贖い出されて救われた人々の歩みはモーセの五書に記されている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

元の形や姿が何であったのか、分からなくなる、ブレンダーにかけてミックスしたジュースやスープがありますが、材料の原型が見えないままです。

そこまで変形していなくても、1世紀時代のイスラエル、ユダヤ人の世界で、イエシュアが生きて教えた、当時の人たちが知っていたトラー=神の教え、インストラクション、彼らの神の言葉を生きる生活や文化は、今の異邦人の世界では見られることのない

遠く遠くかけ離れたものです。

 

想像してみて下さい。1世紀、そしてそれ以前、イエシュアが

地上におられた当時のユダヤ人たち、それ以前の先祖代々残りの民が生きて来た、イスラエルの神に教えられた教え、言葉を生きた人達の生き方と今とでは、大分違います。西洋色、偶像や関係のないシンボルの数々が混ざったものなど、存在していません。

 

1世紀当時の人達のことを、現代の日本や諸外国の概念で聖書を

読んでみても、画像もない、空想しても、どんなものか思い浮かべられない、字面を読んでも見えて来ないことがたくさんあります。

画像を見ればそれだけで分かることでも、文字だけ読んでも分からない事があります。

だから、イスラエルの神が神の子らに教えているその教育方法は、五感を駆使した、神の家〜ミシュカン、実際に神の臨在がその中に住まい、人々が神の家〜天の神の家族の家を地上で体験し教えられたのです。

レビ記に書かれている内容は、イエシュアの福音の業、贖い、

許し、修復、癒し、そして神の前に、罪すすがれて、新しくされ神の対して芳しい香りとして私達が受け入れられている事を、神の家の中の様々な事、シャバット、祭りその他の儀式を通して教えているのです。

最初から、イエシュアが地上で昇天するずっと以前から、永遠の中から同じ1つの変わらない福音だからです。

 

得に福音を網羅するイエシュアの業、預言的祭りでもある、神が創造された定めの日=神が神の子らを呼び出している聖別された日=シャバットや祭りは、実際に生きて祝って、学習体験し続けるように神がデザインしているのです。

思想ではなく、実際に神の言葉、教え、記念日を生きて体験し、神の定めた日〜記念日、祭りに、神が特別な出会いを神の言う

通りに生きる人の中に現れ出ると約束しているのです。

神の教えは全て実践〜行動とピッタリ一枚岩なのです。思想の

世界ではない。全部動詞、生きる世界を教えているのです。

 

神の家〜ミシュカンの神の祭壇で屠られた動物は、「仮の罪の許し」の為ではないのですコインの裏と表と同じく、目に見えないイエシュアの実態を「傷のない動物」をほふり、捧げる事を

地上で実際に行いその事を通して、イエシュア=メシアを教えられていたのです。

自分で実際に大事にしていた動物を屠る事、想像してみて下さい。どんな体験だと思いますか?自分で動物をおさえる。祭司が隣りで補助してくれて、動物を一緒に押さえますが、動物は暴れますよね。そうすると、動物をしっかり捕まえるので、自分の手には何日もその動物の毛のにおいが付いて離れません。当時など

香りのする石鹸などありませんから、動物を屠った体験の臭いと、そして目で見て、動物の泣き叫ぶ声など耳に残りずっと忘られない体験になるでしょう。

イエシュアの子羊の血の代価の意味、重さを五感を通して体験する事で、それだけで文字で読んでは分からない事を実体験学習できる事が分かると思います。そして、それらを出来たのは当時

ミシュカンの周りに住んだ限られたイスラエルと異邦人、プラス

固定的神殿が建てられた後、エルサレム周辺に住んでいた人、

そしてエルサレムに祭りで上る事が出来た人達だけです。

 

だから、太古は、罪の仮の許しは動物の生贄を通して与えられという思想は神が伝えている事とは異なる事が分かるでしょう。

しかも未来イエシュアが再び戻られたら、エルサレムで同じように神殿が機能し、動物や穀物のコルバンが捧げられ、イスラエルに敵対した世界中の人が祭りにエルサレムに上って来るようになると預言されているのです。その預言を、寓話、喩えなどと勝手に読み違えれば神が伝える真実は見えなくなるのです。

太古はごくごく限られた少数の人だけ!?罪許された?そんな訳ありません。そんな風に考えるのは、全民族のアバ、創造主である偉大な神を誤解しているからです。そんなケチくさい神、愛のない神などではない事は聖書に書いてあるのです。

神は人を瞬時に許し、どんな人をも救い助け出す事のできるお方です。神は神ご自身をロバにも現せるようにどんな人にも現れる事が出来るからです。

イスラエルは神の大家族の代表です。彼らが最初に福音を受け取りそれを世界の四隅に伝える役割を与えられたから、彼らが最初に様々に神の教えを教えられたのです。

でもその中にも異邦人の残りの民が存在していたのです。

同じイスラエルの神の元にイエシュアを通して戻った人達はもれなく全て同じイスラエルの大家族の1員に加えられたのです。

その人達もイスラエルの神が教える同じ教え=婚姻契約の中に記された大家族に生き方を生きる事を神が教えているのです。2つ別のグループ、人種により時代により別の神の教え、別の生き方があると言う人造神話は捨てないと、聖書は見えません。

この点が、クリスチャンの世界では完全に誤解されているのです!神の契約〜教えは変化していない!という永遠の真実が通じないのです。聖書に書いてある真実が通じていないのです。

 

役割。神の教えを、贖い、救い、許しを体験した人が同じ福音を世界へ伝える役割が与えられただけです。

 

