神が教える福音は神の記念日を通して最初から教えられている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書=神の言葉や教えではない事を、あたかも神の言葉や教えのように教え、伝えられてしまっている、この「伝言ゲーム」の

結末、最初神が伝えたメッセージが人を時代を通して伝達される中で、人々により神の言葉が着色され、変えられ、歪んで変形してしまって今に至ります。

 

そんな事あるわけないでしょう?信者のグループの中で聖書とは違う事教えられている訳などない?と考えていますか?

いいえ、歴史を見れば分かります。違う教えが侵入、潜入してくる事は否めない事なのです。違う教えが入ってくるのは、神の言葉を退けて、聖書に書いてない教えを取り入れる事で起こるのです。エデンの園の警告、事件を思い出して下さい。からくりは

あの時から今迄もずっと同じなのです。

今の時点でも、聖書を書いてある神の言葉の意味通りに読み、受け取り、取り扱い、実践していない事でも分かります。分からないのは、宗教の伝統の教え、実践にどっぷり浸かっているので、それが聖書に書かれている神の教えなのだと勘違いしているからなのです。

 

福音は1つ、救いの方法は永遠から1つ、救い=イエシュアは永遠から存在し、誰一人イエシュアを通して以外誰も父の元に戻る事は出来ない。そして、2000年前のイエシュアの地上への

最初の到来を前後に、前と後では神の救いの方法が変わった〜

以前の人には同じ救いの手段が与えられていなかったとか、昇天以降初めて、救いが実現し、罪の赦しや永遠の命、そして聖霊が初めて人の内側に住まうようになったと言い続けて、そう教えられてそう信じていませんか????それは、神が伝える真実とは

全く違う人間の肉の目から歴史線上に物事を眺めた思想に過ぎません。聖書に書かれている意味を把握しない、理解していない解説なのです。

 

聖書の中にも、神の教え=言葉を曲げた事、神の教えを退けて

生きて、厳しい結末を刈り取ったイスラエルの歴史が書いてあります。それらはそっくりそのまま異邦人にも当てはまる警告なのです。

言う事聞かないと神が怒る?と考えますが、神の伝える生き方からズレたら人間は破壊される、危険な状態になる、そして他者へ後世へ、神の伝える生き方を正しく伝えられなくなる。

様々な弊害があるからです。

小さなほころびが、やがて大きくなって行くのです。現実に今もこれもok、あれもok,どんどんどんどん人間基準の教えに侵されて、神の教えが退けられて行っているのです。

人の側でこの神の教えは重要では無いと判定しているそのものが

実は大事な事である事にも、気がつけないままいるのです。

 

だから、祭司の国民、聖なる国の聖なる民にされた人は、この世の混ぜ物の教えと混ざってはダメである事、聖別を汚す行為をしてはならない事を厳重に教えているのです。

 

今の世界を見ても分かるでしょう。ソドムとゴモラ、ノアの背教の時代、神のデザインを覆すおぞましい事、悪が善とされ、善が

悪とされて横行しているのです。一部のクリスチャンもこの波に飲まれて行ってしまっているのです。愛とは、神が定義する愛〜神の子らが神の伝える事を生きる事、契約の愛の中で実現され、お互いを守られるのに、罪でもズレでもなんでも受け入れる、許容する事が、神の伝える愛だなどと勘違いしているのです。

聖書に記述されていない空想のイスラエルの神=イエシュア像、脳内イエシュアを想像しているからです。

神の言葉を捨てるから、神の創造のデザインを破壊する思想をも、罪をいとも簡単に受け入れてしまっているのです。

 

聖書の中で人々が教えられていたのは、神の言葉=教え=モーセの五書に記された教えであり、それは昇天以降もイエシュアが言われた通り、一点一画も、今も変わっていません。聖書の事実をクリスチャンの世界では認識されていません。神の言葉が変わったと言う人の教えを信じて教えられ続けているから、神の言葉の事実が目の前に書いてあっても見えない、不思議な現象でしょう。

学校の教科書に、永遠普遍と書いてあったらそれは、永遠普遍と書いてある通りに受け取りませんか?永遠普遍と書いてあるけど実は歴史の途中で変化、削除、無効になるなどと言う読み方などしませんよね。

神の創造の事実を知る人は、人が徐々に進化する、進化し続けているなどと考えていないでしょう?

