替え無く楽をするが不作の場合が多いので、
家庭が圧迫される…。
日照りで雨が降らないので、
我が家の稲田は、
全部、自己の持ち掘り池より水を水車で田へ送る。
日照りの時は田へ送る水替えで、
家族持ち場を決めて精を出すが、
順番の場合もある。
真夜中に順番が来れば、
行き水車を踏む。
学校に行けど居眠りが出る。
私の昼の持ち場は一反三畝の稲田で、
水車はヨドと言って、
直径三メートル程の丸い用具で水が入る筒が二十四個着くものである。
それを回して田へ水を送る。
池の水が多い時は、
一人では、
回し兼ねるが助太刀は無い。
四苦八苦どうにか回して、
休憩をする時は、
時期は夏休みなので夏休みの宿題をする。
弁当持ちで夕方帰るが、
楽しみはある。
水車を回す池には鮒(ふな)や鰻(うなぎ)がいるので、
底水になると網で捕り針で釣る事が出来る。
時には大きな鰻を持ち帰り夕食のお膳を飾る。
梅雨頃に、
田植えを済ませてからは、
田の水の深い浅いは稲の成育に深く関わるので、
ここが百姓の腕の見せ所である。
諺(ことわざ)に、
『夏の夕焼け水落とせ秋の夕焼け鎌を研げ』
というのがある。
夏の夕焼けは翌日雨が降るので、
田の水が深くなるから水を田より減らす。
秋の夕焼けの翌日は晴天だから、
稲刈りに最高なので鎌を研ぐ、
という意味である。
西風は翌日晴天日が多く、
東風は翌日は雨天が多い。
毎日水替えに四苦八苦の折り、
夕立雲が現れると期待して待つ。
そのまま降らず晴天の時はヨドを踏む足も重い…。
新盆の頃ともなれば、
田の水は浅水図で良いので水替えも一息着く。
それから実りの秋迄、
多少のんびり出来る。
日照り続きの年は豊作が多いが、
水替えの苦役がある。
雨の多い年は水替え無く楽をするが不作の場合が多いので、
家庭が圧迫される…。
第3回『妹の死』
近くの漁師の所で蠣殻(かきがら)を貰い、
細かく砕いて鶏に与える。
しかも野草はふんだんに与えるので、
産む卵は殻が固く黄身は盛り上がるという上々の出来で、
評判も良く、
学校に行く途中に、
八百屋へ数を数えて渡し、
学校からの帰りに売れた分の代金を貰う。
郵便局に貯蓄出来る程であった。
貯蓄したお金は、
冬と夏に卵を産まない鶏の餌代と、
私の学校の月謝代として使う。
学校の月謝代、
長男は月謝二十銭、
二男は五銭、
私は十銭、
妹は二十銭。
私が十歳頃には妹が四人増えて子供全員で七人になる。
貧乏の家庭なのに、
貧乏は加速されて我が家は崩壊寸前に陥る。
畳表は破れては、
そこへ渋紙を貼り誤魔化す。
電気も私が小学三年生の時初めて我が家に輝く。
柱時計も無い無惨な状態、
この話しは追々話します。
私が五年生の時には、
世話をする人があり、
頭脳明晰の二男が口へらしで京都へ奉公に行く。
そして大学を卒業させるという約束で、
長男も京都へ行く。
その頃、
六歳の二女が春に、
父母が働く田畑の隣の田で、
レンゲ草摘みを楽しんでいる時に、
野道を歩む時足を滑らして池に落ち込む。
直ぐ父が救い挙げたが腹膜炎になり医者通い。
父が二男を連れて京都に行った留守の間に死亡する。
父が帰り葬式を済ます。
二女の名はウメ。
可愛くて利発で聡明で、
ハキハキと近所のおばさん達の人気者であった。
やはり花にちなんだ名前は駄目だったのだろうか。
可愛い盛りに死ぬなんて…梅だから?
