「室町幕府」は、どうして京都に開かれたのか? それが「衰亡」の原因だったのです。 | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

 足利高氏は、後醍醐天皇に従い鎌倉の「幕府」を滅ぼすのに一役買い、天皇の名前の一字を貰って「尊氏」となりました。しかし、天皇の「建武の新政」が武士たちの利益をちっとも尊重してくれなかったので、「やはり武家の棟梁がいてもらわないと困る」という武士たちに推される形で、後醍醐を追放し、新しく立てた天皇から「征夷大将軍」の位をもらい、新しい政府を作り直します。
 このとき尊氏は「室町幕府」という新しい組織を創立した、というつもりはなく、鎌倉にあった幕府(と後世呼ばれるもの、以下同じ)が、ちょっと断絶していたのを再興したに過ぎない、と考えていたはずです。
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 そもそも「征夷大将軍」というのは「東北地方への遠征軍の長」という意味の肩書きです。
 遠征中の将軍は、京都にいる天皇や関白の命令をいちいち聞かずに、現地で独断で何でも決めてよろしい、というのが、幕府という自治独立政府が存在する法的根拠ですから、京都と東北の途中である鎌倉にあるのが当然なんです。
 ところが、後醍醐天皇が吉野に逃げて、味方を集めて京都奪還を狙う、という状況で、尊氏も京都を離れるわけにいかなくなります。そこで鎌倉には代理で息子を行かせ、自分は京都で頑張ったわけです。ところが、「南北朝の戦い」が長引いてしまって、やがて、二代目、三代目と、将軍が京都にいるのが常態化してしまいました。

尊氏も義詮も鎌倉生まれの鎌倉育ち(たぶん)ですから、故郷で幕府がやりたかった、かもしれません。しかし、3代目は京都生まれで、南北朝がおさまっても、いまさら田舎の鎌倉に移る気は起こらないでしょう。
でもね。
 遠征軍の長のくせにいつまでも京都にいる、というのは、おかしな話です。これでは、朝廷とは別の政府を運営する理屈が立ちません。そこでどうしたかというと、「じゃあ朝廷でもトップをとればいいんだ」とばかりに、三代義満は太政大臣になり、日本国のスーパーバイザー的な位置におさまりました。
 全盛期の義満のときは、このやり方で、まあよかったのですが、このせいで足利将軍は公家になってしまい、「武士たちの利益代表」という本来の存在意義からだんだんズレてしまいます。

 そうなると、本来幕府があるべき鎌倉にいる「関東公方」(尊氏の次男の子孫)が、「正統な幕府のトップはオレだ」という意識を強め、地方武士の支持を集めて独立勢力となってしまうわけです。
 室町幕府(と後世呼ばれるもの)が急速に弱体化するのは、まさに「京都を離れられなかったから」といえます。