それなのに、どうして聖書を人の教えを挟んで、人の教えを通して読んでいると気がつけないのでしょうか?聖書に書いてない事に読み替えているのです。

 

理由は簡単、ちゃんと書いてある意味を、元の言語に記された

内容を学んでいないからです。そして聖書ではなく、人の編み出した思想=神学を学んでしまっているからです。

 

もし、今日天が崩れ落ち、この地が消えていたならば。。。いやそれは、あり得ない!というイエシュアが言われた強調です。神の言葉は変化したり廃れたりしない!と、イエシュアがマタイ5:18で言われたのに、クリスチャンの世界では、そのイエシュアの

言葉の意味を書いてある意味通りに知らないまま、完全に誤解し曲げて、神の言葉をイエシュアが生きて地上で成就したので(意味不明な解説です)、もうクリスチャンは神の教えを生きる必要がなくなった〜となどと、イエシュアがそんな意味などで言ってなどいない、聖書に書いてない事を平気で伝えて教えているのです。このように、人の教えで塗り変えている聖書解説がずっと歴史の間、異邦人の世界では流通しているのです。これでは、聖書=神の伝えるメッセージなど正しく伝わっていない事にも気がつけなくなってしまっているのです。

 

神の言葉がその通り、永遠普遍である事が分かれば分かる程、

人間が創作した教えが聖書からズレていることにはっきりと気がつけます。

それは、神がこの世界の全てを創造されたという事実を聖書から

発見した人は、人間の頭脳で考えた仮説、ダーウインの進化論、

人間は猿から進化した、全ての生物は微生物から進化したなどと

いう嘘を、神の創造の事実を知ったら、どんなに有名な学者が進化論を唱えようとも、そんな仮説は嘘、嘘は嘘と分かり、嘘には二度と戻れないと分かるでしょう。それと同じです。

 

世界がどれ程進化論をうまく解説しようとも、それは単なる嘘、

偽りです。それと同じように、人間がどれほど神の言葉を否定し、終了、破棄された!と言い続けていても、それは完全に嘘!神が伝えることとは真逆の嘘偽りだからです。

 

本当の事が分かると、嘘が分かります。嘘は永遠に真実になど変化しません。嘘と本当を識別出来ます。そして嘘を本当という事が二度とできなくなり、嘘に耐えられなくなる、その感覚が分かると思います。

聖書ではないのに、聖書に書いてある神の教えのように伝えている、それに気が付いていないから仕方ないのですが、聖書の真実に気が付けない理由は、人の教えを通して考えているから、聖書に書いてある事と違っても、今は神の言葉が変わったからこれ、それ、あれが変わったと、完全に勘違いし、そう思い込んでいるのです。

聖書には変えられた、変化した、削除、破棄された神の言葉など

ありません!

しかも、福音書以降は、モーセの五書の抜粋が書いてある、抜粋しか記されていないから、書かれていない部分は終わったなどと

勘違いしてはならないのです。最初に書いてある完全版をそっくりそのまま復唱する必要がないのです。最初に書いてある事を見れば、神の完全で普遍で変化しない教えが分かるからです。

 

学校の先生が、上中下という3学期間で使う1年間の教科書の上、中、下の教科書を学習済みの人に、3学期の最後になって、まとめを話した場合、上中下に書かれた全部を話さなくても、

それを学習、理解している前提で話しているから、部分的に取り出してまとめの授業をするのです。

それと同じで、福音書以降には、神の教えの完全版は重複されて書かれていない、ただモーセの五書、それに付随する預言書や

諸書からの短い抜粋、註解が記されているだけ!なのです。

 

