このとき尊氏は「室町幕府」という新しい組織を創立した、というつもりはなく、鎌倉にあった幕府(と後世呼ばれるもの、以下同じ)が、ちょっと断絶していたのを再興したに過ぎない、と考えていたはずです。
![えいいちのはなしANNEX](https://stat.ameba.jp/user_images/20111012/19/eiichi-k/65/de/j/t02200165_0653049011542816602.jpg?caw=800)
![えいいちのはなしANNEX-shiro05](https://stat.ameba.jp/user_images/20100810/18/eiichi-k/cc/f2/j/t02200165_0640048010685909217.jpg?caw=800)
そもそも「征夷大将軍」というのは「東北地方への遠征軍の長」という意味の肩書きです。
遠征中の将軍は、京都にいる天皇や関白の命令をいちいち聞かずに、現地で独断で何でも決めてよろしい、というのが、幕府という自治独立政府が存在する法的根拠ですから、京都と東北の途中である鎌倉にあるのが当然なんです。
ところが、後醍醐天皇が吉野に逃げて、味方を集めて京都奪還を狙う、という状況で、尊氏も京都を離れるわけにいかなくなります。そこで鎌倉には代理で息子を行かせ、自分は京都で頑張ったわけです。ところが、「南北朝の戦い」が長引いてしまって、やがて、二代目、三代目と、将軍が京都にいるのが常態化してしまいました。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20141120/19/eiichi-k/79/f8/j/t02200165_0730054813135107700.jpg?caw=800)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20141120/19/eiichi-k/30/a6/j/t02200165_0730054813135107698.jpg?caw=800)
尊氏も義詮も鎌倉生まれの鎌倉育ち(たぶん)ですから、故郷で幕府がやりたかった、かもしれません。しかし、3代目は京都生まれで、南北朝がおさまっても、いまさら田舎の鎌倉に移る気は起こらないでしょう。
でもね。
遠征軍の長のくせにいつまでも京都にいる、というのは、おかしな話です。これでは、朝廷とは別の政府を運営する理屈が立ちません。そこでどうしたかというと、「じゃあ朝廷でもトップをとればいいんだ」とばかりに、三代義満は太政大臣になり、日本国のスーパーバイザー的な位置におさまりました。
全盛期の義満のときは、このやり方で、まあよかったのですが、このせいで足利将軍は公家になってしまい、「武士たちの利益代表」という本来の存在意義からだんだんズレてしまいます。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20151013/19/eiichi-k/a6/b7/j/t02200165_0730054813452980196.jpg?caw=800)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20151013/19/eiichi-k/19/2a/j/t02200165_0730054813452979694.jpg?caw=800)
そうなると、本来幕府があるべき鎌倉にいる「関東公方」(尊氏の次男の子孫)が、「正統な幕府のトップはオレだ」という意識を強め、地方武士の支持を集めて独立勢力となってしまうわけです。
室町幕府(と後世呼ばれるもの)が急速に弱体化するのは、まさに「京都を離れられなかったから」といえます。