ドウブツたちも、ランドセルもカワイイということで。おお、マルマルモリモリの二人だ。ウチの娘には「入学おめでとう、って、新入生じゃないよ」と抵抗されましたが、まあいいじゃん。
「南北朝の戦い」とは何か、という昨日のはなし の続きです。
いつまでも不満分子の「受け皿」が世の中に存在し続けては、困る。
そう考えた足利義満は、南朝に「対等合併がご不満なら、こちらの北朝に、大幅に譲歩させますので」と持ちかけます。つまり、南朝の天皇に京都に帰ってもらう条件として、「いままではそちらが正統だったということを認めましょう。三種の神器もそっちにあったわけだし。だから、その正統な天皇位を、こちらの北朝の天皇に正式に譲位して、三種の神器も渡してください。今後は従来どおり、両統で交代に天皇を出しましょう」というわけです。
ここまでの北朝を「ニセモノ」と認めるというんですから、大変な譲歩です。とはいってものの、義満にしてみれば北朝の天皇は単なる御神輿ですから、さほど痛くもありません。しかし肝心の北朝の天皇・上皇は、義満の「勝手な」交渉内容をあとから知らされて激怒したそうです。
南朝にしては、この条件なら渡りに船です。そこで京都に帰り、神器を渡して正式に譲位します。「南北朝合一」です。
しかし予想通り、義満は「政治家」であり「タヌキ」でした。天皇家が二つあったら、またいずれ「反対勢力」が片方を担ぎだします。それはダメだ、というわけで、「交互に」という約束は反古にされ、天皇位は代々「北朝」の系統で受け継がれることになります。無視された南朝の子孫は、多少は抵抗しつつも、結局は消えていきます。
義満というのは、豊臣を騙して堀を埋めてしまった家康に、とってもよく似ているといえます。ウソでもサギでも、分裂の旗頭になるような存在は消しておくことが「天下人」の義務なのです。かつて後醍醐天皇がしようとしたことを、義満も同じようにやっただけ、ともいえます。
というわけで、南北朝時代には「南朝が正統」ですが、南北朝合一のときに、完全に合意のもとに正式に譲位されたのだから、以後は北朝の子孫が「正統」だ、ということで、問題はないわけです。
明治時代に、この件について改めて論争が起きます。「南北正閏論争」です(閏というのは「うるう年」と同じ字で、つまり「正統ではないが、偽者というわけでもない」という意味だそうです)。で、結局は学者たちは、この「義満が手配した手続き」を追認したわけです。それによって「現天皇は完全に正統である」ということを確認し、一方で、南朝に味方した楠木正成たちを「勤皇のヒーロー」に仕立ててプロパガンダに使うことも可能になりました。
実に綱渡りのようですが、ナイスな「政治的決着」なのです。
この話の 補足をここに。