神が時を造られて、そして天の万象は神の”定めの時”季節のために造られたという「季節」という言葉は、神のアポイントメントの日〜聖別された記念日、神の子らを呼び出している「会見、祝宴の予約日」を意味する「モアディム」という言葉です。
1週間を、創造主が7日間として造られたように、神が創造の業を6日間で完成されたように、人の活動は、日曜日から始まり、金曜日の日没迄、7日目を迎える時になると、体も心も止まるモードになります。
それが神がデザインされた人の成り立ちだからです。
花金という言葉が、かつてありましたが、金曜日日没には、神の記念日、シャバットを歓迎して迎えるモードになります。
体も休むモードになり、心もウキウキします。
止まるとは体が止まるだけではなく、シャバットは神の安息〜
神の中に住まう状態を取り戻す、思い出す、混沌、混乱、不安ではなく、周りの状況に関わらず今神の中に居る、住まう、神が自分の内側に共に住って方時も離れずにいる事実に安息する事を
皆で特に励まし思い出す時なのです。
神がされたように、人も第1日から第6日の間働いて、7日目に止まる!と神が人に説明しています。私達異教の文化は、聖書〜
イスラエルの神が伝える人間の生き方から遠く遠く離れてしまった世界に代々生きて来ましたから、全て聖書に書かれた事は異物の世界、異質、無縁の思考回路、生き方です。
書いてある意味に注目して下さい。神のデザインは7という数字
完全、完了を巡りされています。そして神の記念日も全部7が
テーマです。シャバット、過越の7日間、シャヴオート迄の7週間、秋の祭りの仮庵も7日間、これはイエシュアが人の朽ちる体の中、地上の仮庵の中に既に共に住まう事を教え、そしてやがて永遠の時の中イエシュアと共に住まう事を教えているものです。
7年目のシュミタ年、7年を7回繰り返すヨベルの年。
全部同じ7をめぐりデザインされています。
聖書に記された古代の文化は、農耕に密着していて、神の教え=言葉の解説でも分かるように、人が生きる基本を神の創造された世界、自然、農耕の世界から解説しています。
私達現代の生活、生き方は、聖書のそれとは遠く離れた世界、文化に生きています。古代の労働は、直接目に見える形で、自分が口にする食べ物、作物を育て、家畜を飼育し、生活の糧を直接自分の手で育み育てるものでした。自分の労働で作物が動物が成長するのを見て直接その成果を口にして味わう世界です。今は、私達は給料明細や銀行口座で見る数字で、労働の糧を計ります。
古代は直接、自分達が食べるものを生産してそれにより、命を支えられる事を体験した世界なのです。
イスラエルの神が創造されたこの世界、全ての命は「物理的」に造られました。そして全ては地の面、エデンの園の中に置かれました。聖書の最初、創世記の最初の3章の中に、聖書で語られるテーマ、主題、内容が凝縮されて書かれています。
そして、簡単に言うと、その後に続く聖書全体で、創世記の最初の3章のテーマを解説しているのです。神は「人のために」世界の全てを創造された事が聖書には記されています。人が神の中に、神の性質に一番似せられて造られた、神の性質、栄光を
反映して生きる存在、神の性質=エデン=喜び=神の中に住まうように造られました。聖霊=神が内側に住まう。神という概念もバラバラに分けたら見えません。どの名で呼んでも、1つ同じ神!なのです。聖霊と神は別ものと考える、イエシュアと聖霊が別物と思う思考回路では見えない、神がエハッド=1つ以上で全く一つと紹介している摩訶不思議理解不可能な事を信仰により受け取らないとならないのです。
喜び、歓喜、感動が壊されたのは、神のデザインとは違う事が忍び寄り、それを取り入れてしまったからです。その原因は、人が神の言葉=神ご自身を疑って、神の言葉ではない蛇の混ぜ物の声、指導、提案に耳を、頭脳と思考とを傾けて蛇おすすめの生き方、行動=神の言葉を薄める、曲げる、果ては退けるという事を選ぶ選択をしてしまったからです。それが人類に罪〜神のデザインとは異なる歪み、別物を取り入れて、その結果「死」が人の中に入り込み、肉体も朽ちるものになってしまったのです。