六歳で永眠する。
父が帰宅して葬式をするが、
一度に家族が三人も減少する
当座は寂しくて寂しくて兄妹寄り添い日を送る。
妹の葬式の時に、
初めて自動車に乗った事を覚えている。
兄達二人は京都に行くが、
農作業の量はそのままなので、
雑用の重荷が全部三男(私)に掛かる。
父の罵声が一段と激しさを増す。
無我夢中で言い付けられた事をするが叱られるばかりなのであった。
細かく砕いて鶏に与える。
しかも野草はふんだんに与えるので、
産む卵は殻が固く黄身は盛り上がるという上々の出来で、
評判も良く、
学校に行く途中に、
八百屋へ数を数えて渡し、
学校からの帰りに売れた分の代金を貰う。
郵便局に貯蓄出来る程であった。
貯蓄したお金は、
冬と夏に卵を産まない鶏の餌代と、
私の学校の月謝代として使う。
学校の月謝代、
長男は月謝二十銭、
二男は五銭、
私は十銭、
妹は二十銭。
私が十歳頃には妹が四人増えて子供全員で七人になる。
貧乏の家庭なのに、
貧乏は加速されて我が家は崩壊寸前に陥る。
畳表は破れては、
そこへ渋紙を貼り誤魔化す。
電気も私が小学三年生の時初めて我が家に輝く。
柱時計も無い無惨な状態、
この話しは追々話します。
私が五年生の時には、
世話をする人があり、
頭脳明晰の二男が口へらしで京都へ奉公に行く。
そして大学を卒業させるという約束で、
長男も京都へ行く。
その頃、
六歳の二女が春に、
父母が働く田畑の隣の田で、
レンゲ草摘みを楽しんでいる時に、
野道を歩む時足を滑らして池に落ち込む。
直ぐ父が救い挙げたが腹膜炎になり医者通い。
父が二男を連れて京都に行った留守の間に死亡する。
父が帰り葬式を済ます。
二女の名はウメ。
可愛くて利発で聡明で、
ハキハキと近所のおばさん達の人気者であった。
やはり花にちなんだ名前は駄目だったのだろうか。
可愛い盛りに死ぬなんて…梅だから?
六歳で永眠する。
父が帰宅して葬式をするが、
一度に家族が三人も減少する
当座は寂しくて寂しくて兄妹寄り添い日を送る。
妹の葬式の時に、
初めて自動車に乗った事を覚えている。
兄達二人は京都に行くが、
農作業の量はそのままなので、
雑用の重荷が全部三男(私)に掛かる。
父の罵声が一段と激しさを増す。
無我夢中で言い付けられた事をするが叱られるばかりなのであった。
第2回『同級生で百姓は私1人であった』
大正十年小学校に入学する。
当時も早生まれ(三月三十一日迄に生まれると早生まれ)と、
おそ生まれがあり、
その年の四月一日で数え年が七歳と八歳の者が、
仲良く揃って一年生で入学する。
市内には十数ケ所小学校がある。
我が地域の新入学生徒、百五十余名
組分けには西組と東組と中組というのがあって、
西組には、男ばかり五十余名前後が在籍。
東組には女ばかり。
それともう1つ中組は男女半々の組である。
私は中組で女の先生が担任になった。
昔より、
地震、雷、火事、親父に加えて先生と駐在所の巡査には、
絶対に口返事(言い訳)出来ぬ相手で、
がみがみと叱られている間は神妙に頭を下げて聞き、
早く終われと願うのみだ。
子供の服装は、
春と秋は合わせの着物で、
夏は浴衣の着物、
冬は綿入れの着物であった。
成長に合わせる様に肩には、
肩挙げがあり、
履物は下駄か草履を履いている。
筆記は帳面(ノート)を使わず、
教科書大の石板を使い、
石板に字を書く時は石筆で書く。
石筆は鉛筆の太さの約半分の太さである。
背筋を伸ばして姿勢を正して書きなさいと、
まず授業では石筆の持ち方を教えられ、
字の書き方に移っていく。
石筆の持ち方が悪くて、
姿勢の悪い児童を見ると、
先生は、
その子の後より突然に頭を机に押し付ける。
又、
前列の生徒は教壇の上より、
細い長い竹竿で頭をゴツンされる。
授業中に横見をすると、
その場で立たされるか教室の後ろで立たされる。
私は小学校に入学するが、
休憩時間中は運動場に行かず、
教室の前にある生徒の傘置き場の番人で、
宜しく時間を送る。
同級生で百姓は私一人で、
小学校入学と同時に、
父親から鶏十羽の世話をせよと言いつかる。
朝鶏舎を開けて、
麦糖を水で練ったものを餌として与えて、
それから学校へ行く。
昼食の時間は、
往復四百メートル位の所を走り帰り、
