「南北朝の戦い」というのは何なのか。いったい誰と誰が戦っていたのか。 | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

最近であった、いろいろな「かわいいもの」。ピンクのおうちは間違いなくカワイイ。トーホーシンキのマグ、これはカワイイ。消防車がたのランチもカワイイ。京王電車はカワイイかといえば、私にとってはけっこうカワイイ。まあ、そんなところで。

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 で、今日は「南北朝時代」とはなにか」について書きます(なんでかというと、「忍たま乱太朗」のハナシを書いてるうちに、なんか「日本の戦乱」についてつらつらと考えてしまったわけです)。


 「南北朝の戦い」というのは、実は「源平合戦」と同じくらい、誤解を招く表現です。南北朝時代を「南朝と北朝が戦った時代」と考え「北朝の勝利で終結した」という捉え方は、あまり実情を反映していないからです。

 つまり、北朝の天皇は、戦ってもいないし勝ってもいません、実際のところを見れば。
 北朝が勝った、のではなく、北朝を担いで(利用して)いた足利幕府が、三代目の義満の時代になって、南朝の取り込みにようやく成功した、というところです。
 天皇家が「持明院統」と「大覚寺統」の二つの家系に分裂したのは鎌倉時代のことで、これは純粋に天皇家の内輪もめです。決して鎌倉幕府の陰謀で分裂したわけではありません。幕府はむしろ調停に苦労し、「交互に天皇を出す、ということで何とか」と話をつけてやった、という経緯があります。
 しかし、そういう状態をいつまでも放置すると、いったん戦乱が起きたときに、ひじょうに面倒なことになるのです。


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 大覚寺統から出た後醍醐天皇が「鎌倉幕府打倒」を叫び、そこに「北条氏の政治は限界だ」と感じた武士が馳せ参じ、まあいろいろあって、結果、幕府は滅び、建武の親政が始まります。ここまではいいでしょう。

 ところが後醍醐天皇は、「今後は朕の子孫が永久に天皇になる」と言い出します。もはや持明院統には皇位は渡さない、というのです。両統迭立(交代で天皇になる)というルールは僭越にも鎌倉幕府が作ったケシカラン仕組みであって、その鎌倉幕府を自分が滅ばしたのだから当然だ、というのです。
 これはものすごく没義道な言い分で、なおかつ事実関係の認識も間違っています。ただ、中国流の独裁者である「皇帝」になろうとした後醍醐からすれば、当然のことかも知れません。自分は「新しい王朝の創設者」なのですから。しかし、「和をもって尊し」の日本では、こういうヒトは受け入れられません。
 結局、討幕の最大の功労者・足利尊氏が、「武士をないがしろにする後醍醐の政治は許せん」ということで、後醍醐を追放しようとします。とはいうものの、日本では「とにかく天皇には反逆してはいけない」というのは絶対です。どうしましょう。おお、ちょうどここに、元々のルールからいけば後醍醐の次に天皇になっていいはずの持明院統の皇族がいるじゃあないですか。こちらに天皇の位を(強引にでも)譲らせて、その新天皇から「征夷大将軍」の位を貰えばいいわけです。
 後醍醐は怒って、京都を脱出して吉野に逃れます。そして、足利を快く思わない武士たち(どんなときだって、つねに不満分子というのはいます)に「こっちに味方しろ」と呼びかけます。「朕が正しい天皇だ、譲位などしていない、その証拠に三種の神器もこっちにあるぞ」というわけです。これが「南朝」です。現実的・客観的に見れば単なる辺境ゲリラみたいなもんですが、なにしろ「まだ譲位してないもん、だからこっちがホンモノだもん」という理屈の筋は一見通っています。ですから、尊氏と対立した者はとりあえず「南朝に味方します」といえば、単なる謀反人ではなく、大義名分のある正義の軍、主観的には官軍になれちゃうのです。
 実際、尊氏と弟の直義が対立すると、直義が南朝に降ったり、尊氏が直義に負けて都を追われると、その当の尊氏がなんと「南朝に味方します」と言い出したり、メチャクチャなねじれ現象が起きはじめます。
地方で隣の領主に押されてる者、一族の相続争いで劣勢な者が、続々と「南朝方」を表明して、内乱が複雑になっていきます。国内のゴタゴタはいつの時代にもありますが、「天皇が二人いる」ことが、混乱に拍車をかけているのです。

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 足利幕府が最初から「北朝の天皇のために戦っている」わけでは毛頭なく、利用しているに過ぎないのと同様、南朝についている武士だって、別に忠誠心で戦っているわけではないわけです。
 かくして、吉野の南朝は軍事的には圧倒的に劣勢なのに、「アニキが北朝なら、オレは南朝にいこう」というような不満分子の「受け皿」として存在し続けているのです。これでは、いつまでたっても室町幕府は安定しません。

 ならば、どうしましょう。明日に続きます。