歴史の中で浸透、潜入した神の言葉、教えを破壊する思想 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

使徒15章のエルサレムのパリサイ派のグループで長老たちが

異邦人達の受け入れをどうするかと話し合いがされた理由は、

異邦人イエシュア 信者達は、先祖代々異教徒の世界で生き来たので、イスラエルの神の教え=言葉を知らなかったからです。

 

1世紀当時のイスラエルの異邦人信者と、神の教えを知るユダヤ人たちの間には、神の言葉を理解する上で、ライフスタイルの違いに大きなギャップがあったのです。

 

汚れた異教徒時代、異教神に仕えて生きてきた風習やならわし、ライフスタイルを、イスラエルの神、イエシュアを信じたらそれ以降これからは、そのような生き方は続けられない、イスラエルの神の聖別された家族の中に加わるとはそういう事であるという事を神の教えから理解した前提で、ユダヤ人と異邦人は神の前に聖別された生き方、交わりをすることが成り立つからです。

お互いに食卓も囲める親しい交わりが出来るようになることが書かれているのです。

食事とは、親しい間だからするという大前提がヘブライ人の世界ではあるのです。

 

汚れたものを神の家、家族の中には持ち込めないという理解が

あれば簡単に分かる事です。神の宮の定義全てはモーセの五書に記されているのです。イエシュアを信じる人たちは、神の宮であると宣言するならば、神の宮とはどのようなものであると神が説明しているのか、理解しないとならないのは必須条件です。

 

これから三大都上りの祭りの1つである、シャヴオート、クリスチャンの世界ではペンテコステというギリシャ語の名前で知られていますが、これは、過越、シャヴオート、仮庵と三大都上りの

祭り、「ハギム」神の創造された祭りで、全部合わせて1つの神の記念日なのです。

 

そこで与えられた契約=ブリット=婚姻契約とは、神の子らが

どのように神の中で1つ大家族として生きるかの全てが書かれているものです。神との関係は、神が提示する生き方=ブリットに

基づき生きると創世記〜黙示録まで書かれている意味をまず

理解しないとならないのです。これは別のトピックなので、シャブオートの祭りの解説の時に加えて説明したいと思います。

 

異邦人はそれまで神の教え=トラー、婚姻契約から遠く遠く離れて生きていたとパウロがエペソ2章で伝えている通り、神の教えを知り生きるなど、ユダヤ人と婚姻により血縁関係を持った

「ルツ」のような異邦人でなければ、異邦人はイスラエルの神の教えを聞く、生きる事などからは、無縁であり、神の教えから遠く遠く離れて生きて来て、神の教える生き方など全く知らない異教神神の異教徒の世界に生きていたのです。

そして異邦人は、異教神々の教え、文化、生活習慣、そのならわしに生きていたのです。

 

神のトラー=教えなど聞いたこともなければ、見たこともない、神の祭りや記念日なども知らない、生きたこともない、それが

異邦人の先祖代々受け継いできた背景なのです。今でも同じです。

パスターが、イエシュアや使徒やパウロ、1世紀のイエシュア 信者達、ユダヤ人、異邦人も祝った”過越の祭り”を、「遠い国の

祭りなので、何か分かりませんね〜。」と言われて、確かにその通り、異邦人は聖書に記された神の教えや記念日を知らない!という事を言っているのです。異邦人はイエシュアが命じた記念日ではなく、昇天以降聖書が閉じられた後人間が創作した教えや記念日を生きているとは考えていないと思います。新しい記念日が、神から命じられたものであると疑いもなく、聖書に書かれていない神が命じてない事を信じているからです。

それでは、聖書に記された記述や意味など理解出来ないのは当然なのです。

 

イエシュア昇天以降、異邦人もイスラエルの神、イエシュアに連なる人達が徐々に出てきたから、新しいグループ、別のグループが2000年前に初めて出現したと考えてしまっているのですが、異邦人とユダヤ人は1つの群れとして1世紀は存在していたのです。その群は、エデンの園から継続する同じイスラエルの神の1つの大家族です。2つ別物の、2000年前後で時代を分けて登場する別の2つのイスラエルの神の家族など事実上存在もしていないのです。

こんな風に考えていませんか?

これから書く内容は、聖書の事実と全く異なる事でありますが

そう考えられている事です。

1世紀使徒が生きていた時代に教会というグループが初めて出来て、教会💒という場所が作られその建物の屋根に十字架が付いていて、そこにイエシュア信者達=ほぼほぼ異邦人の人達が、毎週日曜日に安息日として礼拝するために集まっていた。

日曜礼拝では、新約聖書を読み、献金を集め、そして、聖餐式をしていた?モーセの五書は廃れたから、モーセの五書に書かれている教えはもう無視して良い、自分の判断で好きに選んで生きれば良いと教えられた。

福音書以降に新しい教えが書かれていて、今までとは違う教えを昇天以降は生きてた?

