福音 イエシュアの完了の業 預言的祭りを通して教えられている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神の言葉を退け無視して、何でもかんでも好き放題して、それでは、「聖なる民の状態には留まれない」事は、最初から神に教えられているのです。

 

神に贖い出された事、生まれ変わる、新しくされることは、無条件!なのです。

その事実、実態を受け取る唯一の条件は、信仰により受け取り義とされる事、その結果聖霊を受けたのです。これは、異邦人クリスチャンが説明するように、2000年前の昇天以降、使徒2章のシャヴオートの祭り以降初めて有効になったのではない、エデンの園の最初から同じなのです。

 

神が伝えている永遠から存在する同じ福音、同じ救いを正しく理解しない限り、ずっと歴史線上に神の教えを眺めるデイスペンセーション神学思考回路で見ていては、聖書に書かれている事実に覆いがかけられて、正しく見えなくなります。

 

どの時代も、どの人種も誰でも、神は神の選び出した人たちに

必ずアプローチして神から近づいて来て下さり、同じ助け、救い、恵、許しを与え続けて来た、聖霊は人の内側に住まう事実を人は受け取っていたのです。

 

神のもの、神の宝の民となった人達には、条件付きの生き方が

神から示されて提供されている!という事をクリスチャンの世界では、正しく教えられていません。

今は聖霊時代で自分の判断で神の言葉を仕分け、削除、神の教えを受け取るか、受け入れないかそれぞれ自分で決めて生きる時代なのだ!などと聖書=神の教えとは真逆な事を教えています。

 

人間主体、人間が神の上に権威を置くような事を、神は人に教えていません。神の言葉を退けて、否定し、これ、あれ、それは、今関係ない!という教えは、全部人間が神の座に座り、人間至上主義になっていることに全く気がついていない思考回路なのです。

聖霊=言葉=神=イエシュアであるという基本的な理解、ヨハネの福音書の冒頭で聖霊=言葉=イエシュアが肉体をとって地上に来られたと書いてあるのに理解していないのです。

 

今の時代はそれぞれが確信する教えを生きるのだ!などと神は一度もそのような教えは人に伝えていませんし、聖書にもそんなことどこにも記されていません。人は神の口から出る一つ一つの言葉=モーセの五書に記された人間の生き方、神が伝えた永遠普遍の生き方を生きる!と教えているのに、異邦人が勘違いした聖書の読み方を教えられて、聖書とはズレた聖書解釈をしているから、そのような教えが伝えられてしまっているだけです。

 

言葉は、神=イエシュア=聖霊ご自身であり、聖霊により書かれたご自身である神の言葉を否定したり、削除、訂正、終了、無効相反する事など言うことなど永遠にありません!

これこそが正に異邦人創作の空想ファンタジーのお話なのです。

 

出エジプト19:5 それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。

19:6 あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」。

 

イスラエルは神の大家族の呼び名=代表名=名字であり、イスラエルの神=イエシュアを通して父の元に戻った人は誰でも、イスラエルの大家族の一員に加えられて同じ家族になったと神が説明してるのです。人間の思想で、神の解説教えをくつがえしているものを、削除しなくてはならないのです。

 

そして、その人達、一人一人の人生の歩みが、モーセの五書に

記されているのです。

記念日=定めの時=祭り、レビ記23章に記された、神が神の子らを呼び出している記念日の1つ1つは、イエシュアの完了の業が教えられているものであり、私達人種に関わらず、時代に関係なく、誰でもイスラエルの父なる神にイエシュアを通して贖われて引き戻された人達は、皆神の記念日で表されるイエシュアの業と、イスラエルが歴史の中で体験したのと同じ足跡を歩んでいるのです。

イエシュアは地上でいつ処刑され、いつ復活されましたか?

