先日、ダビデ王の切実な祈り/賛歌のことを書きましたが、その後の詩編23章4節は聖書の中でも最も有名で人気のある聖句の一つです。

23編全部載せちゃうとこうなります。
主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。
まことに、わたしのいのちの日の限り、いつくしみと
恵みとが、私を追ってくるでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
死の陰の谷って凄い場所を想像しますよね。
苦難を体験し、死に瀕していても、神様が共におられるから恐れずに済む。
死を恐れないというクリスチャンの姿勢は、決して強靭な精神を持っているからではなく、今の辛い世の中を後にして、永遠にイエス様と共にいられる天国に行けるという希望があるからです。誰でも怖いことや辛いことは嫌です。それから逃れたいと願います。
ちょっと産みの苦しみに例えてみると、お産を経験した方は耐え難い痛みに直面した筈です。でも、そこでもう止めますとは言えないし、そこで頑張れるのは、可愛い赤ちゃんが生まれてくるという希望です。
だからどんな状況でも希望を持つことは重要です。神様が与えてくださる希望は本物です。
日本のニュースで山に置き去りにされた男の子が7日振り(?)に無事で発見されたとことを知りました。置き去りという言葉が正しいのか正しくないのか分かりませんが、彼はその場所から6 - 7キロ離れた自衛隊の演習施設に歩いて行って、そこで水だけで何日間も過ごしていたようですね。彼が一人で、しかも信頼する親に置き去りにされたという不安と悲しみの中、山の中を歩いていた時、きっと死の陰の谷のようだったのではないかと想像します。
この子の生命力の強さに驚くばかりですが、神から与えられた命というものは本来とても強いものだと思います。その施設に辿り着いたこと、そこに飲料水(おそらく)があったこと、寝具のような物があったことなどを考えると、この詩編のように、神様が共におられたとしか考えられません。
でも、この子はクリスチャンじゃないかもなんて言わないでください。私がこの子と共に神様がおられたと思うのは、全人類は神の創造物で、その一人一人を神様が愛しておられること、この子もその一人であるからです。
神様を信じるか信じないかは個人の意志です。全人類が素直に神を崇拝するように創造することもできた全能の父ですが、そんなロボットみたいな人間は神様には必要なかったのだと思います。私たちは神様のイメージで創られたのです。私たちは決して一人ぼっちではありません。
聖書 新改訳 小型スタンダード版 BI-30/いのちのことば社

¥3,240
Amazon.co.jp

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主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。
まことに、わたしのいのちの日の限り、いつくしみと
恵みとが、私を追ってくるでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
死の陰の谷って凄い場所を想像しますよね。
苦難を体験し、死に瀕していても、神様が共におられるから恐れずに済む。
死を恐れないというクリスチャンの姿勢は、決して強靭な精神を持っているからではなく、今の辛い世の中を後にして、永遠にイエス様と共にいられる天国に行けるという希望があるからです。誰でも怖いことや辛いことは嫌です。それから逃れたいと願います。
ちょっと産みの苦しみに例えてみると、お産を経験した方は耐え難い痛みに直面した筈です。でも、そこでもう止めますとは言えないし、そこで頑張れるのは、可愛い赤ちゃんが生まれてくるという希望です。
だからどんな状況でも希望を持つことは重要です。神様が与えてくださる希望は本物です。
日本のニュースで山に置き去りにされた男の子が7日振り(?)に無事で発見されたとことを知りました。置き去りという言葉が正しいのか正しくないのか分かりませんが、彼はその場所から6 - 7キロ離れた自衛隊の演習施設に歩いて行って、そこで水だけで何日間も過ごしていたようですね。彼が一人で、しかも信頼する親に置き去りにされたという不安と悲しみの中、山の中を歩いていた時、きっと死の陰の谷のようだったのではないかと想像します。
この子の生命力の強さに驚くばかりですが、神から与えられた命というものは本来とても強いものだと思います。その施設に辿り着いたこと、そこに飲料水(おそらく)があったこと、寝具のような物があったことなどを考えると、この詩編のように、神様が共におられたとしか考えられません。
でも、この子はクリスチャンじゃないかもなんて言わないでください。私がこの子と共に神様がおられたと思うのは、全人類は神の創造物で、その一人一人を神様が愛しておられること、この子もその一人であるからです。
神様を信じるか信じないかは個人の意志です。全人類が素直に神を崇拝するように創造することもできた全能の父ですが、そんなロボットみたいな人間は神様には必要なかったのだと思います。私たちは神様のイメージで創られたのです。私たちは決して一人ぼっちではありません。
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