聖書とは異なる別の教え福音は聖書に基づき識別する | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

異邦人は「別の福音」「間違った教え」と聞くと、即座に古い教え=律法=モーセの五書を生きる事に戻る事を教える教えだ〜

などと考えるのではないかと思います。

 

神の言葉は完全で誤りなく、永遠普遍なのです。それなのにどうして神の言葉が誤りや間違いで、ましてや神の言葉が悪いものであるとしているのですか?もちろんそのようには、クリスチャンは直接言いませんが、実際はそのように神の言葉を取り扱い、

古い教えは廃れた〜不要だ〜破棄された〜と言い続け、殆どの異邦人クリスチャンは人の教えを神の教えと信じて、神の教えを捨てている事に気が付いていないのです。

 

この箇所、あの箇所、自分に都合の悪い事、自分に気いらない教え、受け入れたくない教えは、古い教えで廃れたから関係ないのだと捨てているのです。

だから、今や牧師や教師やリーダーまでも、LGBTQ容認、賛成!それが愛などと、神が語る愛を勘違いしているのです。

神の語る愛とは、契約=モーセの五書に記された生き方を生きる事の中に実現し、それが互いの命を守る唯一の道!と教えているのに、愛とは罪も不義も汚れもなんでも受けいれる事などと誤解しているのです。

そして、神が教える聖別の定義、生き方など、異邦人の世界では

まるで認識されていません。

 

悪いのは、人が神の言葉に対して取り扱う方法、向き合う方法、理解、やり方、意識が間違っている!と言う、人間の側の思考、行動がずれている!自分の手柄で、行動で神の前に義とされる、認められよう、そしてお恵みたくさんもらおう!そのような思考回路のことなのです。結局異教の宗教と同じ、神との関係ではなく、何をもらえるか?のご利益の世界。倍返し〜などというのを聞いたことがあります。

それが律法主義であり、神の言葉が律法主義で悪いなどととんでもない勘違いをしている事に聖書からまず気が付く必要があります。

異端の教え、別の福音、人間の伝統の教えとは、神の教えではない、詰まり、聖書=モーセの五書=父の教え=イエシュアが教えられた教えとは違う教えの事を指して聖書では、話しているのであり、自分の見聞きしていない、馴染みの無い教えのことではないのです。異邦人など神の言葉は捨てれたと信じているから、神が人に伝えている永遠普遍の言葉、教えを聞いても異物に聞こえるのです。

間違った聖書概念、聖書観念が異邦人の世界で2世紀以降継続的に広がり続けてしまい、今に至ることを多くの異邦人は知りません。1世紀当時の人たち、イエシュアが教えて生きた教えと遠く遠く離れているのに、気が付いていないのです。黙示録2:4の警告どおりの生き方です。聖書を読んでも分からない。なぜなら、聖書に書いてある意味通りに読んでなどいなからです。

簡単に分かりやすいことでは、安息日は日曜日!と読んでいるでしょう?そんなこと聖書には1つも書いてないのに。宗教の教えと聖書とは違うのです。するなかれ!と書いてあっても今は

許されている!などと勝手に解釈して言い続けて実行しています。それらは、異邦人にとっては、元々異教の文化に生きているので、普通に馴染みのある生き方だから、その方が馴染みあるし違和感がないのです。

とにかく神の言葉=聖書に戻って!正しい理解に軌道修正する人達が30%以上、それ以上増え続けて行けば、間違った意識は覆されて行くのです。

 

書きたい内容は多くあるのですが、1つ1つ掘り下げて深く書けないかもしれません。ユダヤ人のラビ達も、イエシュアの語られた教えが素晴らしいトラー解説であると気がつきながら、どうしてイエシュアを救い主として認識し、信じないのだろう?どうして、こんなにイエシュアに対してユダヤ人の多くが敵対心を持って来たのだろう?と思いませんか?

その原因の1つは、聖書に書かれた救い主に対して敵対心を持ち抵抗をしているのではなく、異邦人達が語り実践している、歪んだイスラエルの神像、曲げられた神の言葉による要因が大きい!という事に気が付いてみてほしいのです。イスラエルの為に祈ろうと純粋に考えるなら、今一度、聖霊=神の言葉=イエシュア=神そのものである言葉に対して異邦人が語り続けた聖書とは異なる思想に気が付く必要があるのです。そして、異邦人が考えついた宗教の教えではなく、純粋に神の言葉に戻り、真実を語り、生きるという事に戻る軌道修正を、異邦人もする必要があるからです。

イスラエルが救い主を受け入れないと批判するならば、なぜどうして、イエシュアが教えられたのは、モーセの五書とは異なる

新しい教えなどではなく、モーセの五書=父の教え=トラー婚姻契約であると異邦人は気がつけないのでしょう?

同じく盲目なのです。

 

偶像満載の宗教の教え、神の言葉や記念日を変更したものは、

ユダヤ人に取れば、それは人間が作った神の教えとは異なる別の宗教でしかない、神の教えを捨てて、そのような人間が作った宗教の教えを生きる事に改心しなさいと言う方が絶対に無理なのです。だから、全ての人が正しい軌道修正=聖書に戻る必要があるのです。

神がシャバットを命に匹敵するほど大事であり、永遠にガードするものと神の子ら、異邦人含め全ての人に教えているのに、神のシャバットを捨てよ!と言われ、そして、神の諸々の教えを捨てよ!などと言われて、汚れた行為をする事にどうして、神の言葉教えの意味、聖別の意味を理解する人がそんなことができようか?という事なのです。

 

全ては聖書=永遠普遍の神の言葉に照らし合わせて、それとは違うこと、聖書に書いてない人が作った教え〜それが神から出た教えではない異なる教えなのです。神の言葉=聖書は完全であり絶対であると異邦人は言いながら、どうして同時に神の言葉が2000年前に廃れた、無用になったなどと同じ口から告白するのか?