イエシュアが処刑され復活されたのは、”過越の祭り”です。

 

過越の祭りの意味を教えられた事がない、まして祝った事も一度もない場合には、神の造られた祭りの意味の全貌は見えてきませんが、神の記念日、シャバットから、新月、過越から秋の仮庵の祭りを全部学び、実際に祝う事をする場合には、神が伝えている教え、福音、永遠から人のために用意され存在している、イエシュアの完了の業、子羊の血の贖いの意味、それらは、モーセの五書に記された教えを通して深く深く理解するように神がデザインされたものなのです。

 

1つ1つゆっくり聖書の事実に基づき考えてみて下さい。

 

過越の祭りで神の子羊、イエシュアが屠られて昇天し、復活しましたが、これは最初から教えられている、イスラエルに実際地上での歴史の中で起きた出来事、出エジプトに記された一連の出来事で表されている福音の中核となる内容とぴったり重なり並行するものです。イエシュアに出会い、子羊の血の贖いを信仰により受け取った、一人一人の人生の歩みと全てがピッタリ重なる事を教えているものです。

 

そして、イエシュアの贖いの血〜子羊の血は永遠の中に屠られている!この世の礎が造られる、創造の前〜永遠の中から私達も既に神の中に存在し選ばれているという理解不可能な事が伝えられているのです。歴史上の線上に物事を考えていたら、神の伝える永遠から同じ贖い、救い、同じ1つの福音は見えない、神は永遠の中から話しているからです。

 

春の過越の祭りは、パン種除去から始まります。過越の祭りではパン種は罪を表すシンボルなのです。だから普段の時にパン種の入るものを食べる事は罪ではないですが、その7日間は、パン種のないマッツアを食べる事、パン種があるものを家から除去しておく事を、神から教えられているのです。

 

それが何?て思いませんか?神の教えは、意味が分からない場合には、神の教えがあたかも愚かに聞こえるとある通りですが、

神が言う通りを実践する人には、神が教える大事なその意味が、深く分かって行くように、神がデザインされているものなのです。本当にその通りなのです。

 

神の言葉、教えは、神の深い考えを人に教え伝えている手段なのです。神の言葉抜きに、神の考えを知る事は出来ないのです。

人は神の言葉で造られて、神の言葉に照らし合わせて、神の考えを知って行くようになっているからです。

言葉=聖霊であり、神の教え、言葉=聖霊=イエシュアであり、聖霊に教えられるとは、神の言葉を通して聖霊が語る事に確信を持つのです。

聖霊はご自身である言葉に敵対する事、相反する事、矛盾する事、否定する事、破棄せよなどという教えは決してしない事を聖書の記述から理解すれば、神の伝える永遠の真実が見えてきます。

パン種除去掃除を、神の仰せ通りに、過越の祭りの前に行い、

イエシュアも弟子もした、昇天以降も変わらずにそのようにしたという事実をまず知って下さい。ラビは、弟子に手本を見せて教える、親が子供に手本を見せて教えるのと全く同じです。

 

パン種除去は何を教えているのか、パン種は過越の祭りの時には

ハメッツ=要らないもの=罪を表すものです。自分の住む家の中から前年から持ち越しているパン種=要らないもの=罪を排除する。

そして、種無しパンは、このハメッツ=罪がイエシュアにより私達の中から既に削ぎ落とされている事実を、種無しパンを通して教えているのです。そして実際に種無しパンを食べてその事実を考える7日間の強化週間を過ごすのです。

 

詰まり、永遠の中に屠られた子羊イエシュアにより、新しく生まれ変わる事は最初から神に教えられているのです。だから、モーセの五書を学び知っていたニコデモ、トラー教師は、新しく生まれ変わる事を、実際に体験していなかった、分かっていなかった事を、トラーを教える教師なのにどうして、あなたは新しく生まれ変わると言う事を体験的に知らないままなの?

そこに同じ福音、救いの方法が書かれているのにあなたは知らないのか?とイエシュアがニコデモに質問し聞いたのです。

この場合の知るという言葉は、”体験的に深く知っている”という

意味の知るという言葉なのです。

イエシュアが昇天していない時点の話です。詰まり新しく生まれる、聖霊を受ける、罪許される、贖われて救われる方法は同じ!

