「イスラエル」と聞くと、生物学的にユダヤ人ではない、日本人又は外国人である場合には、この言葉、イスラエルとは他人事に聞こえますよね。自分に神が直接語っているようには思えない。
聖書はイスラエルという神が選び出された民族を中心に、神の教えが伝えられています。
よくよくゆっくりゆっくり聖書に記された神の言葉を考え続けて行くと見えます。色々な事を凝縮して書いているので、時間をかけて考えてみて下されば幸いです。
なぜ、神は1つの国民、1つの国=物理的な地上の場所、国、土地を選び出したのか。
そして、それを神は既に永遠の中から選び出しているのです。
私達異邦人でさえも、この世の礎が創造される永遠の中から神に選び出されていた、既に神の中に存在していたからです。
異邦人の考えに基づくと、神は人間が失敗したから、その度に代替え作を次々と編み出しているように思わされますが、聖書には違う事が書かれています。永遠の中に全部完結済み!でこの世界が始まっているのです。シャバット=第七日目の安息、休みでそのことが最初から教えられています。神は全ての業を完了し終わらせたので止まったとあります。この意味は、付け足す業は何も無い!と書いてあるのです。人は神が創造されたデザイン通り、その安息、ナファーシュ、神の造られたぴったりここちよいデザイン通りを生き方に戻る!その旅路が地上の旅路であり、約束の地に入るまでの足跡、その歩み方を神から教えられているのです。
見に見えない神を見るが如くに歩む訓練〜荒野の訓練、旅路。
でもイエシュア=神=聖霊は最初から、どの人種、どの時代の人でも信仰により神の言葉を受けて義とされた人の中に住まわれて共に歩んで下さる事実を最初から教えているのです。聖霊は2000年前迄は、特別な人以外与えられていませんでした〜と言う異邦人肉の思考回路が考え出した教え、そんな教えは聖書ではないです。聖書を読めば分かる事です。
そして、神がされた特別な現象、使徒2章のシャヴオートで聖霊が降って来た?などと言いますが、それでは、出エジプト24章
シナイ山での「シャヴオート」の方がもっとすごいです!天が神がイエシュアが直接降りて来て、70人の長老は天の中=シナイ山の山頂で祭りの時に契約=婚姻契約書ちぎりを結んだ祝宴を
イエシュアと共に、タヘレット=紺碧色の天の御座に座して、
飲み食いして祝ったのですから。
異邦人クリスチャンの学者が唱えたように、異邦人が昇天以降、神の契約を受け取る別の代表に成り代われない理由が聖書には、はっきり書いてあります。神は全てを1つ神、1つ代表の国、1つの家族、1つの教えに生きる事に修復する事、それが壮大な修復のプランであり、福音の中心だからです。
先ずは、どうして代表者〜神の目的通りに取り分けられて生きる人達を神が選び出されたのかが、書かれています。クリスチャンも聖別という言葉を使いますが、神の言葉で定義されている聖別とは、きれいとか、きたないとか、そんな意味ではなく、神の意図通り、目的通りに特別に分たれているという意味が、聖別の本当の意味です。
だから、聖別された人〜神の目的通り、ぴったりその通り〜神が伝える通りを生きる事、それが聖別された人の神の本来の目的、真の生き方であると、聖書には書かれています。
聖別の姿は、神の家の中で、実体験学習を通して教えらているのです。それがレビ記に記されているのです。だから、人間の勝手で、この部分の神の教えは終わり!あれは、これは今は無用、無効などと言う人の教えを信じて、神の言葉を捨てた行動する場合神の教えなど、捨てた部分は知らない、よって考えもしない、神がどのような意味がありそれを教えているのかなど思い巡らしもしない、故に神の聖別を理解せず、分からず、本来の聖別されたイエシュアに属する人の生き方からずれて生きていても、まるで気がつけない事が起きます。神の言葉を捨てているから、何を神から今も変わらずに伝えられ、教えられているのか分からないのは当然の結末になります。
それがモーセの五書や預言書、諸書で教えられています。
イザヤ 66:17 「みずからを聖別し、みずからを清めて園に行きその中にあるものに従い、豚の肉、憎むべき物およびねずみを食う者はみな共に絶えうせる」と主は言われる。
何を根拠に基準に、神に指定教えられた通りの聖別された性質に留まり生きていると分かるのでしょうか?
