前回の記事
‐近くて遠い国 朝鮮 本編15(朝鮮戦争が起きた「原因」とその後の「影響」)‐
『李承晩』 (Wikiより)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%89%BF%E6%99%A9
・米国との関係
韓国にとって、米国はいわば“生みの親”にあたる。両国は緊密な同盟関係にあり、韓国政府は対外政策において、なによりもまず、対米関係の発展を重視している。
韓国と米国のあいだには、相互防衛条約のほか、一九六一年二月締結された経済・技術協定がある。これはそれまでに両国間に結ばれていた経済関係の諸協定を集大成したものである。一連の条約、協定を通じて、米国は韓国の内政、外交に対して強く影響力を行使できる立場にある。
近年、ニクソン・ドクトリンの実施の一環としての在韓米軍の削減やドル防衛のための米国の輸入制限、米中の「頭越し」接近、あるいはベトナム停戦交渉などの問題をめぐって、韓米両国政府間の足並みの乱れがめだつようになった。
朴正熙大統領は一九七一年一二月六日、国家非常事態宣言を発したさいの「特別談話」のなかで、「われわれの友邦である米国の事情を察するとき、米国も、われわれがいつまでもわれわれの安保を従来どおり依存したり託したりするにはむずかしい事情におかれている」と述べた。同大統領はまた一九七二年八月一五日の独立記念日の演説で「いわゆる強大国に強要された祖国分断の悲劇に終止符を打つ」ことを強調、さらに同年一〇月一七日の非常戒厳令宣布のさいの特別談話のなかでも、「緊張緩和の名のもとに、いわゆる列強が第三国や中小国家を犠牲の供え物にすることが十分ありうるという点を、われわれは警戒すべきである」と述べた。
対米協調の基本線を維持しつつ、そのなかで韓米間の摩擦の増大を極力防止している方針がとられているとみられる。
時事通信社 『朝鮮要覧1973』現代朝鮮研究会 100~101頁より
・日本との関係
李承晩政権時代の韓国政府は反日政策をとった。李承晩大統領は日本のかつての朝鮮支配に対する韓国民の憎悪をかきたてることで、自分の強権政治への不満をそらそうとしているかにみえた。同大統領が朝鮮戦争中の一九五二年一月に、日本海から黄海にわたる広大な水域に「平和ライン」(李承晩ライン)を設け、この域内に立入る日本漁船のだ捕を強行したのも、漁族資源保護のためというよりは、対日強硬姿勢を打ち出すことで国民にアピールしようとしたものと観測された。
このため、日韓国交正常化をめざして米国の斡旋で一九五二年二月からはじまった日韓会談は、当初から難航をつづけて、何回も中断した。日韓会談が軌道に乗りはじめたのは一九六一年の「五・一軍事革命」で登場した朴正熙政権が、それまでの韓国政府の対日政策を大きく転換させ、対日接近をはかるようになってからである。
ただし、李承晩政権時代にも、日韓間には貿易はあった。日本占領当局は占領初期から南朝鮮の米軍当局とのあいだでドル現金決済による日韓貿易を実施し、韓国成立後は韓国政府と占領軍司令部が通商協定を結んでこの貿易をひき継いだ。朝鮮戦争後半から韓国の復興資材などの対日買付けが急増したため、占領軍は日韓貿易をオープン・アカウント方式に切りかえた。この清算がおこなわれず、韓国の対日輸出が伸びなかったため、日本は韓国に対して莫大なこげつき債権を抱えることになった。
日韓会談は曲折を経たすえ、一九六五年はじめて妥結、六月には本調印にこぎつけた。調印されば文書は、①基本条約、②漁業協定、③経済協力協定、④在日韓国人の法的地位協定、➄文化協力協定である。発効は一九六五年一二月。
『同』 101~103頁より
④在日韓国人の法的地位協定
これにより、日本は韓国政府を「朝鮮にある唯一の合法的な政府」と確認し(基本条約)、「李承晩ライン」をめぐる紛争を解決し(漁業協定)、賠償供与にかわるものとして、無償三億ドル、有償二億ドル、計五億ドルの「請求権資金」を一〇年分割で韓国に供与すること(経済協力協定)となった。日本からの民間借款供与(三億ドルの了解)もきまり、日本の対韓こげつき債権四五七三万ドルは「請求権資金」から差し引く形で清算されることになった。双方が領土権を主張して対立した島根県北方洋上の竹島の帰属問題はタナ上げになった。
国交正常化によって日韓両国の関係は様相を一変した。民間レベルの経済協力が大幅に進んだだけでなく、両国政府は毎年定期的に閣僚会議をひらいて多面的に協力していくことになった。韓国側の要請により、日本の経済協力の供与も増大の一途をたどっている。
一九六九年一一月、当時の佐藤首相はニクソン米大統領との共同声明第四項のなかで、「韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要である」と述べた。このいわゆる「韓国条項」は、田中内閣に継承された。大平外相は日中国交回復後も「韓国条項は不変だ」と言明している。
『同』 103~104頁より
・アメリカの韓国政策がもたらしたもの
‐韓国に進出した日本の独占企業の話 その1(加速するアメリカへの依存)‐
‐韓国に進出した日本の独占企業の話 その2(「韓国」を創造したアメリカ)‐
一九五〇年の米国の対韓経済政策は、軍事援助と、余剰農産物による援助が中心であった。一九六〇年にはその無償援助を相対的に減らし、有償援助に切り替えるとともに、民間借款や直接投資を拡大する方針を打ち出した。これに照応して、韓国の経済開発計画がたてられた。
経済開発計画は、すでに李承晩政権の末期に一九六〇~六二年の三ヵ年計画がたてられたが、李承晩政権の崩壊のため実施されずに終わった。一九六一年の米国の経済援助の専門家チャールス・ウルフによって五ヵ年計画の青写真ともいうべき報国がおこなわれた。朴正熙大統領は、これをもとにして「経済開発五ヵ年計画」を発表し、翌一九六二年一月から実施した。