 

又は、M.テニーのように、アメリカの聖書学者を代表する有名な新約聖書神学者が、使徒は神の教えが変化する過渡期、途上の時期であるなどと、聖書とは異なる教えをして教科書になる著書に書き記し、神学校でそのような教えを次世代の牧師や教師に教え続けられているのですから、一般の人が教師や牧師が教えれて

来た非聖書的教え=置換進学やデイスペンセーション神学は聖書ではないと、見抜けないのは仕方のない事なのです。

だから、教える人は、聖書を正しく学び理解しないとならない理由は明らかであり、どの学問の分野でも正しい情報を提供しなければ、それは真実を教え伝えている事ではないのです。

 

有名科学者達が、こぞって進化論を信奉し解説するから、それが

真実とはならない、神の創造の事実は、人の編み出した偽仮説により曲げれたり、永遠に変化しないように、信仰の世界にも聖書とは異なる別の教え、別の福音が侵入、潜入、浸透してしまっていて、それを教えられても、それらは聖書の神の教えとは永遠に異なるものなのです。人の作った教えと、神の教え=言葉を識別しないとならない。それには真理=神の言葉に照らし合わせる。

嘘=人の編み出した聖書ではない教えに照らし合わせても真実は見えないのです。嘘に照らし合わせても真実は分からない。神の言葉=真実に照らし合わせれば、初めて嘘が識別できるのです。

 

イエシュアの贖いの血=子羊の血により贖われ、救われ、聖霊を受けて新しく生まれ変わる事は、エデンの園から飛び出したアダムとハヴァへ最初から教えられていて与えられている事実であり、2000年前にイエシュアが地上で処刑され昇天したから初めて有効、可能になったのではない!という聖書に記された事実が

見えない限り、2000年前に新しい救い、教えが出て新しい教会という異邦人グループが出て来て、別の契約を受け取って、

ペンテコステで初めて聖霊が人の内側に住まうようになったと

人が語る教えを信じれば、聖書の記述が書いてあっても理解出来なくなってしまうのです。

そこれでは、聖書に記されている古代に存在した残りの民、アヴラハムのように、信仰により義とされ聖霊を受けて、生きていた

人達のことが記されている真実意味が成り立たなくなります。

でもクリスチャン教師は、そのような箇所を「特別な人だけ聖霊を古代は受けていた。」などと不真実な解説で聖書の教えを塗り替えているのです同じイスラエルの神=永遠の中に屠られているイエシュアの完了の業、子羊の贖いの血でどの時代の人も同じ救いの方法で聖霊を受けていた事が書かれているのです。

変化する神、変化する神の言葉、怒りの神、恵の神、怒りの時代

恵の時代、律法時代と聖霊時代など、クリスチャンが唱えるような教えは聖書には書かれていません。

神は永遠から恵と哀れみと許し、愛に富むお方!とご自分の永遠普遍の性質を紹介しているのに、人間が勝手にイスラエルに神像を別物にして他者へ伝え続けている弊害の教えが蔓延しているのです。

ダビデは、神の家の中で教えられた贖い、救い、許しの意味を

深く知って神に語って賛美していることが、詩篇には綴られているのです。

昇天以降に、救い、許し、贖いが始まったならば、それならば

イエシュアのニコデモへの質問〜モーセの五書に書かれた福音を

体験的に知らないのか?新しく生まれ変わることを体験してないの?と言う質問が意味不明になります。

永遠〜太古から語り継がれる同じ福音、イエシュア=イスラエルの神は昨日も今日も永遠に変わらない。聖霊=言葉=神であり

どの時代もどの人も神の側から尋ね求めて探り出して救いだしてくださった事が聖書には書かれているのです。

どの人も信仰により、イエシュアの完了の業を受け取り義とされた、される、これからもされ続けるのです。同じ1つのイスラエルの大家族に全ての人が加えられやがて1つになる。その事が収穫〜祭りをめぐり教えれているでしょう。最後の収穫の時は神の民が全て集められる、毒麦の中から刈り取られ集められる!