それは、神が伝える言葉、教え、神が伝える事の中に留まり、生きている事。
だから、イザヤ66章にあるように、自らの定義の聖別で自ら聖別したと思っていても、神の言葉を適当に捨てているなら、この教えは今は自分には関係ない!などと思い違いして、勘違いして
考えて、それは神の目には聖別でもなんでもない生き方をしていながら、自らは聖別された生き方をしていると考えるのです。
光と闇と神が最初に分けられたように、神に聖別されたとは、
聖別されていない物と見比べてはっきり識別できるものなのです。だから、異邦人、異教神の教えを生きる民族は、イスラエルの神に聖別〜目的通り、イスラエルの神の教えを生きない事でも見分けられるのです。人が内側に信じる事は、行動で現れ見えます。信じている事を行動しない、それは空虚な信仰、実態のない中身のない信仰とヤコブ書に書かれています。そして人間が考えるように、この教えは意味ないとか、無用とか価値が低いというのは、神が考えている視点とはまるで事なり、ずれているのです。
神の教えを捨てる場合には異教徒と同じような生き方に部分的に染まって行ってしまいます。混ぜ物〜神が最も忌み嫌うと表現している、姦淫の罪としている姦淫〜異教の神々の教え、彼らの習わし文化の生き方、それに交わり染まることがおぞましく、神に対して冒涜的行為であり断固として、交わってはならない事を教えているのです。
イエシュアの地上の生涯でも、生まれて直ぐに、エジプトに下って滞在したように、ヤコブ(イスラエルと、その息子ヨセフと、そして兄弟家族全部もエジプトに下りそしてそこに430年滞在しました。
エジプトはイスラエルがずっと住む場所ではありませんでした。なぜなら、神はイスラエルをイスラエルの神に仕え、そして約束の地、カナンの地を与えてそこに住むようにされていたからです。
イスラエルは聖別された国民とされたと神が言われたのは、世界の中で、イスラエルの神に属する人の生き方と、そうではない生き方をはっきり識別、区別する為です。
1つの神、1つの国民、イスラエルと言うイスラエルの神に属する人達、そして異邦人も全て、同じイスラエルの神に属するならば、同じ聖別された天の祭司の国民、聖なる民であるのです。
出エジプトして来た人達は殆どがイスラエルでしたが、同時に同じように、イスラエルの神の言葉〜子羊の血=イエシュアの贖い血を鴨居に塗り、同じように、神が言われたように、種無しパンをさっと作り、その夜エジプトを一緒に出た異邦人たちが居て、その人達はイスラエルの12部族の中に加えられて、共にイスラエルとして数えられていた事実が書いてあるのです。
その意味は、異邦人も同じく、神の言葉=イエシュア、子羊の血の贖いを信仰により受け取る人は誰でも同じようにイスラエルという大家族の一員、天の祭司の聖なる民とされる!と書いてあるのです。クリスチャンの世界で教えられるのは、イスラエルと異邦人と2つ別の家族、グループとして教える置換神学やデイスペンセーション神学思想ですが、それは聖書とは全く異なる思想です。
イスラエルの神の性質に真っ向から反した教えであり、分断、
分裂、亀裂、変化、進化、不安定を生み出している、聖書に記されたイスラエルの神の性質、言葉とは真逆な教えです。
パウロの書簡にも、「聖徒達へ」と記しているでしょう。
聖なる民へと異邦人にもパウロが言っているのです。その言葉は
出エジプト19:6にある神がイスラエルに対して語った言葉なのです。
イスラエルが中心、中核であり、全ての異邦人はそのイスラエルの1大家族に加えられるのです。それを、イスラエルから異邦人へ契約を受け取る代表者になったとクリスチャンは言いますが、それは聖書に記された神の教え、言葉ではありません。シナイ山で与えられた契約=モーセの五書とは別の、又はモーセの五書を塗り変えたり、大部分を削除、変更、破棄した神の契約=言葉、教えなどこの世には存在などしない。実際にそのような契約書は聖書として存在していませんが、あるがごとくに新しい契約などと語り続けているのです。
