第2回『同級生で百姓は私1人であった』 | 五目紙物店「寅屋」

第2回『同級生で百姓は私1人であった』

大正十年小学校に入学する。
当時も早生まれ(三月三十一日迄に生まれると早生まれ)と、
おそ生まれがあり、
その年の四月一日で数え年が七歳と八歳の者が、
仲良く揃って一年生で入学する。

市内には十数ケ所小学校がある。
我が地域の新入学生徒、百五十余名
組分けには西組と東組と中組というのがあって、
西組には、男ばかり五十余名前後が在籍。
東組には女ばかり。
それともう1つ中組は男女半々の組である。

私は中組で女の先生が担任になった。
昔より、
地震、雷、火事、親父に加えて先生と駐在所の巡査には、
絶対に口返事(言い訳)出来ぬ相手で、
がみがみと叱られている間は神妙に頭を下げて聞き、
早く終われと願うのみだ。

子供の服装は、
春と秋は合わせの着物で、
夏は浴衣の着物、
冬は綿入れの着物であった。
成長に合わせる様に肩には、
肩挙げがあり、
履物は下駄か草履を履いている。

筆記は帳面(ノート)を使わず、
教科書大の石板を使い、
石板に字を書く時は石筆で書く。
石筆は鉛筆の太さの約半分の太さである。

背筋を伸ばして姿勢を正して書きなさいと、
まず授業では石筆の持ち方を教えられ、
字の書き方に移っていく。

石筆の持ち方が悪くて、
姿勢の悪い児童を見ると、
先生は、
その子の後より突然に頭を机に押し付ける。
又、
前列の生徒は教壇の上より、
細い長い竹竿で頭をゴツンされる。

授業中に横見をすると、
その場で立たされるか教室の後ろで立たされる。

私は小学校に入学するが、
休憩時間中は運動場に行かず、
教室の前にある生徒の傘置き場の番人で、
宜しく時間を送る。

同級生で百姓は私一人で、
小学校入学と同時に、
父親から鶏十羽の世話をせよと言いつかる。
朝鶏舎を開けて、
麦糖を水で練ったものを餌として与えて、
それから学校へ行く。
昼食の時間は、
往復四百メートル位の所を走り帰り、
途中で野原の草を摘み、
それを持ち帰り、
鶏舎に投げ込み食事を済ませて、
すぐに学校へ行く。
日曜日は、
鶏舎の中の鶏の止まり木の下のにある、
糞の山を小さな籠(かご)に入れて、
前後一荷にして我が家の田畑に運ぶ。
途中で近所の子供達が遊んでいるのだが、
そこを通る時は皆より臭い臭いと騒がれるので、
逃げる様にして田畑へ急ぐのであった。

その鶏も進級するに従って、
三年生の頃は三十羽も飼う。
それからは常に三十羽は維持していた。
1つ例外があって六年生に、
一時、五十羽を飼うということがあった。

忙しい上に、
田畑の手伝いを言いつかりので、
もちろん遊ぶ暇は無い。
なによりも、学校の宿題に悩まされた。
それは追々話して行こう。

小学五年生の頃、
鶏が朝な夕なに突然に死ぬ。
十日もせぬうちに二十羽程死ぬ事があった。
大損害で父からは餌の間違いでは無かろうかと、
酷く叱られたが、
鶏売買の人が来て、
何処も損害甚大(じんだい)と話して鶏の死骸を安く買い取ってくれる。
私は内心大喜びで手間が省ける。