 

1世紀の信者達は、日曜日に安息日として礼拝に集まる事などもなく、安息日は、仕事をしたり、お金を集める事などしてはならないと神にトラーではっきりと教えられているから、そんな事もしなかったのです。パウロが日曜日にそれぞれの家でエルサレム拠点の人達のために捧げるお金を手元に集めておいてとお願いしたのは、日曜日は労働の第一日目で普段の日であり、安息日ではないからそのような事を言ったのです。パウロが安息日に金集めをするように教え、そして自らしていたら、トラー教師として

神の言葉に違反する事を教えて行動している、パウロの信仰宣言=モーセの五書に100%忠実に生きている(使徒21)に矛盾する事になってしまいます。そんな事をする人は誰も1世紀にはいなかったのです。でもクリスチャンの教えでは、この箇所を読んでどこかの場所に集まり、そして日曜礼拝で献金を募るなどと教えられていますが、日曜日は労働日だから、そんな日にわざわざ集まる事もないし、シャバットは週一度だけ!第七日目と神の暦で神が人に教え呼び出しているからです。1コリント16:2

 

彼らが集まるとしたら、今でもそうですが、シャバット=金曜日の日没で盛大な晩餐をして喜び祝い、土曜日の昼間、その週の

トラー、預言書などの箇所を読み学び、そして、土曜日の夕方、シャバットは閉じる時で、そのために集まったりするのです。神の暦では、土曜日の夕方は、すなわち日曜日の始まりなのです。

又は、祭りの時に集まる!

 

事実は、誰もその時代に、福音書〜黙示録は読んでおらず、特定の人しか、使徒が手書きした書簡を読んでいなかったのです。

聖書に聖書と記されていたら、それらは100%モーセの五書を指し、モーセの五書を解説する、預言書、諸書のみを指して、聖書と記しているのです。

それ以外の聖書は1世紀には存在していないからです。

福音書以降が聖書として認識されたのは、393年、4世紀も後半になっての事です。しかも、聖書はその当時全てが手書きであり、印刷機が発明されたのは、15世紀です。印刷物やオンラインで誰もが聖書を個人で読めるようなものではありませんでした。

だから、ヘブライ聖書を知らない異邦人が、パウロのような教師に学ばなかった人達が、人造の教えの解釈で聖書を解説し、聖書を語り継いで行ってしまったのです。だから、中世には、聖書とは異なる人造の教え満載だったのでしょう。

ユダヤ人の世界では、モーセの五書からマラキまで、一字一句間違い無くトラー学者で訓練を受けた人達により慎重に書き記され続けて、パウロのような教師は丸暗記で口頭で全て言えるような教育の世界、聖書が浸透しているユダヤ人の世界とは別の教育の世界です。

プラス、1世紀当時、聖書の中に記されている人の中で誰一人、モーセの五書は廃れた!律法=不適切な翻訳ですが、本当のヘブライ語はトラーであり、その意味は神の教えインストラクションなのです。神の教えは終わりだ〜???などと神の罪の定義に照らし合わせれば死に値する冒涜を言う人信じる人は聖書に登場していないことが聖書には記されています。

1つ1つ聖書だけに基づき考え始めると、異邦人の世界で一般に教えられている聖書概念と、聖書に記されている事が土台から

ズレている、異なっている事が分かるのです。

 

1世紀もイースターを春に祝い、12月にはクリスマスを祝っていた?シャバット=第七日目の聖別された日を祝うのをやめ、

新月、過越や仮庵の祭りも、神が終了と言って終わりになった?

モーセの五書は廃れた〜、律法は破棄されて、今は生きる必要がなくなった〜と1世紀の人たち、得にパウロがそのように教えて、今まで聞いたことがない新しい最新型の教え、新しい宗教が教えられるようになった?

 

1世紀にはカトリックと言う宗教が生まれて、ペテロが異邦人の新しい宗教=ローマ教の教皇になり、新しい宗教が出現した?

空想の世界の話は、聖書の記述から離れたら、どこまでもどんどん広がって行くのです。

福音書以降を読んで、使徒以降を読んで何を空想して読んでいますか?このような上記したことではないかと思うのです。

 

事実はまるで違います。1世紀、聖書に登場する人たちは、モーセの五書を熱心に学び、モーセの五書に記された神の教えをそのまま生きて、そして第七日目にシャバットを祝い、過越や仮庵を祝っていたのです。今のような西洋宗教の教えなどはまだ出現せず、浸透もしていなかった時代だからです。

少数の異邦人はユダヤ人の会堂にシャバットに出向き、トラーを学んだ!と福音書、使徒にも書いてあるのです。安息日に会堂でトラーをパウロが教えたと使徒には何度も書いてあるのです。

日曜礼拝やクリスマス、イースター、聖餐式を祝う事もなく、

シャバット、新月、過越、ヨムテルア、大贖罪日、仮庵を祝ってていた事が書かれているのです。

どうしてそのような記述を、安息日は、日曜日だなどと人間が

言い換えて、塗り変えてしまうのですか?諸外国でも同じです。ユダヤ人の会堂に異邦人が共に集っていただけです!

 

 

 

続く