聖書に新しい契約と書かれているのは、中身は同じモーセの五書
シナイ山の契約です。新しいとは参加する人の意識、又は人数が変更され、人々が加え続けられるから、同じ婚姻契約が再更新され続けるから、「新しい」と言うのです。この新しいは、新月の新と同じ言葉です。新月が空に出るたびに、新しい別物の月が出るなどと誰も考えていませんよね。同じ月だからです。新月を祝うとは、神の同じ契約が再更新され続け、神は神の約束、契約に忠実なお方である事を天の万象〜月を通して、目で見える形で人に示しているのです。
異邦人は新しいと聞くと、別物!と考えますが、ヘブライ人が聞いたら、「再更新」シナイ山で与えられた同じ婚姻契約=モーセの五書とちゃんとヘブライ語から、神が伝える教えの意味から
理解できます。ヘブライ語の言葉でも理解できますし、神の教え=トラーに記されている解説から、神の言葉を正しく理解するのです。1つの民族が選ばれた理由は、この民族に重大で厳重な責任を負わせて、神の言葉を忠実に守り次世代へずっと生きて教え、伝え続けると言う大きな役割を与えたからです。
そのような人達無しに、神の言葉が正確に保たれる事はないからです。いや、人の手を通して、神は神の言葉に忠実に生きて、次世代へ伝えて行く残りの民を神が確保して、ガードしているからです。
そうでなければ、異邦人の世界でされてしまうように、翻訳や人造神学教理で神の言葉を曲げたり、聖書ではない思想で聖書を曲げて語る事で神の言葉が正しく他者へ後世なくなってしまうからです。しかも、ヘブライ語聖書だけが、文字数も言葉も同じで
中身が同じで統一されているのです。翻訳とは違うのです。
聖別されるとは、境界線を敷かれる事です。異教の神々の教え
文化に生きる生き方と、イスラエルの神の教えを生きる聖別された民の生き方をはっきり神が区別して、他の人々に分かるように
されているからです。だから、地の塩、世の光なのです。エデンの園の入り口に立つ、チャラビムは、世の光を表す、ここに戻れ!というシグナルです。こことは、エデンの園、神の元の創造された生き方、神の教え、言葉に根づいて生きる事に戻れ!という事だからです。
そして、祭司の国民=イスラエルの中で、更にレビ族が選び出され、レビ族の中で更にアロンの家系の男子が地上の大祭司として選ばれた理由は、普通の人たちの中で、さらにぴったり、大祭司イエシュアの生き方をそのまま反映させて生きる代表者だからです。神の言葉とずれた教えや生き方をしてはならない、正しく
イエシュアの業の意味、贖い、救い、赦し、癒し、聖霊を内側に受けた人の生き方を教え、人々を導く。
それらの人はより重い責任、より神に近い生き方をする責任を負わされているのです。イエシュア=神の言葉通りを教えて生きる事を任された人々。皆同じでは区別が分からなくなるからです。
歴史の間中、世界中でこれ程迄にイスラエルが標的にされるのか、それはサタンとイスラエルの神の戦いでもあるからです。
約束の民が地上で生きながらえたら、それはイスラエルの神の存在し、神の約束が正しい事を証明してしまうからです。だから
イスラエルは滅びなくてはならないと言うスローガン、行動があるのです。
同時に、これほどイスラエルが患難に合うのは、それは契約の中にある民であり、契約が今も有効である証拠だからです。詰まり
世界が攻撃する一方で、イスラエルの民は神の契約の中に生きない状態の場合に、患難、敵国から攻撃を受けてしまう事が聖書に記されているからです。ですから、異邦人が契約を受け取る民にはなり得ない、それは異邦人はイエシュアを通してイスラエルの神の元に取り戻されたら、同じイスラエルという大家族になったと神が教えているからです。
そして得にイエシュアの実態=神の言葉=トラー=モーセの五書=婚姻契約に記された生き方そのものを理解して、人々に教える人達は熟練、熟知、成熟した成人、そして他者を導き指導出来る器でなければならないからです。いい加減な事を教えて、神の言葉とは違う事を生きる事を奨励し容認するような教えをする場合
その刈り取る結末は重たいのです。
続く