永遠の中に屠られている子羊イエシュアの業により、誰でもどの時代でも受け取れる証拠をイエシュアも話していると気が付いてニコデモとイエシュアの会話を読んでみてください。

 

過越で、子羊が屠られた。実際の過越、エジプトを出る前に、

子羊の血を鴨居に塗るように神から伝えられたのです。

同じ福音です!子羊の血、子羊イエシュアは、この過越の子羊で表されているのです。ヨハネが言った「世の罪を取り除く神の子羊!」とは過ぎ越しで屠られたあの子羊の血の事を言っている、それはイエシュアの贖いの血=子羊の血の事なのです。

 

子羊イエシュアの血の贖いで、人は神に罪を覆われた事実は、

エデンの園の最初から口頭で神による行動により、教えられているからです。

神ご自身が屠られた動物の皮で、人の罪=恥じ=裸を覆ったと書かれています。ノア、アヴラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、創世記に書かれているイスラエルの歴史の中で、同じイエシュアの贖い、救い、聖霊が人の内側に住む事が教えられているのです。

 

ただ長く解説が無いだけです。その後の出エジプト、レビ記、申命記そして、その後の聖書全体で、モーセの五書に書かれた同じイエシュアの贖いの業を説明しているのです。

エデンの園を出て、アベルがどうして、神のみ旨に叶う初子である動物を捧げ、カインは初穂でないものを神の前に捧げた事が神の目に叶わない事なのか、分かっていたのは、彼らは神に口頭で教えられて、知っていたからです。

しかも、神に捧げ物=コルバンをするとは、どういう意味なのか、神から教えられなければ、人は分からない事なのです。

 

聖書のその箇所の前後に詳しい説明が無く、突如としてそのような事が書かれているのです。その背後には、同じ神のトラー=

教え=モーセの五書に書かれた人間の生き方を神の口から直接語られて教えられていた事実があるからです。

 

ノアが罪深い破壊の時代、混乱と好き勝手な生き方をしている人々の中にあって、唯一”義”を生きていた人であったと書いてあります。その短い解説は、ノアが神から同じ教え=トラー=モーセの五書に記された、神の性質=義を生きる事の内容を、神から直接教えられ知っていたからです。

だから、ノアは、きよい動物7つがい、きよくない動物2つがいを箱舟に乗せなさいと言われて、それらの動物が何であるか知っていた、神に質問もしていない、神が教えた教えの知識があるから、識別出来た、それは、レビ記11章に書かれた神の教えを神から伝えられてノアが知っていたからです。

古代は口頭で神から、同じ教え、福音が伝えられていたのです。から、古代はさまざまな事を通して同じ教え、同じ福音が伝えられて来た事が書かれています。

 

口頭により神が直接神が選び出した個人に語り、そして神の預言者達にも神が口頭で語り、それらを文字として記されたものが聖書になったのです。

 

ヘブル1:1 神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、

1:2 この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。

 

クリスチャンの世界で語られる教えは、イエシュアが地上に来られて初めて神の教えの色々な事が分かり始めて、そして古い箇所に書かれている教えは無効になったという、神が伝える本当の真実を覆いかくし、遮り妨害する、人が考えた教えに邪魔されて、

永遠普遍で一貫している神の教えが見えてこないのです。

 

イエシュアが来られる前から、どうして約束の救い主などという

事を人々が語り、知っていたのですか?どうして古代の人も同じように、イエシュアが来られる前から、神の前に罪を認めた途端瞬時に罪が許され、きよめられ、修復され、聖霊を受けて神との関係を持っていたのですか?聖霊が人の内側に住まう事は最初の最初から、人は信仰により受け取っていた、エデンの園から、永遠から実在し教えられていたのです。それがモーセの五書に記されているのです。本題に辿り着く前に長い解説が必要です。

 

イスラエルが辿った歴史、そして神の記念日、祭りは同じイエシュアを信じる1人1人の歴史が書かれているのです。

 

続く