テイラー・シェリダン監督・脚本、ジェレミー・レナー、エリザベス・オルセン、ギル・バーミンガム、ケルシー・アスビル、グラハム・グリーン、ジュリア・ジョーンズ、トカラ・クリフォード、イアン・ボーエン、マーティン・センスマイヤー、タイラー・ララッカ、ジョン・バーンサル、テオ・ブリオネス、ジェームズ・ジョーダン、ヒュー・ディロン、アペサナクワット出演の『ウインド・リバー』。2017年作品。

 

ワイオミング州ウインド・リヴァー・インディアン居留地。雪の中で先住民の高校生ナタリー・ハンソン(ケルシー・アスビル)の遺体が発見される。彼女はレイプされていた。FBIの新人捜査官ジェーン・バナー(エリザベス・オルセン)は遺体の発見者で合衆国魚類野生生物局の職員コリー・ランバート(ジェレミー・レナー)の協力を得て、被害者が死に至った過程を探っていく。

 

事実に基づく話。

 

早速ですが、以下、ストーリーについてのネタバレがあるのでご注意ください。

 

 

以前、映画評論家の町山智浩さんの作品紹介を聴いていたのと、観た人たちの評価が高いこともあって鑑賞。

 

僕の住んでるところでは上映館が単館系の1館だけで、しかも一日の上映回数も限られているのが非常にもったいない。好評なのも頷ける見応えのある良作でしたから。

 

普通にシネコンでやればいいと思うんだけど、この時期はどこも夏休み向けの大作映画をやってるからその煽りを食らったというのもあるのかな。

 

案の定、映画館は混んでました。

 

あいにく劇場パンフレットは買っていないので作品についての詳しいことは知らないし、「実話を基にしている」といってもどこまで事実でどの辺が映画用のフィクションなのかもわからない。

 

町山さんはこの映画を「西部劇」と評されてましたが、まさしくそういう内容でした。

 

アメリカ先住民たちを描いてるところも、例えじゃなくてほんとに「西部劇」そのものなんだよね。

 

もっとも、時代は現代。

 

しかし、広大な土地に警察官は本当にごくわずかしかおらず、零下20~30度の酷寒の土地であるためにしばしば天候が荒れ、行方不明者の捜索や殺人事件の捜査もはかどらない。

 

 

 

そもそも「ネイティヴ・アメリカン女性の失踪者に関する統計調査は存在しない。失踪者の数は不明のままである」(エンディングの字幕より)。

 

前時代的な社会とそこのルールが改善されることなくそのまま放置されている。

 

男たちは皆銃で武装しているし、ほんのちょっとしたきっかけで撃ち合いになる。

 

雪の中で裸足で薄着のままだと100メートルも歩かないうちに肺胞が破れて溢れた血が凍り、死ぬ。

 

信じられないような環境だけど、特に女性に対して非常に危険で苛酷な世界である、ということでは僕は自分が住んでいるこの国と通底するものを感じます。

 

日本ではさすがに銃の撃ち合いは滅多にないけど、ここ何年もの間にこれまで女性たちが受けた性暴力被害が闇に葬られ続けてきた事実が明るみに出て、もはやこの国の安全神話は崩れている。安全なのではなく、多くが事件としてまともに捜査されないのだ。

 

ちょうど今、日光でフランスから来た観光客の女性が行方不明になって捜索が進展していない様子がニュースで報じられていますが(無事を祈っています)、ほんとに底知れぬ恐怖を感じる。この国は女性が気軽に旅行することすらできない場所になってしまったのだろうか。

 

僕がこの映画に抱いた戦慄は、人の命が、女性の尊厳がいとも簡単に踏みにじられている事実でした。荒廃した人心、人の命の扱い方のぞんざいさ。それはこの映画を観ていると厳しい自然のせいだと思いがちだが、災害が起きたり異常気象に見舞われたり経済的に苦境に立つ今の僕たちのこの国だって状況は似ている。そして投げやりになって倫理観が麻痺した者たちが無責任に自分の欲望を暴走させて、その結果、立場や腕力が弱い者たちが犠牲になる。

 

僕はこれはどこかの知らない土地の自分たちとは無関係な話に思えなかった。

 

だからとても重い後味が残るのだけれど、一方で最初に書いたようにこれは「西部劇」のように描かれてもいるので、主人公は優れたハンターであり、最後には女性をあのような目に遭わせた者には復讐の鉄槌が下る。

 