この最初の部分をよくよく、考えてみると神が色々な事を人に伝えている事を発見します。体が「死ぬ」とは分かりますね。不思議な現象です。「息」が取られると人は死ぬ。その人ともう話せない、超えられない場所に行く。人は神に直接神から「息」を吹き入れられて「生きるものとなった」とあります。
土=アダマの素材から造られた。人間も動物も全てのものの土で
出来ていて、土に体は死ぬと帰ります。
死とは、何も体だけの死を意味するものではないです。神の言う
事を疑い、神の言葉を曲げたから、神が伝える意味どおりが見えなくなる、神と霊的な深い関係に隔たりができてしまった。それだけではなく、人間の中で一番親しい関係=夫婦に亀裂が入り、相手の本当の姿、性質が見えなくなってしまいました。
死とは、神を、自分を、お互いを正しく理解出来ない、見えなくする隔たりでもあります。
それ以前に、アダムとハヴァは自分が誰かを忘れたでしょう。
神の似姿に造られているのに、神に愛されている存在なのに、このままでは何か足りない、何か付け足ししてやらなければいけないと蛇にそそのかされて、偶像礼拝、律法主義の根、何か自分の努力で付け足さなくては認められないという意識を生み出す思考回路が生まれたのです。
人はこの土=アダマから肉体が造られました。霊とは、神の息、「息」ヘブライ語では「ルアフ」とは〜霊、風、息などという意味がありますが、この土の器に神の性質を吹き入られて生きるものとなったのです。
人が生きるとは、神の性質を反映して生きるように造られています。だから生きることはキリスト、その生きる姿の詳細、内容は神の言葉=トラーに記された生き方!だから人は神の口から出る1つ1つの言葉で生きる!と教えられているのです。ヘブライ語では、奴隷も、使用人も礼拝者も同じ1つの言葉エベッドです。生き方により、それが変化してしまう事を教えられているものです。
人は神の性質である本来創造された性質からズレてしまい、トラー=神の教え、インストラクションが記されているモーセの五書に記された事とは異なる、ズレた生き方をするようになってしまったのです。
今日のトラー朗読箇所は、レビ記25:1-26:2ですが、神が人に伝える、〜しなさい、するべからずは、神が創造された本来の人間の性質=神の性質通りを生きるように造られている、その生き方を教えているものです。読んでみれば分かりますが、異邦人が考えて聖書を解説するように、神の教えは何も複雑、難解、ましてや神が人を奴隷のように縛る教えなどでは全くない!!人が神の性質に似せて造られた事、その生き方の詳細を神が教えているものなのです。人を縛る教え?人が生きられない律法?そんな事など聖書には、1つも書かれていません。神の教えを聞いた人が神の教えを気に入らない!という事はあってもそれは神が間違っているのではなく、人が神に異議申し立てをして傲慢で無知な状態の思考回路だからです。なぜなら、聖書には神が創造された人間の性質、生き方の全部を解説しているものだからです。そのように機能する、機能できる!マニュアルに書かれた事で、機能しない部分があるのでしょうか?ないですよね。まして神が書かれたマニュアル、神が創造した人間はこのように生きます、生きれます=罪にずれた人が再びイエシュアにより回復され新しくされたから!と書いてあるからです。
聖書とは異なる異邦人異教徒の教えような考えをする教えの大元は、偽のイスラエルの神像〜怒りの神が2000年前に恵の神に変身、怒りの時代が恵みの時代、律法時代から聖霊時代へなどと
人間が考えついた神学を根拠に考えているから、神の言葉に対する警戒とまで言える敵対心を植え付けられて、完全に神の言葉を誤解しているのです。神の言葉は全て100%人の命、健康、安全、シャロームを守るために与えられているのです。
聖書に書いてある意味どおりに学べば、神のシンプルで、深い配慮、愛情に満ちたお方である事が分かる内容です。人に取り危ない事、危険な事を創造主が教えているだけなのに、人は全く誤解して、悪意敵意までをも感じる程、自分の楽しみを奪う要らない律法だ!などと愚かな事を言っているのです。誰が人間を造ったお方か忘れて、自分が神より上だと無意識に考えているのです。
人間は創造主が造られた世界、実態を創造主と同じには、いや全然知らないのに。