途中で野原の草を摘み、
それを持ち帰り、
鶏舎に投げ込み食事を済ませて、
すぐに学校へ行く。
日曜日は、
鶏舎の中の鶏の止まり木の下のにある、
糞の山を小さな籠(かご)に入れて、
前後一荷にして我が家の田畑に運ぶ。
途中で近所の子供達が遊んでいるのだが、
そこを通る時は皆より臭い臭いと騒がれるので、
逃げる様にして田畑へ急ぐのであった。
その鶏も進級するに従って、
三年生の頃は三十羽も飼う。
それからは常に三十羽は維持していた。
1つ例外があって六年生に、
一時、五十羽を飼うということがあった。
忙しい上に、
田畑の手伝いを言いつかりので、
もちろん遊ぶ暇は無い。
なによりも、学校の宿題に悩まされた。
それは追々話して行こう。
小学五年生の頃、
鶏が朝な夕なに突然に死ぬ。
十日もせぬうちに二十羽程死ぬ事があった。
大損害で父からは餌の間違いでは無かろうかと、
酷く叱られたが、
鶏売買の人が来て、
何処も損害甚大(じんだい)と話して鶏の死骸を安く買い取ってくれる。
私は内心大喜びで手間が省ける。
当時も早生まれ(三月三十一日迄に生まれると早生まれ)と、
おそ生まれがあり、
その年の四月一日で数え年が七歳と八歳の者が、
仲良く揃って一年生で入学する。
市内には十数ケ所小学校がある。
我が地域の新入学生徒、百五十余名
組分けには西組と東組と中組というのがあって、
西組には、男ばかり五十余名前後が在籍。
東組には女ばかり。
それともう1つ中組は男女半々の組である。
私は中組で女の先生が担任になった。
昔より、
地震、雷、火事、親父に加えて先生と駐在所の巡査には、
絶対に口返事(言い訳)出来ぬ相手で、
がみがみと叱られている間は神妙に頭を下げて聞き、
早く終われと願うのみだ。
子供の服装は、
春と秋は合わせの着物で、
夏は浴衣の着物、
冬は綿入れの着物であった。
成長に合わせる様に肩には、
肩挙げがあり、
履物は下駄か草履を履いている。
筆記は帳面(ノート)を使わず、
教科書大の石板を使い、
石板に字を書く時は石筆で書く。
石筆は鉛筆の太さの約半分の太さである。
背筋を伸ばして姿勢を正して書きなさいと、
まず授業では石筆の持ち方を教えられ、
字の書き方に移っていく。
石筆の持ち方が悪くて、
姿勢の悪い児童を見ると、
先生は、
その子の後より突然に頭を机に押し付ける。
又、
前列の生徒は教壇の上より、
細い長い竹竿で頭をゴツンされる。
授業中に横見をすると、
その場で立たされるか教室の後ろで立たされる。
私は小学校に入学するが、
休憩時間中は運動場に行かず、
教室の前にある生徒の傘置き場の番人で、
宜しく時間を送る。
同級生で百姓は私一人で、
小学校入学と同時に、
父親から鶏十羽の世話をせよと言いつかる。
朝鶏舎を開けて、
麦糖を水で練ったものを餌として与えて、
それから学校へ行く。
昼食の時間は、
往復四百メートル位の所を走り帰り、
途中で野原の草を摘み、
それを持ち帰り、
鶏舎に投げ込み食事を済ませて、
すぐに学校へ行く。
日曜日は、
鶏舎の中の鶏の止まり木の下のにある、
糞の山を小さな籠(かご)に入れて、
前後一荷にして我が家の田畑に運ぶ。
途中で近所の子供達が遊んでいるのだが、
そこを通る時は皆より臭い臭いと騒がれるので、
逃げる様にして田畑へ急ぐのであった。
その鶏も進級するに従って、
三年生の頃は三十羽も飼う。
それからは常に三十羽は維持していた。
1つ例外があって六年生に、
一時、五十羽を飼うということがあった。
忙しい上に、
田畑の手伝いを言いつかりので、
もちろん遊ぶ暇は無い。
なによりも、学校の宿題に悩まされた。
それは追々話して行こう。
小学五年生の頃、
鶏が朝な夕なに突然に死ぬ。
十日もせぬうちに二十羽程死ぬ事があった。
大損害で父からは餌の間違いでは無かろうかと、
酷く叱られたが、
鶏売買の人が来て、
何処も損害甚大(じんだい)と話して鶏の死骸を安く買い取ってくれる。
私は内心大喜びで手間が省ける。
第1回『サトウキビパラダイス』
大正三年八月(一九一四年)第一次世界大戦が勃発する。
日本も連合軍に加担して勝利し、
南洋群島を日本の領土に編入する事になる。
この年、末曾有(みぞう)の日照り続きで、
ついには川の水堀の底水も枯れてしまい、
