神の教えと人の作った教えの違いは何? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1コリント5:6-8、11:20:29はイースターの祭りことを教えているのではなく、「過越の祭り」を祝う心がまえのことが記されている箇所です。

 

聖書にはイースターなどと言う異教女神の名が付く祭りは書いてありません。クリスマスも、レントも聖書にはない教えや言葉であり、カトリックが聖書が閉じられた後に作ったものです。

神が聖別し神の子らを呼び出している記念日ではありません。

 

今の時期は、神の暦では、シャヴオートまでの、「穂を数える

7週間」であり、復活のイエシュアが人々の前に現れたのと同じ

期間ですが、クリスチャンの間では、カトリックが作ったレントやアドベントを数える日を教えられて過ごしても、聖書にある

教えは教えられないし、実践されません。

 

復活の命を祝う日は、過越の祭り種無しパンの7日間の真ん中で

ずっと最初から祝われている神が創造された聖別した「初穂」の日の記念日があるのです。

アダムとハヴァが神の言葉を無視し、罪=ズレが全人類の中にはいりましたが、呪われたのは、人ではなく大地であると神が言われたように、その呪われた大地から、新しい命=初穂=イエシュアを表す大地の収穫大麦の収穫の初穂を捧げることで表している記念日です。人は土=アダマから造られた、その元の創造を修復している事を教えている内容でもあります。

その初穂に連なる新しく生まれた人=復活の命を頂いた人が

次の祭りまでに初穂に連なる事実を考え生きて、シャヴオートをの祭りを祝うと福音通りのデザインを神が教えているのです。

 

神の祭りは全て歴史の中で起きたこと、イエシュアの業を表しているものです。秋の祭りはこれから起きる再臨の一連を表しているものです。

2024年の過越の祭りは4月22日から7日間でした。

神の暦は、西洋暦とはズレているので、神の記念日は西洋暦では毎年違う日、違う曜日になります。詰まり、聖書の第一の月の15日、第七の月の15日とは、グレゴリオ暦では、毎年別の日、別の曜日になるのです。だから、イエシュアが復活されただろう曜日も毎年違う曜日になるので、毎年日曜日が復活された日ではないのです。しかも、過越の祭りの日に処刑され、種無しパンの真ん中にイエシュアが復活したのです。

シャバットだけが、曜日がいつも同じ!週の第七日目であることは永遠にずっと変わらないのです。7で表される完了、完全を表す意味はこのシャバットと祭りと神の修復の業、神の暦でも表されているのです。1ではない、7で表さられているのです。

過越は春の最初、第一の月の15日から始まるからです。

その時期から7週を経ると、シャヴオートの祭りになります。

 

イエシュアも1世紀の人々も「過越の祭り」を春祝ったのです。

聖書を知っている、身近であると考えていたとしても、1世紀

当時のユダヤ人、そして少数の異邦人達が知っていた、生きていた内容と、今のそれとではだいぶ内容が変えられてしまっている事に気が付いてみて下さい。そして、どこでどう誰により、神の言葉、教え、記念日が変えられてしまったのか?と言う疑問、

質問を投げかけて、聖書に照らし合わせて考えてみて下さい。

聖書には、永遠に変わらない事実が永遠の証拠として記されています。

神が人に神の言葉、教え、記念日を変えてはならないと警告している事をまず理解しないとならないのです。

人が神の教えや言葉を変えた!!!それに気がつくには、神が伝える永遠の真実、神の言葉、聖書に基づき考え始めれば、永遠の真実が見えてきます。神の言葉を否定、削除、破棄するという思想がどれほど聖書とはズレた別の教えなのか分かるのです。

 

異邦人の中で浸透したものは、西洋人が作った宗教の教え、文化

記念日、習慣であり、聖書とは異なるものがふんだんに盛り込まれています。神の言葉に人の教えを混ぜたもの、神の言葉を勝手に人間が変えてしまった事によるのです。

イエシュアの血=子羊の血で贖われ新しく生まれ聖霊を受けて生きることに移行した!それはエデンの園から、同じであり、誰でも信仰により義とされ新しく生まれかわり聖霊を受ける事実があったのです。その事実はあっていますが、その後の教えが、聖書とは異なることをたくさん教えられてしまっているのです。

そして神が命じてないことを神が人にやるように命じていると

勘違いしているのです。

異邦人は神が命じていることをすることをやめて、人が考え出したこと、神ではなく人が命じていることをしていると気がついていないのです。

パウロはどのような心構えで「過越の祭り」を祝うかはっきり記されています。

1コリント11:20-34に記されているものも、同様に「過越の祭り」の中で行われる主の晩餐=セダーの晩餐の事をパウロは話しているのです。この箇所を、西洋宗教は、「過越の祭り」を祝う中で行うものとは違う、「タネありパン」で毎月日曜日に行うもの〜聖餐式という名前で呼ばれるものに変えたのです。

 