どこまでが事実なのかわからない、と思ったのは、要するにジェレミー・レナー演じる主人公がカッコ良過ぎるんだよね。彼やエリザベス・オルセンが演じるFBI捜査官は果たして実在するんだろうか。クライマックスのあの銃撃戦は本当に起こったことなのか。

 

雪の中で亡くなったナタリーにはマット(ジョン・バーンサル)という白人の恋人がいた。マットは採掘所の警備員をしていたが、やがて彼は全裸の状態で雪の中で死体で発見される。死体は動物に食われて無残に朽ちていた。

 

ナタリーをレイプしてマットを殺したのは、マットの同僚たちだった。

 

同僚たちが外出しているうちに訪ねてきた恋人のナタリーとベッドをともにしていたマットは、しかし思いのほか早く同僚たちが帰ってきたために彼らの度を越したからかいを受け、ナタリーに性的な嫌がらせまでされるに及んで、仲間たちとの殴り合いに発展する。

 

マットは寄ってたかって殴り殺され、ナタリーはレイプされる。隙を見て逃げ出したナタリーは、しかし雪の中で息絶える。

 

映画の中ではナタリーもマットも死んでいるのだから、彼らがベッドの中でどんな会話をしていたか(二人は一緒にカリフォルニアに行こうと相談している)なんて誰にもわかるわけがないし、採掘所の警備員たちがFBIや地元の部族警察や保安官と撃ち合いをして全員殺された、などという事件があったらもっと大きなニュースになるでしょう。

 

「事実にインスパイアされた」ということなので、モデルになった事件はあるかもしれないけど、もしかしたら「実話」というのは先住民の女性が犠牲になる未解決事件がたくさんある、という事実だけなのかもしれない。

 

だって、あの通りのことが起こったんだとしたら、コリーはレイプ犯を司法に引き渡さずに私刑にしてるわけだから、問題大ありでしょ。

 

確かに観客の一人としては「ざまぁ」と溜飲が下がるんだけども。

 

映画の冒頭でレナー演じるコリーが遠距離からライフルで家畜の羊を狙うオオカミを撃ち殺すショットがあって、その射殺の瞬間が物凄くリアルだったんで、ほんとに殺したんだろうか、と心配になった。

 

今の時代、映画のために動物を殺したりしないだろうとは思いつつも、最後にお馴染みの「この映画では動物は一切傷つけたり殺していません」という断わりは出てこなかった(少なくとも字幕は出なかった)ので気になった。

 

あれは、彼がレイプ・殺害事件の加害者の男たちを一人また一人と仕留めていくクライマックスを前もって暗示しているんですね。

 

ただ、オオカミは自分たちが生きていくために狩りをしてるんであって、そこに獲物となる羊がいるから食うために殺すわけで、それは人間の男たちが気晴らしのために女性にカラんでレイプしたり同僚を殺すこととは違う。間違えてはいけない。

 

そんなことはわかったうえで、ここでは比喩として用いているんだろうけど。

 

明らかにここで野生の動物たちと人間が重ねられているのだが、コリーの「大自然の中では幸運なんてない」「オオカミに襲われる鹿は不運だから襲われるわけじゃない。弱いから襲われるんだ」という台詞も、それをそのまま人間に当てはめることには抵抗がある。

 

コリーは最後に撃ち合いの中でジェーンが生き残ったのは彼女が「強かったからだ」と言いたかったのだし、3年前に自分の娘を何者かに殺されているコリーが犠牲者の女性を侮辱するつもりなどないのはわかるから(雪の中を10キロ走り続けて力尽きたナタリーのことを「強い子だ」と言っていたし)、これはあまりに厳しい世界で生き残ることの困難さについて語っていたのかもしれない。

 

個人的には、人間が生き残るかどうかは「幸運かどうか」だけでも「強いかどうか」だけでもないと思う。人間は労わり合える存在だと信じたいから。甘い、と言われようと、そういう信念を捨ててしまったら、人は簡単にあの警備員の男たちと同じようなならず者になってしまうだろう。

 

この映画は、僕たちの中にある倫理観を省みさせて、どんなに欲求不満だろうと人として許されないことがあることを今一度しっかりと心に刻み込む機会を与えてくれる。

 

 

出演者たちの演技が素晴らしくて、ジェレミー・レナーとエリザベス・オルセンは以前、アメコミヒーロー映画『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』と『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』で人間離れした身体能力や超能力を駆使して共闘したり対立してましたが、今回のこの『ウインド・リバー』であらためて彼らの俳優としての魅力に気づかされました。