不思議でしょう。矛盾だらけで支離滅裂な思考回路。その理由は、聖書ではない人の教えを信じて、福音書以降に初めて新しい教え、新しい救いの方法、新しい福音、怒りの神から恵みの神へ、怒りの時代から、恵みの時代へ、律法時代から聖霊時代へと

変化したなどと、聖書に書いてない人の教えを教えられて、そう本気で信じているから、神の言葉は永遠、完全と言いながら最初の部分が廃れた!と言っても違和感ない。それは聖書に基づいて正しく考えてない結果なのです。

神が1度でも永遠普遍!と言われたらそれは永遠普遍!と理解していないからなのです。神には異邦人が主張するように、移り行く影も変化もない!と伝えているのに。

 

もし、聖書=神の言葉が異物、変化する異なる2つの別の福音や

人種や時代により2つの救いの方法があると言うならば、神の言葉は最初から信頼に値するものではないということに気が付いて下さい。変化する、移り変わるものに信頼など出来ません。神は偽らない、偽れない、嘘をつかない!と人に宣言し言われたのです。永遠普遍である神の性質と、神の言葉と人に紹介しながら、歴史の途中でそれを変えた!などと言う神は嘘もの、人由来の作り物の神であり、嘘の教えなのです。

それらは人間が勝手に解釈して決めた教えに過ぎません。

 

異邦人の世界では、聖書に書かれてもいない教えを、書かれているかの如くに語り、そのように教えられているから、神の言葉が

永遠から永遠に変わらない、福音は1つ、イエシュア=救いも

1つ、救いの手段も1つである事を聖書の事実、記述、神が伝える教えを知らないからそう考えるのです。

 

神の造られた世界、見えない神の性質は創造物を通して現れ出て、示されているから、神の見えない性質は創造物の中にクリアーに見える!神が存在している事が分かるから誰も神を知らなかったなどと言い訳、言い逃れが出来ないとあります。

詰まり、どの時代の人も神は同じようにアプローチしているのです。そして、歴史の中でも分かるように、神の教え=トラーが世界の四隅に伝えられていた証拠もあるのです。中国の漢字の中には神のトラーの真髄が表されています。洪水、ノアの話は世界中に口頭で伝えられています。

 

ローマ1:20 神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。

神の創造された世界を調べて行くだけでも、まだ未だ見えていない、知らない世界が詰まっていると分かります。人は神の全てを完全には知り得ない、永遠をかけて知って行くからです。そして神を知る手掛かり=神ご自身でり、神の言葉で私達は造られた、その神の言葉を捨てるなら、それは愚かな行為であり、神は神の子らに神の教え=トラー=言葉をしっかり握って右へも左へもそれてはダメだよ!危険だから!と教えているのに、神の言葉は終わったから捨てよ!捨てよ!とエデンのそのに居た神に敵対するものの声は、今日もイエシュアを信じると宣言している人達の口を通して、人の間で囁かれ続けているのです。神の言葉を捨てるとは、自分の意識が神の考えから飛び出る事を許す事なのです。

 

人間関係でも対話のない関係は相手が何を考えているのか分からないままになるのです。神の言葉を捨てるとは、神との対話が

遮断されることなのです。

 

宗教の暦では、過越でイエシュアが復活された日は、2024年は、3月31日、日曜日、春分の満月が来たすぐ後の日曜日とされていますが、イスラエルの神の暦〜聖書では、過越は、2024年は、4月30日の日没から7日間、種無しパンを食べて祝う週でした。その種無しパンの7日間の真ん中の”初穂”の祝い日にイエシュアが復活されたのです。

 

毎年その曜日も日付も、西洋グレゴリオ暦では違いますが、聖書では第一の月の15日、14日の日没が15日の始まる時なので、その日に過越の祭り、種無しパンの7日間になります。

それをどの時代も残りの民、そして1世紀のイエシュア、弟子達イエシュア信者達、イエシュア信者ではなかったユダヤ人、そして、パウロも異邦人も皆、過越の祭り、初穂を祝っていたのです。彼が祝ったのは、日曜でもクリスマスでもイースターでもない、レビ記23章に記された神が人を呼び出して定めた記念日を祝っていたのです。これは昇天以降もずっと神の定めの日、アポイントメント記念日、モアデイム=神が神の子らを呼び出している日は変わりません。

 

マタイ28:20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

 

昇天されたイエシュアの言葉ですが、イエシュアが”命じておいたいっさいのことを守るように教えよ”とは何を言っていると思いますか?聞いたこともない新しい教えなどではないのです。

同じ教え=父の教え=トラーに記された教えを生きる事を世界の四隅に伝え、イエシュアが地上で示された通りの生き方、神の言葉をいかに生きるか、間近に見て体験した使徒達に託したのです。

 

2000年前に地上にイエシュアが来られて、初めて聞いたことlも見たこともない教え、又は神の言葉=モーセの五書=トラーに記された教えを否定、削除、破棄した教えを世界へ伝えよ!などと救い主が使徒に伝えたなどと、誤解していては、その時点で

ずれた場所、砂の上、別の教え、別の福音を伝えている事に

聖書に基づき気が付かないとならないのです。

 

聖書が語っている全ては、100%モーセの五書に記された完全版の神の言葉です。聖書全体はモーセの五書の解説である事に気が付かないまま聖書を読んでいると焦点がぼやける、周波数ずれた場所で神の言葉を聞く事になってしまいます。

 

つづく