1ペテロ1:15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。
1:16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。
ペテロは、レビ記11章の食規定、汚れたものを食して、聖別を汚してはならない!という、神の教えをそっくりそのままの意味通りで引用して、これを書いているのです。きよくない清掃動物を食べて、
聖なる民とされた人は、自分の聖別を汚してはならない!肉体も霊的にもあらゆる点に於いて、神の栄光を表す〜イエシュアの実態通りを生きる。わたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者と
なるべき!と神が言っている意味を理解しないとなりません。
クリスチャンの世界で語られる、食規定が終了などと、神が言ってもないこと、福音書や使徒10のペテロの幻、パウロの書簡から完全に誤解して、聖書とは逸脱した思想を唱え続けています。
神の聖別、清掃動物を食する行為が、神の前に、神の民としてどれ程おぞましい汚らわしい行為なのかクリスチャンが理解しない理由は、もともとの育ち、背景が異教徒上がりであり、異教神文化、異教徒の食生活、それらが普通の生き方であり、身に染み付いていて、
先祖代々育ってきているから、ピンとこない理解できないのです。
神の教えは何も道徳的なことだけではないのです。
このように神の言葉を理解できないのは、神の教えは人間が考えることとは違うことを、教えているからです。
そして、そのような行為が、疫病、ウイルス、環境破壊、そして体を痛めて病気にし、他者にもウイルスを羅漢させて苦しめる、愛から
外れた行動なのです。神は神が創造された世界の全てを教えているのです。人は神が言われたら、それが真実だと素直に受け止めて、
神が人を守るための教えを教えていると、理解しないとなりません。
普通の日本人でも、悪食をすることをなんとなくおぞましい行為だと
感じるでしょう?普通の人が食べない、ゲテモノを食べる行為。
それと同じなのです。
人の教えに照らし合わせると聖書とはズレることに気がついて下さい。嘘、偽情報に照らし合わせた聖書解説はずれているから、堂々
巡りになるのです。
日本人でも、ネズミ、ゴキブリ、ミミズ、蛆虫が人間の食べ物などと考えないのと同じことなのです。トラーを理解している当時の人達神の教えを理解しているに対して、イエシュアが語っていることなのです。
イエシュアが戒めていたのは、人間の編み出した教え、迷信、先祖の言い伝えに固執して、神の教えを正しく理解しない人への注意喚起なのです。イエシュアはご自分の教え=父の教え、トラーを一点一画も否定しません。
イエシュアが言われたでしょう。神のトラーのどの箇所をもないがしろにし、人にそのように教える人は、天の国で最も無意味、無価値な存在に認定される!と警告しているではないですか。
聖書に記されたことに照らし合わせて、正しく聖書を読み直さないと
真実など見えてきません。
ローマ14章も同じく、神のモアデイム レビ記23章に記された
神の記念日の事などパウロは一言も語ってなどいません!
しかも、パウロは自分の意見を語っていると言っているのです。
神の教えや神の記念日を人間が勝手に却下して良い、いつでも安息日などと神はそんなこと教えない、パウロも一度も神の教えに違反する罪を人に教えてなどしいません。
しかも、パウロは、100%モーセの五書=トラーを支持し、生きていると公に証明している、使徒でもあるのです。
神は神のモアデイムは、命に匹敵するほど重要、神が伝えた通りに
神の教えをガードして生きてと、人に教えているのです。
どの日も〜とは、普通の日の事です。定冠詞が付かない普通の日としてパウロが書いているのです。日本語には、特定の日を示す、Theという言葉がありませんが、ギリシャ語、ヘブライ語、英語には定冠詞があります。翻訳でもそれが見分けられます。普通に日と、神の聖別された日は違うからです。
「この日を主が造られた」と詩篇118にある日は、過越の祭りのことを歌っているのです。日本語では普通の日に聞こえるでしょう。
定冠詞のついた、聖別された神のハグ〜都上りの祭り、過越を喜び讃美し歌っているのです。
神の記念日には全て、定冠詞がつくのです。普通の日には付きません。第一、使徒であるパウロが、神に成り代わり、神の教え、記念日を変える反メシアの思想を人に教えて、人に罪を犯すように指導などしません!
クリスチャンは神の教えに違反すること、それが罪の定義であることを、正しく認識していません。なぜなら、神の言葉を破ることが罪であるとも考えていない、恵の時代、聖霊時代、怒りの神の律法時代は終わったと、聖書に書いてもないことを、信じているからです。
パウロは、1世紀当時の人が考えてやっていた断食の日は、それは
神の教えではないから、それぞれが考える日でやれば良いでしょう
その人が考える日で良い。神の教えではないことを、この日でなくてはダメなどというどうでも良いことで議論は無用、分裂を起こすから無用と、パウロの意見を述べているのです。人間が神の教えや、記念日を変更する事に意見などできません!