 

 

 

「アベンジャーズ」シリーズではレナー演じるホークアイは「超能力がないただの人」みたいにネタにされがちだったし、どうしても彼が持つ役者としてのポテンシャルを十二分に発揮する機会もなかったけど、この映画ではジェレミー・レナーを初めて観た『ハート・ロッカー』の骨太で男臭い雰囲気を思い出したりもした。ならず者を演じていたベン・アフレック監督・主演の『ザ・タウン』も。

 

アベンジャーズ以前は、ちょっと危険で怖そうな俳優さん、というイメージだったんですよね。

 

そういえば、ジェレミー・レナーは「アベンジャーズ」シリーズの今のところの最新作『インフィニティ・ウォー』にも、それからやはりレギュラーだった現在公開中の「ミッション:インポッシブル」シリーズの最新作『フォールアウト』にも欠席してるけど、なんででしょうかね。

 

この『ウインド・リバー』は2017年の映画だから、撮影期間はカブってないと思うんだけど(※追記:どうやらこの映画の撮影のためにスケジュールが合わなかったようです。でもエリザベス・オルセンは普通に『インフィニティ・ウォー』に出てたけどな)。

 

僕はエリザベス・オルセンの出演作は「アベンジャーズ」シリーズと『GODZILLA ゴジラ』しか観たことがなくて、どれもがVFXアクションが見せ場だったので彼女個人の演技に注目することはほとんどなかったんだけど、この映画でのオルセンは若い捜査官で酷い状態の遺体を目にして言葉を失うような場面はあるものの一度として涙を流したり取り乱すようなことがなく、また大柄で屈強な男たちの前でもひるむことなく彼らを相手に激しい撃ち合いまでする、非常に勇敢で行動力のある女性捜査官を説得力を持って好演していた。

 

 

 

スーパーヒーロー映画とは違う、生身の人間としての芝居が巧みな女優さんであることがよくわかりました。彼女がしばしば見せる呆然としたような表情と、でもよく動く身体が印象的だった。

 

「アベンジャーズ」シリーズに出演している主要キャストは全員が演技力のある俳優たちであることをここでも思い出させてくれた。

 

先住民の部族警察長のベン役のグラハム・グリーンは、代表作である『ダンス・ウィズ・ウルブズ』をはじめ特に90年代に映画でその顔をたまに見かけた人だけど、あぁ、だいぶお年を召されたな、と。最初誰なのかわかんなかった。

 

 

 

ここで描かれる先住民へのアメリカ政府の無策、放置ぶりは、どこか沖縄とそこに住む人々に対する日本政府の態度を思わせる。明らかにそこには民族差別、地域差別がある。

 

 

 

 

先住民への差別、女性への差別。差別は幾重にも重なって歴然と存在する。

 

ナタリーがここから出ようとしたのも、恋人のマットが白人だからそれに望みを託したところはあるのだろう。彼女の兄チップやその仲間たちは仕事もなく、ヤクに溺れてしょっちゅう逮捕されている。

 

映画の中盤に彼らを訪ねたジェーンはその中の一人と撃ち合いになって、やむなく彼を射殺する。

 

コリーはチップからナタリーが付き合っていたマットの存在を聞き出す。

 

この、コリーの男らしさと彼にシバかれて泣き言を言うチップの対照的な姿に個人的にちょっと腑に落ちないところもあるんですが。

 

こういう映画って、必ず白人以外の先住民のならず者を出すよね。そしてそいつらを白人の主人公が倒すなり痛めつけるなりする。

 

たとえば、イーストウッドの『グラン・トリノ』みたいに(あの映画では相手はアジア系の移民で、イーストウッド演じる主人公は最後まで決定的な暴力は振るわないが)。

 

なんか、都合がいいよなぁ、と思ってしまう。絶対に白人の主人公をかっこよく描くから。

 

この映画ではチップと同じような、あるいは彼よりもさらに下劣な存在として白人のならず者たちが登場するのだが。

 

あの警備員たちの行ないは、これまでにアメリカの歴史の中で“白人男性”たちが犯してきた数々の罪を象徴的に表わしているんだろう。彼らが振り回す銃とは男根のことでもある。

 

だから、コリーという主人公はそういう白人男性たちの罪を映画の中で贖う役割を果たしている。

 

ただし、彼もまた銃を使って。

 

