神が創造された記念日は神の暦であり人間の暦とは異なる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書に記されているイスラエルが通った歴史は、イエシュアの業を体験する一人一人の歴史が書かれているものです。

創世記など、ナレーション形式、歴史の中に起きた実際の事を

物語形式で綴り、語られていますが、そこに書かれている事は、イエシュアの業、イエシュアに出会って贖い出された人々、そして人がどのようにイエシュア出会い贖い救い出され聖霊を受けて生きるのかが書かれているのです。

 

出エジプト記は、イスラエルがカナンの地から、エジプトゴシェンの地に移ったまま、ヨセフ亡き後もずっと住み続け、合計430年も居るべき本来の場所ではない、異教神の地に住んで異教の神に仕える偽物の主人=エジプトの王の下、奴隷になって生きていたイスラエルがそこから脱出する事から書かれています。

ヤコブは2度カナンの地から出ています。1度は兄から相続を父を騙して奪い取り命を狙われて逃げました。2度目は飢饉で、カナンからエジプトへ下ります。

イエシュアも生まれて一度エジプトに入ったのです。人間として

同じように、エジプト=奴隷の国に入ったのです。

異邦人であり、しかも古代にエジプトに奴隷として生きていなかった人達の人生でも、同じエッセンス=要素が教えられています。

出エジプトに書かれている事は、イエシュアに繋がって贖い出され救い出され聖霊を受けてこの地上でイスラエルの神の子として

イスラエルの大家族に加えられた人そのものの人生の旅路とぴったり同じ事が書かれているのです。

 

人は神に出会うまで誰もが別の神々の奴隷であった。私達は生まれた時は既にエデンの外に生まれましたから、神と切り離されてこの世の価値基準や偽の人生目標の奴隷、別ものを一生懸命追い求める奴隷として生まれました。

虚しくピラミッドのレンガを積み上げる事を教えられていたけれど、そのレンガを積み上げる中でも、まやかしの喜びや楽しみを

得ていたのです。偽物の代替えで満足する人生を生きていた。

そして、ある時、神の計画で定められた時に、神が私達にアプローチしてくださり、神と出会う時がそれぞれあったのです。

自分の努力で神を見出したのではない、自分の努力で救いを得たのではない。生ける水=イエシュアは、エデンの園から出た後も一緒に付いて来て下さり世界の四隅に散って閉じ込められた、

一人一人のところに尋ね求めて探し出して来て下さったのです。

だから、自分の努力で救い、義を得るという発想が聖書とはずれているのです。そんなこと人間には出来ないと最初から神が教えているからです。

それがイエシュアの贖いの血=子羊の血の贖いを信じて、救いを信仰により受け取り、奴隷として生きたエジプト=偽の神々の

呪縛、束縛の鎖を切られて脱出させられたたのです。

私達が唯一できることは、信仰により神の業に同意して生きる事

エジプトを出ても、肉体は脱出しても、中身はまだ奴隷の時の

ままです。それは今までずっと神の教えを聞いて生きる体験をしなかったから、自分の思考回路と行動パターンは、イエシュアと共に死んだ以前の自分の記憶のまま生きているからです。

 

古い人が頭から抜けない事実がずっと出エジプトの荒野の40年の旅で記され教えられているのです。神を見ないで事あるごとに不信仰のまま文句ばかり言い続けて、約束の地に入れなかった人々の事が書かれています。

体はエジプトを出てきたのに、自分の中にあるエジプトが抜けない、それが40年の中で様々な出来事を通して神の目から見る訓練、神の言葉を聞いて生きる事をする訓練で教えられている事が書いてあるのです。

