なぜ家康は、経済が発展して貿易に便利そうな西日本ではなく、一見不便そうな江戸に幕府を開いたのか? | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

 家康が、江戸に「幕府を開いた」理由、ですか?

 第一に、そもそも、幕府というのは関東にあるものだから。
 第二に、日本は農業立国だから。
 第三に、広い関東平野には発展の余地が無限にあったから。

 源頼朝が鎌倉に作った政権は、そもそも「関東武士団の独立地政権 」です。
京都の貴族どもに支配されない、地方武士のための自治政権を作るために、頼朝は御神輿として担がれたのです。
この地方政府を作るにあたり、京都と無用の喧嘩をしないために、頼朝を「関東の王」として認めささせる法的根拠として、「征夷大将軍」の肩書きを得ました。つまり遠征軍の長であり、遠征中は京都の天皇・関白の命令を待たずに現地で独断で何でも決裁する権限が与えられます。この職を代々引き継いだことで、この鎌倉自治組織はのちに「幕府」(将軍が臨時に陣幕を張って作った政府)と呼ばれることになります。
 征夷大将軍というのは、奥羽地方の「夷」の叛乱を鎮圧するための職ですから、当然、京都から奥羽に行く途中になきゃおかしい。つまり、関東にあるから幕府なんであって、他の場所にあったらそもそもトップが征夷大将軍を名乗る必然性がありません。

 鎌倉幕府が滅び後醍醐天皇の「建武の新政」が始まりますが、武士の権益をないがしろにした政治はすぐにソッポを向かれて、崩壊します。武士たちは、自分たちを束ねる組織がなくなって困っています。そこで、もともと鎌倉幕府のナンバー2的な存在だった足利尊氏を(頼朝と同じように)担いで、「幕府」という組織を復活させたのです。つまり足利幕府は本質的に鎌倉幕府の後継組織であり、であれば鎌倉に本拠を置くのが当然です。
 しかし、後醍醐天皇の南朝との戦いが続き、尊氏は京都から離れることができなくなってしまった。やむなく、尊氏は京都にいつづけ、鎌倉には息子を代理で送り関東を統治させました。これが常態化したのが「関東公方」です。「そもそもこっちが幕府の本拠地にいるのだから、京都の公方と対等だ」くらいに思っていたようで、それがつねに戦乱の火種になってます。
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 とまあ、まとめていえば、武家政権は関東にあるのが常態であり、京都に幕府があるってほうが理屈に合わないんです。遠征軍の将軍のはずが、天皇や関白のそばに住んでいるほうが、おかしいんです。そこで室町幕府の将軍は公家社旗に侵入していって、公家としても高い官職を得ようとしますが、これがかえって「武家の棟梁である」というアイデンティティを希薄にし、戦乱の世を長引かせた一因ともいえます。
 京都にいるなら、征夷大将軍である必要はありません。というわけで秀吉は公家社会の既得権益を侵して関白の地位を奪うわけですが、豊臣関白政権はいろんな事情でうまくいきませんでした 。いろんな事情についてはいろんなところで書いてるので繰り返しませんが、要は「ちゃんと武家の棟梁をやってくれるなら、関東に幕府を作ってくださいよ」というのが武士たちの一般的な望みだった、といえます。

 武士というのは、基本的に農場経営者が発展したものであり、武家社会であるというのはイコール農業立国 ということです。商業や貿易で利益をあげて権力基盤にしようとした政権が長続きした例は、日本史上ありません(少なくとも、ここまでは)。貿易に便利な福原を本拠地にしようとした平清盛も、大坂を本拠にした豊臣秀吉も、残念ながら権力確立に失敗したと言わざるを得ません。日本は、農業9.商業1の国であり、9のほうの管理をおろそかにして1のほうを発展させようとしても、駄目なんです。だとすれば、政治の中心は、近畿でも九州でもなく、関東がいちばん相応しいでしょう。なんで、というなら日本地図をよく眺めてください。

 というわけで、関東平野はこれからいくらでも発展の余地がある。近畿は成熟しきって飽和してます。九州は論外です。新しい政権が出来るなら、江戸です。