銃が手放せない土地柄とはいえ、クライマックスで大勢が互いに必死で弾倉を交換しながら至近距離で撃ち合う姿には怖さを通り越して滑稽なものすら漂っていた。こんなに近い距離ならいちいち鉄砲で撃ち合ったりせずに殴り合いで勝負すりゃいいじゃねーか、とさえ思う。

 

侍の刀と違って、僕は拳銃には卑怯なイメージしかない。

 

確かに銃のおかげでジェーンは男たちにも勝つことができるのだが。

 

コリーは先住民の女性と結婚して子どもをもうけたが娘が殺されたのをきっかけに夫婦の仲が冷え込み離婚した、という設定のようで、冒頭で妻の血を引く幼い息子と触れ合ったり、族長やナタリーの父親のマーティンとも親しくしている。

 

 

 

 

自らも大切な存在を失って、先住民の心がわかるキャラクターとして描かれている。息子の前で父は男らしく頼りがいのある存在に映る。

 

しかし、コリーの前でけっして笑顔を見せない元妻の表情に、何か意味深長なものも感じる。

 

『グラン・トリノ』でイーストウッドがアジア系の少年に「アメリカらしさ」を託したように、コリーのネイティヴ・アメリカンの血を引く息子は、やがて父の精神を受け継ぐんだろう。

 

どこかに白人が救われる部分を残している。ほんとは被差別者の立場であるネイティヴ・アメリカンを主人公にすべきなんじゃないかと思うんだが。

 

ベンは白人たちに殺されてしまうし、娘を殺されたマーティンは失いかけていた生きる気力をコリーのおかげで取り戻す。

 

まぁ、「西部劇」というのはそういうものなんだな。“インディアン”は主人公にはなれない。

 

そこが、扱うテーマに対するこの映画の最大の弱点ではなかろうか。

 

 

監督のテイラー・シェリダンは『ボーダーライン』『最後の追跡』の脚本家でこれが初監督映画だそうで、暴力が支配する西部劇的な世界をずっと描き続けているようだけど、あいにく僕は彼が脚本を担当した作品はどれも未見。

 

テキサス出身のシェリダンはまさに西部劇的な社会やルールが残っている場所で育った人らしいけど、彼が描くようにこの世には「強い者」と「弱い者」しかいないのであれば、それはなんという生きづらい世界だろう。そんなところで生きるのは僕は御免だ。

 

たとえ彼らが生きる世界では正しくても、コリーの言う価値観には同意できない。

 

ナタリーをレイプして、ジェーンとの撃ち合いで手負いのまま逃げてコリーに捕まるピートが「弱い者」であることは間違いないが。

 

ピート役のジェームズ・ジョーダンの演技がこれまた素晴らしくて、スクリーンの中に入ってぶち殺してやりたくなるほどにリアルなクズを好演している。

 

ピートはつまらない男で、流れ着いたこの地で溜めた鬱憤をナタリーへのレイプで晴らす。自分の罪を反省することもなく、やってきたFBI捜査官のジェーンにショットガンを発砲して殺そうとする。

 

ピートの暴走を面白がって囃して、一緒になってマットを殺した他の警備員たちも同様にクズだ。

 

そして、そういう人間たちは実在するということ。当たり前のように僕らの中に紛れ込んでいる。

 

そのような人間のクズたちをライフルで一人ずつ撃ち殺して、生き残って逃げたピートを裸足にして薄着のまま雪の中を歩かせて苦しみながら絶命するさまを無言で見つめているコリーにはヒロイックなものを感じるし、現実にも同じような目に遭わせてやりたい奴がいっぱいいますが、でもやはりそれは映画の中だけにとどめておくべきものだ。

 

現実の世界で人が不必要に銃を持つとどうなるのか、アメリカで頻発している銃乱射事件を見ればよくわかる。俺が銃を持てば他の奴も持つのだ。だからそんなものはいらない。

 

やたらとデカい銃を撃ちたがる男はそこに性的な欲求不満を込めているのだろう。迷惑な奴らだ。

 

コリーはマーティンに、彼の娘を陵辱し死に追いやった者の最期の様子を報告する。「哀れだった」と。それは不必要に銃を持った者の末路だ。

 

西部劇では最後には銃がすべてを解決する。映画としては気持ちがいいし、だから見応えのある作品でしたが、この映画から僕が強く感じたのは人間の卑劣さに対する嫌悪でした。

 

 

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