そして前の部分、「モーセの五書、預言書、諸書」に記された内容をどれひとつも、神は否定などされていません!神の言葉を

否定するとは、DNAに傷をつけ遺伝子を破壊する事であると

覚えておいたら理解出来ると思います。DNAを破壊したら、神のデザイン通りは再現出来ません。神の言葉は1つであり、全部繋がり、同じで完全である神の言葉、神の言葉はイエシュアご自身、聖霊ご自身、神ご自身である!という理解が異邦人の中にはない、聖書に書いてあるのに見えていない盲点なのです。

 

さて、6月11日、日没にシャヴオートが来ます。シャヴオートは、ヘブライ語で「週(複数)」ギリシャ語ではペンテコステ「第50」です。過ぎ越しから数えて50日目、過ぎ越しから

7週間を過ごして迎える祭りだからその名が付いています。

この祭りのテーマは幾つかあります。これは後で説明致します。

 

聖書にはイースターという名の祭りはありません。クリスマスも

日曜礼拝も無い、書いてもありません。古代はヘブライ人の世界には、誕生日を祝うという習慣もなかったのです。そして、イエシュアの地上の誕生はひっそりと、そして神がその日を祝うように一度も命じてはいませんし、神の創造された記念日の中にはありません。

多分、イエシュアは春に誕生された、過越の時ではないかと推測されていますが、それは聖書には書かれていませんので今は書きませんが、12月25日(カトリック)1月7日(ロシア正教)がキリストの誕生日にしましょう!としただけで、その日はキリストの誕生日であるなどと聖書に書かれていません。

人の創作した記念日と、神の創造された記念日との区別は必要なのです。神はいつ人を呼び出し、祝うように伝えているのか知らなくてはならないからです。

 

真冬には、羊を外で飼い野宿しません。羊が生まれる春に羊飼いは野宿して、羊の出産を見守ったからです。その時期は春でしょう。ベツレヘムで、イエシュアが生まれたように、ベツレヘムで

過越の祭りの子羊が飼われていたのです。

 

復活の命、イエシュアに贖われた新しい命を表す祝い日は、過ぎ越し祭りから始まる7日間の種無しパンを食べる週の真ん中に、「初穂」を捧げ祝う日で、最初から神が創造されイエシュアの新しい命に連なる事実を祝う事を教えているのです。

だから、1世紀、イエシュアが復活された時、その時代に生きた人は、「初穂」を祝ってイースターという異教の女神の名が付けられた祝い日は聖書にも書いてない、その後も祝っていません。

 

西洋人が神の教えや記念日を変えよう!と決めて、しかもローマ帝国からの圧力弾圧迫害で、モーセの五書に記された生粋の神の教えや記念日を祝う事を処刑と重税を以て禁じられたから、異邦人は人間が考えた教えの方に、安全に移行して行っただけです。

でも、その中でも神の言葉に忠実に生きようとした異邦人は、2世紀当時でも変わらず、イエシュアと同じく、トラーを生きて、神の記念日、シャバットや新月、祭りを守り続けて祝っていた事実もあるのです。

 

三大都上りの祭り〜神のモアデイム、ハギム=祭り、定めの祭り

神の子らを呼び出して祝う、福音の中核を表す、信じた一人一人の人生の歩みを表す、イエシュアの業、そして預言的祭りでもある1つです。

 

クリスチャンは神が永遠に祝いなさいと与えられた神の記念日、祭りの暦を削除して、祝わなくなりました。

それらは、古い教え〜!律法だからと。

でも、シャヴオート(ペンテコステ)は、クリスチャンの言う

律法、レビ記の中に記された永遠に祝う祭りであり、シャヴオートは、その祭りを単独に祝うものではないのです。

神の創造された記念日は全て祝って丸ごとで繋がっていて完全版!その中心がシャバットです。

 

西洋人は神の言葉と神の記念日を変えてしまったことを、クリスチャンの世界では、昇天以降神が新しい教えや記念日を生きると

誤解、勘違い、聖書とは違う教えを教えられてしまい、それが神の仰せ、教えであると微塵にも疑わず信じて実践しています。

それが1900年近くに渡る、西洋宗教の伝統だからです。

 

続く