福音はエデンの園の最初から同じであり1つであり、救いは1つ

救いというヘブライ語はイエシュアであり、イエシュアは一人しかいない!イエシュアを通して以外誰も神のもとに来る事ができない事は最初から教えられています。

アヴラハムやヤコブの人生を読んでも、ある時まである事柄が

はっきり分からないままであった事が読み取れます。

ヤコブでさえ、カナンの地を出て多くの祝福を神から与えられているのに、自分が誰か分からないまま、ヤボクの橋の前で天からの使いと一晩格闘する場面があります。

あれはイエシュアであったと考えられます。そして腿のつがいを打たれて今までの歩みを全部リセットさせられるのです。

”私を祝福してくださるまで、あなたを去らせません!”と必死、

自分が誰かよく分かってないその部分が分かるまで、あなたを去らせないと言ったのです。創世記32:21-32

皆同じではないですか?私は誰だろう?とよく分からない。

わたしは神に本当に愛されているのかよく分からない。etc etc etc etc

ヤコブはその後、イスラエルという名前を新しく与えられます。

聖書では、名前が変わる事が書かれています。

名前とは、その人の性質、評判、実態を表すものです。

アヴラハムの名前がアヴラムからアヴラハムに変えられた時、

これは翻訳では見えない事実ですが、偉大な父〜全民族の父という意味の父=  アヴ(אב) , 高い、偉大"ラム" (רם) そして、その

アヴラムという名前に、神の性質の一つである文字- ヘイという文字の "ハ" (ה)神のもっとも親しい名である4文字で表される名、のthe "ha" (ה)、この神の名はיהוה‎ 右から1文字ずつ読むと、「ヨッド、ヘイ、ヴァヴ、ヘイ」というヘブライ文字の中で

最も弱い発音の文字で構成される「わたしはある、わたしは、

わたしである」と訳されている神の名です。

 

このヨッドという文字は、本当に小さい文字です。イエシュアが

神の言葉=トラーの中で「一点一画」と言ったのは、このヨッドであり、画とは、ヘブライ聖書で羊皮紙に手書きされるトラーには、文字に飾りがあったのです。一番下に画像を貼りますが、

文字の上に王冠のような飾りの絵が入っているそれが画です。

1点1画も神の言葉は廃らない!そのような小さい文字や飾り文字まで廃らない!とイエシュア自ら教えているのに、人間は神の言葉を塗り替えているのです。

「わたしはある」という名前を考えても、私達は永遠から永遠に変わらずに存在するイスラエルの神が存在して初めて自分が存在しているという事実を忘れるから、神に創造されたに過ぎない人間であるのに、人を全てを創造された神に対して、完全に神から禁じられている事なのに、神の言葉に人間が修正、変更、手をつけたり塗り替えられるものなのだと、異邦人は神の永遠普遍の性質、神の言葉の変化できない性質であるのに、変化するものだと完全に誤解して考えてしまっているのです。

このような人間が編み出した聖書とは異なる誤りの教えや教理は聖書の事実、ヘブライ語の意味、聖書に記されている記述を考えたら気がつけます。

その前に翻訳だけでも、神の言葉はどの箇所も同じテーマで同じ真理が書かれ、創世記〜黙示録は同じ事が書かれて1つで丸ごと完全なる神の言葉であり、福音書〜黙示録には最初の創世記〜マラキと違う教えなど1つも書かれていない。ましてモーセの五書を否定する別の教えなど書かれていないという永遠の事実を頭にしっかり入れて、人の教えで「福音書以降には違う教え!」と教えている、聖書ではない教えをその都度排除しながら読めば、

不敵説な翻訳や、聖書の記述とは異なる解説がされている福音書以降、特に書簡の箇所などに気がつけます。

 

聖書に記された記述は全部私達個人個人の人生と全く重なる内容です。イスラエルだけの教えと考えたら、それだけでイスラエルの神はその人から遠くなります。

現に神の教えは過去の事、他人事、自分には関係ない教えであるとそう信じてそう考えているでしょう?神が呼び出している親しい交わりの聖別された呼び出し日に自分も今呼ばれているなどとも考えていないと思います。

今週の全世界で読まれるモーセの五書の箇所は、レビ記21章から、21:1〜24:23までで、それに付随する箇所は、エゼキエル44:15-31、イエシュアを信じる人は、1ペテロ2:4ー10までを今週読み学んでいます。

この箇所には、神が創造された記念日、これはアポイントメントの日、神が定めて神の子らを神が呼び出している日が何か、いつか、どのように祝うかを教えている完全版の暦がレビ記23章です。

この中に記されている記念日が、神が創造され今もこれからも

永遠に祝われる神の記念日です。

よく、ユダヤ人の祭りとかユダヤ人の記念日と異邦人は言いますが、ユダヤ人=イエシュアの記念日と言い換えれば神が伝える事実が見えてくると思います。

世界では得にユダヤ人しか、神の記念日を祝わないからユダヤ人の祭りとか記念日と勘違いしているのですが、異邦人でもイエシュアを通してイスラエルの父の元に戻った人は、誰でもイスラエルの大家族の一員になった、同じ記念日、祝い、祭りに招かれているという事実が見えていないだけなのです。

 

異邦人という別の群れ=教会、イスラエルとは別の教えを生きる人達であるなどと、聖書に書いてない人の教えを信じるから、神の言っている言葉が耳に頭脳に届かないままなのです。

レビ記23章以外の祭りではない祭りには神は人を呼び出していません。それ以外は、国の、宗教の文化の記念日であり、神が創造されたものではありません。この違いをまず知れば良いのです。人由来か、神由来か。神が人を呼び出している日は必須、

神の子ら全員が招かれている。それ以外はそれぞれの記念日であり神が祝うように伝えているものではありません。

イエシュアを信じる人、イエシュアが地上に来られる前から、

トラーや預言書に記されたイエシュアに出会い聖霊を受けていた

人達は最初から存在しているのです。その連続継続が神の1つの大家族、カハール、エクレシア=神に呼び出された人の群れ!