人間が勝手に作った記念日には、神は人を呼び出してなどいません。
このローマ14の野菜しか食べない人、肉を食べないという箇所を取り出して、ある人が、ユダヤ人のように古い教えに固執して、なんでも食べたらダメだという古い考えをしている人なのだと解説していますが、神の教えを正しく知らない場合には、パウロの語る内容も
正しく捉えられないままになり、パウロが書いている内容と逸脱した聖書解釈が施され続けているのです。
1テモテ1:6 ある人々はこれらのものからそれて空論に走り、
1:7 トラーの教師たることを志していながら、自分の言っていることも主張していることも、わからないでいる。
1:8 わたしたちが知っているとおり、トラーなるものは、法に従って用いるなら、良いものである。
パウロ、使徒の手紙、書簡は100%モーセの五書、その書の解説の預言書、諸書のみを指して語っているのです。
ここに警告されているように、教師が、トラーをどれほど正しく理解しているのか?トラーが主張していることを、分からないままずれた
聖書を解説を、人間の編み出した宗教の教え、神学に照らし合わせて
解説してしまっているのです。
コロサイ 2:8 あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、
世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。
2:16 だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や
新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。
2:17 これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。
2:18 あなたがたは、わざとらしい謙そんと天使礼拝とにおぼれている人々から、いろいろと悪評されてはならない。彼らは幻を見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに誇るだけで、
この箇所も、神の記念日が変えられた理由として、取り上げられる
ものですが、パウロが警告しているのは「だましごとの哲学」
当時の人たちの哲学、悪霊崇拝、神秘主義、グノーシス主義、禁欲
主義、結婚を禁じる悪霊の教え、その他諸々神の教えではない哲学、人間の教えにより、神の食べ物、飲み物、そして祭り、新月、シャバットを、彼らの考えにより塗り替えたり、彼らが定義するやり方を
指図される事などないと言っているのです。
これは手洗いの儀式同様、そのように人間の教えに振り回される事などありませんと説明しているのです。
どうして、この箇所を、神のモアデイムを祝わないことを、他の人から批判されるなかれなどという、無理な解説、読み込みをしているのですか?神の創造されたモアデイムを汚す事は、罪である!と神が
伝えているでしょう。しかも1世紀当時の人たちは、ローマ教のような、神の教えの土台を塗り替えるようなことは、考えてもいないのです。
レビ記23章にある記念日が神の聖別された記念日であると、理解しているのです。現代の人造宗教の教えで考えているから、聖書に記された事実、記述が、正しく読み取れない、見えていないのです。
この神の創造された記念日は、影です。影とは目に見えないイエシュアの本質を表すものだからです。本体と影の実態は同じ、1つです。
本体が無いなら、影はないのです。目に見えないから、影なのです。
そして、天使礼拝やその他、悪霊に関わる事をやっている人たちの
いう事などに悪評されてはならないと言っているのです。
1コリント16:2 一週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、
いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき、わたしが着いた時になって初めて集めることのないようにしなさい。
16:3 わたしが到着したら、あなたがたが選んだ人々に手紙をつけ、
あなたがたの贈り物を持たせて、エルサレムに送り出すことにしよう。
<この箇所も、キリスト教の日曜礼拝の献金を想像して読んでいるから、事実が見えないのです。パウロは、シャバット=安息日に
金集めをすることは神の教えに反するので、そのようなことは教えません。日曜日が普通の日であり、安息日ではないから、その日に個人個人手元に援助資金を取り分けてと提案しているのです。聖書に書いてもないこと、書いてある意味を勝手に曲げて解釈し、日曜礼拝の
席上献金が書かれているなどと、書いてもない意味を空想している
良い例の1つです。シャバットは、日曜日などではないと、コリントの人も、知っているのです。空想の読み込み、無理な解釈は後を絶たない理由は、人間の思想で、神の教えを曲げて読み込みしているからです。パウロがトラーに反する教えをするなら、パウロをトラーの教師として、招いたり、教えを請うことなどしません!神の教えに違反することを教えるのは、偽教師だからです。>
ガラテヤ3:25 しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、
もはや養育掛のもとにはいない。
<この箇所は何度も書いていますが、養育係=ペデゴゴは、教師の
元に導くお世話役の使用人です。裕福なギリシャ人の家庭にいる使用人。その人の役割は、教師のもとに子供を連れて行くことです。
神の教え、トラーには、神を知らない人が、神に出会うという役割の側面もあるのです。
でも、その役割は人生で1度。イエシュアに出会えば、トラーの
その役割の側面は終わるという意味であり、神の教えが終わりなどと
いう意味ではありません。神に出会った人は、その後、神の教え
トラーを生きる!と神が教えているでしょう。
私を愛する人はわたしの戒め=トラーを愛して生きると、イエシュアも言われた意味はそれです。
第一、神の教えを捨てることを、イエシュア、聖書は無法=トラーなしと警告し、神のトラ〜に反することが、神の定義する罪であると
いうことを、正しく理解しないとなりません。無法、神の言葉を捨てる、破棄せよなどということを、言いたい放題、をやり放題主張しているでしょう。>
ローマ6:14なぜなら、あなたがたはトラー(律法=ノモス)の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。
ヘブル8:13神は、「新しい」と言われたことによって、初めの契約を古いとされたのである。年を経て古びたものは、やがて消えていく。
ヘブル書には、トラー=契約が廃れたことなど記されていません。
この文章も、契約という言葉はギリシャ語原典には存在しません。
この箇所は、トラーが古くなり、新しい契約が出現する話などしていません。シナイ山で与えられた契約以外の神の教えはこの世にないからです。そんな契約書、別の聖書もありません。
ここで、語られている内容は、祭司システムのことです。
地上のレビ族により司れていた神殿での祭司システムは、レビ族で
あり同時にアロンの家系の男子だけが、大祭司であり、祭司達は
レビ族出身者のみです。
でも、イエシュアは何族出身ですか?ダビデの家系です。
王であるユダ族の人が、同時にレビ族の祭司にはならないのです。
でも、天には別の祭司システムがあるのです。
それが、メレキゼデクの位に属する大祭司です。
それがイエシュアなのです。イエシュアは再臨される時は、今度は
王の王、大祭司として地上に戻られるのです。
だから、見えない世界、天の祭司を表す、地上の大祭司は、
本物が来られたら、変わるのです。
神の教えが変わるのではないのです。
代役が本物に引き継がれる日がやがて来るのです。
続く