神が神の言葉で人を縛り、人を試したからだ!などと蛇の嘘を伝え続けているから、神が伝える真実=深い愛の教えが見えないのです。もしあなたが親なら自分の子に取り、何が危険で、何をしたら良くない事なのか、何を人としてすべきなのか、何を食べたらよくなくて、何をしたら健康に悪いのか、何が人としての生き方ではないのか、自分の知識のありったけで、一生懸命子供に、同じ様に教えるのではないでしょう?その知っている知識が、
神の言葉が正しく完全で永遠に変わらないと分からない場合、
神の教えを知らない場合には、神の教えとずれているのですが。
そして、神の子らの大家族のコミュニテイの生き方は、神が伝える人間に伝える、人が生きる性質を生きる、これは、神の契約、ブリットに記された生き方に徹する責任を負って、お互いをガードし守り生きる、神の大家族の中で、シャローム〜欠けのない状態を保って生きる事を教えているものなのです。
神の言葉、仰せは永遠に変化しません!人間が神の言葉、教えを捨ててお互いに違反し合い、傷付け合い、神の目から見ておぞましい汚れた生き方をして、自分を他者を破壊し続けている事をしている、これが歴史の中でずっと繰り替えされているのです。
異邦人の中では意識にも上らない、クリスチャンの中で聖書に記されている神の教えが実は余り知られていない、教えられていないのは神の言葉が終わったとして、聖書を書いてある意味どおりに正しく学ぶ事がされていないからです。
でも神が教えている重要な事が、永遠普遍の神の言葉=聖書に記されているのです。
聖書は福音書から始まったのではありません。福音書は、モーセの五書=シナイ山で与えられた婚姻契約とは違う、新しい別の契約書ではありません。聖書の最初の箇所=モーセの五書が聖書の絶対的普遍の揺るがない土台であり、その中にこそ人の生きる上での全ての教えが記されている箇所なのです。聖書全部はモーセの五書の解説なのです。その箇所に書かれている神の教えが、昇天以降変化した!という、土台を揺るがせる異邦人が編み出した教理、宗教の教えで、神の言葉の真実を1900年近く、覆い隠してしまっているので、そのような人間が考えついた聖書とは関係の無い教えをまず全部どけて、神の言葉を直接読んで、神の考えに直接触れる事をし直さなくてはならないのです。
福音書は、聖書の最初、モーセの五書、モーセの五書を解説する預言書、諸書を解説する補足の箇所であり、最初の箇所を覆す、別の新しい教えなど書かれていない事実から、絶対にズレないで聖書を読み直す必要があるのです。
神の言葉は命を生み出す種、命の源です。その種=命の元を捨てたら作物実りはありません。同時に遺伝子組み換えのように、神の創造に人が手を加えたものは人の体、精神、魂、全存在に破壊的なものなります。
それと同じく、神の言葉を捨てたら、それは破壊をもたらす以外のなにものでもない事になるのです。もう今は神の教えは廃れた〜という異邦人創作の教えは、聖書〜イスラエルの神、創造主から出たものではなく、エデンの園を這うあの敵対する動物が源の囁きなのです。
神の言葉によれば、神の教えは、時代ごとに変化、進化、又は
ある部分が廃れて破棄されるものなど1つもない!と言っているのです。
永遠の中に屠られた子羊の血の贖いが既に創造の最初の最初からアクセス可能!手に入れられる、存在した上で、全てが人の為に物理的に地上に現れて神のデザインどおり〜エデン〜喜びを生きるように造られたと書かれています。そして、神の子ら異邦人含めて、この世界の礎が造られる以前から選ばれていた!神の中に存在していた!と書かれています。
だから、2000年前に、初めて救い=イエシュア、子羊の贖いの血で、人が許され新しくされ聖霊を受けた!という異邦人の考えから編み出された教えではなく、最初から、永遠から同じ福音同じたった1つだけの救いの方法=イエシュアを通して以外誰も父の元にくる事など出来ない!という神が伝える事実、真実に立って考えないと事実は見えないのです。嘘に照らし合わせても、真実は見分けられない、神が伝える真理、真実に照らし合わせて、初めて神が伝える真実と、人の作ったまやかしの教えの区別が可能になるからです。
続く