これが第一次五ヵ年計画(一九六二~六六年)であり、つづいて第二次五ヵ年計画(一九六七~七一年)が進行しつつある。
『同』 104~105頁より
‐韓国に進出した日本の独占企業の話 その6(『韓国経済開発五ヵ年計画』を支えた日本企業)‐
朝鮮戦争が停戦という形で「終結」した結果、統一という民族的宿願にもかかわらず、南北朝鮮は、さしあたりそれぞれの道を歩まざるを得なかった。1948年に韓国初代大統領となった李承晩は、1952~56年と4年ごとの大統領選挙のたびに強引な改憲をおこない、野党や対立候補にへの弾圧や不正選挙を厭わなかった。
ゆえに、1950年代を通じて大統領の地位にあった李承晩には、「共産主義」と「日本の植民地支配」に対する強い憎悪が共存していた。特に反共のためならば、手段を選ばない側面があり、この点について、アメリカ政府が民族解放闘争および共産圏に敵対する政策の一環として、南朝鮮に強力な軍事基地を維持して、植民地「韓国」を操作していく上でも、彼は重要な存在でした。
また李承晩にとっても、大統領としての「地位」と「権力」、そして反共政策を続けていくためにおいて、お墨付きを与えてくれるアメリカの支持と「援助」は必要でした。
では、その「援助」の具体的中身についてですが、主にアメリカの対韓「経済援助」は、1953~1960年までの8年間に、金額にして約20億ドルにも達しました。「援助」は主に小麦や綿花など、アメリカの「余剰農産物」と加工施設、その他消費財で行われました。理由は米国政府にとって、「自国の商品市場の拡大」するのと同時に、これら物資の売上金の使途を通じ、韓国政府の財政に介入し、対韓政策を進める有力な手段でひとつだったから、韓国では政権に接近したごく少数の者が、小麦・綿花の加工や「帰属財産」(旧日本および日本人の所有財産)の払い下げを通じて、「財閥」と呼ばれるいくつかの企業集団を形成した。
‐シリーズ こうして「在日」は生まれた その5(財産請求権の問題)‐
‐シリーズ こうして「在日」は生まれた その6(日本財産を横取りした米軍)‐
‐シリーズ こうして「在日」は生まれた その7(日本財産を用いて韓国傀儡化を進めた米国)‐
これは日本植民地時代の大地主を産業資本家に転換させようとした、アメリカ政府の農地改革政策(1950年朝鮮戦争直前に立法化、有償買い上げ、有償配分)に沿うものであり、これら「財閥」は、アメリカの「援助」物資を主要原材料とする消費財生産を行い、韓国経済は、消費財生産に偏った構造をもつ結果となりました。
朝鮮戦争による被害もありましたが、アメリカからの「大量の小麦の導入」は、韓国の米価を低落させ、農業に大きな打撃を与えた。1950年代を通して、自家用の飯米も確保できない農家━いわゆる「絶糧農家」が大量に存在し、年での労働の場も少なかった。ゆえに政府の統計によっても、失業者が実に3割にも達し、韓国の狭い国内市場では、1950年代末期にはすでに飽和状態となり、同時にアメリカのドル危機によって「経済援助」が1957年をピークに以後減少しはじめたがゆえ、韓国経済は深刻な不況にみまわれるようになった。
・不況と弾圧 そして革命
時事通信社 『朝鮮要覧1973』現代朝鮮研究会 259頁より
このような背景に、人々が明日の生活の目途も立たない中、1960年3月15日に4回目の大統領選挙を迎えました。すでに1958年ごろから野党に対する弾圧を強めていた李承晩政権は、この選挙においても大がかりな不正を敢行した。そうしたな中、慶尚南道馬山(マサン)の市民がまず抗議のデモを行った。
それは参加者が数万人に達する大規模なデモとなり、警官は実弾射撃を加えてデモをしずめた。
この最中、一人の少年が行方不明となったが、4月11日になって眼球に催涙弾を撃ち込まれたままの姿で海中から発見された。警官に殺され、海中に投げ込まれたのでした。
このニュースが伝わると、まずソウルの大学生がデモに立ち上がり、つづいて小中高校生や失業者、零細な生業に携わる人々など、さまざまな階層の人たちがデモに参加するようになり、たちまち一大反政府闘争に発展していった。
『同』 282頁より
1960年4月19日、この日ソウルでは10万人をこえる人々がデモに立ち上がり、大統領官邸へと向かった。警察は実弾射撃で鎮圧しようとしたが、もはや警察力だけでは相手にならず、政府はいよいよ戒厳令を敷いて軍隊を出動させました。それでもなおデモが続けられ、4月26日には、ついに李承晩は退陣に追い込まれ、いわゆる『四月革命』と呼ばれるものです。
この運動で、死者186名、負傷者1000名以上という犠牲を払わなければなりませんでしたが、10年以上にも渡って厳しい抑圧に耐えなければならなかった韓国の民衆が、文字通りと徒手空拳で、あれほどにも強大に見えた李承晩政権を打ち破ったことは、民衆に大きな自信と希望をよみがえらせることになった。それは、のち1年間の各種社会団体や政党の結成およびその活道、学生運動や統一運動、出版活動などにもはっきりあらわれています。
この『四月革命』の潮流は、1961年のクーデターにより大きな障害に直面しましたが、1960年代を通じて絶えることはなかったし、後の韓国史においても引き継がれていきます。
『同』 281頁より
<参考資料>
・時事通信社 『朝鮮要覧1973』現代朝鮮研究会
・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂
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