よくよく聖書をその通りに読んでみれば、パウロが教えているのは、過越を祝う心構えなのです。そして過越の晩餐を祝うとは、出エジプト、福音の中心、奴隷から贖い出されて荒野に連れてこられて、約束の地を目指して生きる、贖い救い、福音の内容を、皆が一致して意味のある食べ物を1つ1つ食べながら、出エジプト6:6-7神が語られる意味を4つの杯を飲みながら、長い時間かけて、皆で再現し話し合い交わり祝うのに、それぞれが勝手にバラバラに祭りの主旨、意味を忘れて飲み食いしているとパウロが

警告しているのです。

 

聖書の記述だけに基づき考えると、1世紀もイエシュア昇天以降全く同じように、ユダヤ人も少数の異邦人信者達もトラーを生きて、神の記念日、レビ記23章の神の暦に記された神が神の子らを呼び出している記念日を祝っていた事しか、聖書には書かれていないのです。

1つの大きな誤解は、イエシュア昇天以降、異邦人主体の新しい

群れ=教会というものを初めて作りしたという聖書とは異なる教えです。そして、モーセの五書が終了し、新しい教え=モーセの五書とは違う別の契約書を受け取り、今までに無い聖霊時代になったという空想ファンタジーの世界を教えられているのです。

 

最初から神=聖霊は人の中に住まう、エデンの園の最初から、永遠の中に屠れられた子羊の血で贖われた人〜残りの民〜この世の礎が造られる前から永遠の中に神の中に選ばれていた人が存在していることが聖書には書かれて実際に神のミシュカンを通しても教えられているのです。

これは、エデンの園から存在する、イスラエルの神の1つの家族

「カハール、ケヒラ、エクレシア=神に呼び出されて応答した人々の群れ」聖書には、これ以外の別のイスラエルの神の家族など存在していない事実を先ず知る必要があるのです。

翻訳トリックで福音書以降には「教会」という別の群れが出現し、それらの時代の人はモーセの五書を終わらせた教えを生きて聖霊だけにより生きる新しい時代になったなどという、創作空想の教理で教えられていますが、聖書にはそんなことは1つも書かれていません。

イエシュア=聖霊=言葉であり、言葉=神は永遠に変わらないと

書いてあるからです。イエシュアも申命記を引用しサタンの大御所に対して、「人は神の口から出る1つ1つの言葉により生きる。神の言葉=トラーにより生きる!」と対決した通りのことを

神の子らもすると教えられているからです。

 

聖書が閉じられた後の4世紀までの300年という長い間に一体何が起きたのでしょう?

ユダヤ人はイスラエルから追放され、地下に潜伏、ユダヤ人イエシュア信者のことは全く語られることはなくなりました。

でも、過越の祭りを祝う人なら分かることがあります。

前にも解説したように、過越の祭りは1世紀イエシュア達はパリサイ派の流儀で、リクライニング式の日本のように床に置く低い四角いテーブルを囲み、お金持ちのように寝そべって「過越の晩餐」をしたのです。

そして、今もユダヤ人の中で祝われている過越の儀式の中で、

種無しパンを3つに重ねて、真ん中を砕き、その砕いたものを隠して、晩餐の儀式の最後に子供たちが探し出すというゲームが

組み込まれているのです。

隠されていた、復活のイエシュア、そして最後に再臨される!というメッセージが込められているのです。

その砕かれたマッツアは、「アフィコメン」と呼ばれ、ユダヤ人ラビたちはそれを「デザート」と言っていますが、それはギリシャ語で「わたしは来た。」という過去形で1度だけ行われた行動を表す言葉なのです。

 

クリスチャンなら分かるでしょう。この真ん中のマッツアは、

砕かれた体〜イエシュアを表し、マッツア自体もフォークで穴を

指しているものです。「あなたがたのために砕かれるわたしの体」とイエシュアが弟子達と共にされた最後の過越の晩餐で行われたことが、ユダヤ人イエシュアにより継承され続け、それが今も過越の晩餐の中で行われ続けているのです。

このように、イエシュア信者たちはイエシュアのことを「過越の晩餐の儀式」を通しても教えていた痕跡があるのです。

 

その意味は、奴隷=エジプトから脱出し、自由の身、神に再び繋がれる天の祭司の家族の一員となったことを意味するのです。

王家の人々のように食事をする。リクライニング式テーブルで

過越の晩餐を祝う。偽の主人=サタンから解放されて、神に繋がれ王家で食事をし晩餐をし祝う!