民衆、天を仰ぎ長嘆息をする毎日が続いた。
非運にも稲作は全滅で大凶作になり、
年貢米も納められないような状態に…。
田の稲も立ち枯れて、
多くの百姓は断腸の思いにて、
ひび割れした稲田を眺めるのであった。
器に水を入れて少量なれど、
根元に与え気休めの毎日を頑張る。
秋の取り入れの季節、
いくばくかの収穫を手にする。
何事も早期に諦めず努力せよと教えられた。
そして母は、
臨月の身重(私)を抱えて、
田へ水を送るべく水車を息を切らして踏み続けている。
交代者は無しで、
健康を損ねた身で出産をする。
赤ん坊(私)の泣き声も弱々しくこの世で息吹をする。
取り上げの産婆さんは、
「助かるかしらん」
と首を傾げるが乳は飲む。
この子珍しく、
虎年の虎の日の虎の刻に生まれたので、
父親は三虎と命名するが、
皆に反対されて虎雄と命名される。
そして、三男として出生届を出す。
父親は百姓だが小作人である。
昔の諺(げん)に三段百姓は水飲み百姓と言われている。
この時の生活は、
貧乏を絵に書いたような生活状態だったのだが、
家は持ち家で、
間口は十二メートル奥行きは五十一メートルあり、
離れ座敷もあった。
百姓だから内庭は広い。
近所は間口こそ違うが奥行きは皆同じなのだった。
私の成長を辿って見よう。
生まれた年は稲の収穫は散々であったが、
その年の十月も半ば、
両親は幼児(私)をフゴ(百姓の荷を運ぶ藁(わら)で作った器)に入れて、
野道に置き仕事を進める。
度々、乳を与え夕方迄働く。
この状態の繰り返しで何時しか這い歩む。
物心着いた頃は畑で草を抜き、
小石を拾い親の手助けをする。
当時は、病気勝ちで医者通い激しく、
父は死ぬなら早く死ねと人に話した。
ある時、喉の直ぐ横にデンボが出来て手術するが、
痛くて泣き泣き。
それでもサトウキビをしがんでいったと、
大きくなってからも、
母に良く笑われ話に聞かされる。
五、六歳頃は痩せて体力無く、
自宅の戸口で皆の遊びを見て決して、
仲間に入らず過ごす。
日本も連合軍に加担して勝利し、
南洋群島を日本の領土に編入する事になる。
この年、末曾有(みぞう)の日照り続きで、
ついには川の水堀の底水も枯れてしまい、
民衆、天を仰ぎ長嘆息をする毎日が続いた。
非運にも稲作は全滅で大凶作になり、
年貢米も納められないような状態に…。
田の稲も立ち枯れて、
多くの百姓は断腸の思いにて、
ひび割れした稲田を眺めるのであった。
器に水を入れて少量なれど、
根元に与え気休めの毎日を頑張る。
秋の取り入れの季節、
いくばくかの収穫を手にする。
何事も早期に諦めず努力せよと教えられた。
そして母は、
臨月の身重(私)を抱えて、
田へ水を送るべく水車を息を切らして踏み続けている。
交代者は無しで、
健康を損ねた身で出産をする。
赤ん坊(私)の泣き声も弱々しくこの世で息吹をする。
取り上げの産婆さんは、
「助かるかしらん」
と首を傾げるが乳は飲む。
この子珍しく、
虎年の虎の日の虎の刻に生まれたので、
父親は三虎と命名するが、
皆に反対されて虎雄と命名される。
そして、三男として出生届を出す。
父親は百姓だが小作人である。
昔の諺(げん)に三段百姓は水飲み百姓と言われている。
この時の生活は、
貧乏を絵に書いたような生活状態だったのだが、
家は持ち家で、
間口は十二メートル奥行きは五十一メートルあり、
離れ座敷もあった。
百姓だから内庭は広い。
近所は間口こそ違うが奥行きは皆同じなのだった。
私の成長を辿って見よう。
生まれた年は稲の収穫は散々であったが、
その年の十月も半ば、
両親は幼児(私)をフゴ(百姓の荷を運ぶ藁(わら)で作った器)に入れて、
野道に置き仕事を進める。
度々、乳を与え夕方迄働く。
この状態の繰り返しで何時しか這い歩む。
物心着いた頃は畑で草を抜き、
小石を拾い親の手助けをする。
当時は、病気勝ちで医者通い激しく、
父は死ぬなら早く死ねと人に話した。
ある時、喉の直ぐ横にデンボが出来て手術するが、
痛くて泣き泣き。
それでもサトウキビをしがんでいったと、
大きくなってからも、
母に良く笑われ話に聞かされる。
五、六歳頃は痩せて体力無く、
自宅の戸口で皆の遊びを見て決して、
仲間に入らず過ごす。