それ以外のイスラエルの神の家族はありません。

古代の人はイエシュアを知らない救いを知らない聖霊を受けていない人達だなどと考えているから聖書が伝えている事実が見えないだけで、聖書に記されているのは同じ!同じ福音!同じ神=聖霊を内側に受けて生きていた人達の記録がはっきり記されているのです。

神の呼び出し日=神が聖別された定めた日、神の子らが祝う日はレビ記23章に記されています。その中心がシャバット=週の第七日目に祝う記念日です。そして、イエシュアはこのシャバットがどのように重要なのか、どのように祝うのか福音書の中でも何度も話しているのです。「シャバットは人の子のためにある!」

人の生きる中心がこの中に凝縮されているからです。

シャバットの中心はイエシュアであり、そしてその中に集う神の子らのために造られた!と言われているのです。

神が創造されたデザイン通りを生きる!という事がその中心です。それを無視したら不具合があるのです。

 

神の言葉を無視して蛇の囁く嘘を聞いたらどうなりましたか?

今も同じです。蛇の嘘を聞いたら、死が入り込みましたが、急に体は死にませんでした。それと同じです。神が言う事とは違う事をしたら、急には死にませんが、代々長い年月でこの世界には

腐敗、破壊が浸透し、人間が環境が破壊され続けて行っているのです。

最初の問題は、自分が誰か分からなくなる。先ず一番親しい関係の夫婦間に亀裂が入り、神に造られた性質どおりの自分、相手が歪んで見える、神の目から見る通りが見えなくなる。相手を誤解する、憶測で相手を決めつける。そしてその夫婦感の亀裂が生み出したのは、兄弟間殺人です。すごいですよね。

自分の家庭の中で子供達が兄弟殺人をするってどう言う悲惨な体験?それが歴史の最初に起きてしまい、その後ずっと同じ、創世記を読めば、「騙し」の連続であり、妬みと破壊と、壊れた家族偽の自己像を生きて、家族が分裂して行く事が書かれています。

 

今の世界の自分達の事と照らし合わせても同じです。自分が誰かよく分からず、この世の基準や自分ではない憧れの誰か、他人になろうと人生無駄に使って的外れな目標を頑張って、そして家族は亀裂し問題だらけ。問題の内容は度合いは違えど、確実に破壊の方向に向かってしまっているのです。

今や電子機器の発達で、皆携帯と知らない他人とチャットして

架空の世界の関係に向き合い、人と人が顔を合わせて会話して

神がデザインした人間らしい生き方がなくなってしまった。

シャバットは、神が設けたエデンに戻る修復の鍵があるのです。

止まる!神が止まったからそうする!人間は神が言われる通り

デザイン通りをするのが本来の性質であるからです。

それを無視して暴走続けるのです。

神がそう言われたらその通りにする。

それが本来の人間の生き方です。

神の定めた日に神は特別な方法で私達と出会ってくださると神は約束して下さいました。

それが目に見えて分からないものであるのです。

シャバットに、空にいきなり天から打ち上げられる花火など見えません。空気が変わったり、空の色が変わったり、五感で体感するものではないからです。何も変わらない日。でも神が聖別された日に神が伝えている通り止まり、この日を人も神と同じく聖別し、異邦人ならば極力余計な仕事や用事はしないで、止まる。

働かなくてはならないシフトになったとしても、24時間の中でシャバットとして過ごせる時間はあるのです。そして家族と仲間と過ごし神の言葉を学び考え楽しく過ごす日なのです。

 

続く

神の言葉は一点一画も廃らない!このような飾り文字に至るまでという強調を込めて、イエシュアも神の言葉は永遠普遍であると人に教えました。

 

神の定めた聖別された神の子らを呼び出している中心はシャバット。全部の祭りの中にはシャバットが入っています。

祭りの始まりと終わりは曜日に関わらずシャバット=止まる日として祝うからです。真ん中でショーファーを吹いているその中に

シャバットと入れます。一年のサイクルは円。ヘブライ思想は円

永遠から考える。歴史線上に見るのは西洋思想であり、神は永遠の中からどの時も変化なくどの人にも同じようにアプローチし近づいてくださるのです。