イエシュアがされた過越の晩餐の儀式も、出エジプト6:6−7の中に記されている事実を巡って、それにちなんだ食べ物を食べ

奴隷から贖い出された事実、神の子羊の代価で買い取られた事実を夜を通して語りながら食事をしながら過ごす、それが過越の晩餐なのです。

クリスチャンの世界では、過越の晩餐でされる儀式を「聖餐式」というものにカトリックが変えてしまい、そして、種無しパンをタネありパンに変え、種無しパン=イエシュア子羊の血で、罪がそぎ落とされた人にされた事を表しているのに、それを変えて、過越の晩餐を祝わないで、普段の月の普段の日日曜日にイエシュアが祝われた過越の晩餐の中で祝う儀式をするように変えたのです。

そして、種ありパンを食べたらキリストの肉に、贖いの杯のワインを飲んだらキリストの血に実際的に物理的に変わるなどという空想話を作ったのですが、それは聖書ではありません。

それら種無しパン、贖いの杯のワインは、実態を物理的に表すシンボルであり、実際にイエシュアの肉や血になるものではありません。

なぜなら、人の肉、血を食することは神の教えに反しているものだからです。

ローマ皇帝は、太陽神を信仰する異教徒でした。彼は彼の帝国、ローマ帝国が多くの人の支持を得ながら拡大して行くことを目指していました。

「尊敬に値する太陽の日=日曜日」これが当時のローマ市民大衆の地場宗教だったのです。ローマ皇帝がマクセンティウスを倒した時に、コンスタンチン皇帝が、空に二つのギリシャ語のシンボルを見てそれが彼に勝利をもたらしたのはキリストであると確信したという話があります。

キリストが勝利をもたらしてくれたので、ローマ帝国はカトリックの教えの下に治められるべきであると、カトリックを国の宗教にすることが決まったのです。

このような事がある背後で、当時もイエシュアを信じる人々の間では、色々と意見が分かれていたのです。

今までのように、イスラエルの神の教え=トラー=モーセの五書に書かれた教えの通りに生きるのがよいのか?

それとも、ユダヤ的な要素のある教えを一切排除するのか?

2世紀には、まだシャバットを第七日目に祝ってた多くの異邦人もいたのです。

でも神のオリジナルの教えから離れるのはいとも簡単なことです。

1異邦人は元からモーセの五書などよく知らない

2異邦人は先祖代々、モーセの五書に記された教えなど誰も教えられていない、生きていない、馴染みがない。

3それなので、何が神の教えなのかもよく分からない

という背景があるからです。

 

ローマ皇帝は、異教徒であり、異教徒の習わし実践をそのまま神の教えに混ぜ続けて、継続し続ける事にしたのです。

日曜日は太陽神=サン=日曜日が、尊重される日なので、その日を礼拝日にしようと決めたのです。

太陽=太陽神=サン=サンデー=だから日曜日なのです。

そして、彼らは、異邦人の考えた教えのもと、農業に関しての

作業だけは、日曜日に自由にしてもよい、都市や町中に住む人は、他の仕事は日曜日はしないで休むと決めたのです。

 

休む=止まるというコンセプトはシャバットですが、日曜日は

神の暦とはずれています。皇帝の日=太陽神の日を復活とひっかけて日曜日にしたのです。

復活の日時は不明です。土曜日に復活したかもしれない、それはどの時間に復活しても、神の記念日は変更にならないから関係ないのですが、クリスチャンは復活を記念して日曜日と考えるけれどそれは神の命じた教えではないのです。しかも、過越の祭りの間であり、シャバットの準備とは過越の祭りの最初の日シャバットの準備なのか、第七日目のシャバットなのか不明なのです。

 

シャバット=神の創造の業の完成の中で全てが完結している、

永遠の中に完結していることを教えているからです。

 

このように、ローマ皇帝コンスタンチヌスという時に権威者が

国の法律に定めて、神の永遠であるシャバット=第七日目を

変更した!それが事実であり、ローマ帝国に生きる人は、皇帝の命令に逆らう事はできないので、異邦人は聖書ではない教えに

流れて行って、完全にユダヤ人と、神の教え=はじめの愛=シナイ山で与えられた婚姻契約=モーセの五書をなし崩しにする教え

宗教の教えに流れて行った、それが歴史の中で起きた事なのです。

一つ聖書=神の言葉の事実からはっきり認識しなくてはならないのは、イエシュアがどの日に昇天されようとも、週一度の神が創造の最初から聖別されたシャバットは変更になりませんし、神が創造された聖別した呼び出し日を人間が変更してよいなどと神は1度も言ってなども、人に命じてなどもいません。

どの日に集まろうと、それが神が聖別した呼び出し日ではなければ、人間の主旨、意図で、他の目的で集まっているだけで、神が人を呼び出して聖別した日ではないのです。そんな簡単な事実さえ、聖書を読んでも人の教えや伝統に遮られ、神の言葉の事実が読み取れなくなり、神が伝えるその通りの意味が通じない、聖書の事実を話しても通じなくなって、異端の教えだと思われるのは、このように歴史の中で人が変えた神の教えのせいなのです。

 

聖書でいう異端、別の福音とは聖書には書いてない教えのことである!ということを覚えておく必要があります。

 

誤解する原因は、神の言葉を人間が変えても良いという教え、

その権威がペテロに与えられたとか、今の時代は神の言葉が廃れた〜それは、神の言葉を捨てる人の中では神の教えが廃れて、その人には通じないままいるだけで、神の前、神の中では神の教えは同じ!と人に教えていることに気が付かないでいるだけです。

 

続く