古代の人々、そしてイエシュアが来られた1世紀の時代と、相当かけ離れた生き方、教え、そして異邦人の間で捨て去られた神が創造された記念日、それは昇天以降、別の新しい時代が始まり、

以前の教えは過ぎ去り破棄され、今は新しい”キリスト”の教えが出たのだ〜と考えていると思いますが、神の教えは最初からメシア、イエシュアを教えている永遠普遍の何も変化などしていない、同じ教え=父の教え=神の教え=トラー=モーセの五書なのです。

これは、ラザロの例え話と同じく、どんなに説明したとしても

神の教えが廃れたと頑なに信じる頭脳には、隔たりの大きな壁、超えられない壁があるのです。イエシュアが今トラー=モーセの五書に記された神の教えを信じられない、永遠に真実で変わらないと分からないなら何を言っても通じない!と言った通りなのです。

ルカ16:29 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。
16:30 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。

16:31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。

 

はっきりと、モーセの五書=トラー=神の教え、モーセの五書を解説する預言書に耳を傾けないなら、何を言っても通じない、

その人は神の教えを何も聞き入れないと書いてある通りです。

 

イエシュアはローマ〜西洋人ではない。ペテロは西洋宗教の教祖などでもない、人がさまざまなことを別物にした、イスラエル、

ヘブライを、ローマ、西洋に変えたから西洋宗教というのであり、神の言葉は宗教ではない、イエシュアが来たからキリスト教と言う物が出現したのではない。

 

メシアは最初から永遠の中からおられて、神はエハッド、1つ以上で全く1つの神であり、そのイスラエルの神は西洋の神〜異邦人が塗り変えた神ではないのです。

 

聖書か聖書ではないか、神が伝える真実かそうではないか、人間が作った教えなのか、それとも聖書に記されている永遠普遍の

言葉=神が教えていることなのか、聖書に照らし合わせて、確認し、考える訓練は必要なのです。

なぜなら、異邦人の世界では最初から聖書ではない、人の思想を

通して聖書を語る教えしか聞かされないからです。

 

クリスチャンは聖書に書いてある神の言葉を、今は有効、今は無効と勝手に仕分けていても、丸で違和感や罪悪感は無いままでいるのです。

使徒2章以降で、初めてカトリック教という新しい教えが始まる時代になったのではないのです。それは人が後から作ったものです。初めて教会時代、聖霊時代という今までになかった教えや実態、そして異邦人が新しい契約を受け取る代表になった別の神の家族のグループが生まれたと言う事実もないのです。

エデンの園から神の教えは変わらないのです。エデンの園から

イスラエルの神の家族は1つしかないのです。人が土=アダマから造られて、全ての人がアダムから出た!という事実をずっと考えれば見えるでしょう。同じ1つの神により、同じ性質=土、同じ神の息=霊を吹き入れれて、全ての人が造られたのです。

 

そして神はヘブライ語とヘブライ人を選び出し世界へイスラエルの神、神の教えを伝え続けています。

 

歴史の途中で、イスラエルの神が、ユダヤ人であるイエシュアが西洋神に変身させられてしまっても、それは聖書に記された、

神ご自身が紹介するイスラエルの神とは異なる物であることを

聖書から知っておく必要があります。

1世紀の時代のイエシュアや使徒達が生きていた時代の教え、

生き方彼らが祝っていた、神が創造された永遠に祝われる記念日

祭りを異邦人は祝わない、イエシュアを信じながら、遠く遠く

元の教えや神の伝える本当のオリジナルの記念日を祝わなくなり

宗教〜人間が作った記念日や教えを生きるようになったなどとは

微塵にも考えません。

なぜなら、復活を記念して全ては日曜日が礼拝、祭りだという

教えを実践しているからです。でもそれは聖書には書かれていない神が命じてもいない教えなのです。

 

イエシュアが復活したから、日曜日?を安息日としなさいと神は

言いません。なぜなら、シャバットは永遠に変わらないからです。日曜日を安息日と変えたのは、ローマ帝国、西洋人の考えによるのです。それは、ヘブライ色のある教えは全部削除しようと人間が決めたからです。

人が救い主に出会い、贖われて救い出された経験をしたら、それはモーセの五書に記された事と同じ足跡を辿っていることが、

書かれているのです。

 

人は生まれながらに、エデンの外、神の外に飛び出した世界に

全ての人は生まれたのです。エデンの園の中に最初から置かれたのは、アダムとハヴァだけです。その他の人全て、最初からエデンの外に飛び出した、地上の歩みをしているのです。

そして、エジプトという国で、偽の神、偽の人生目標、偽の自己像を生きること、偽物の奴隷として生きていた事、虚しくレンガを積み上げていたけれど、その中にはまやかしの楽しみや代替えの目標と満足もあったのです。

給料はもらえて、家があり、そしてエジプトには様々な食べ物があった事、出エジプトした人達がつぶやいています。

 

これら一人一人の人生の歩みと同じです。神に出会う迄、自分が誰か、偽物の人生目標や人の価値基準のレールに乗せられて、一生懸命競争させられていた。その虚しい徒労にも、まやかしの

褒美や満足もあったのです。

そして、ある時イエシュアに個人個人出会う機会を与えられたのです。

それが、エデンから出て、カナンの地からエジプトへ下り430年、イスラエルの神の子らでありながら、奴隷として生きていた

イスラエルの歴史の事実と、個人の人生の歩みと全く重なって

います。

そして、鴨居に塗られた子羊の血は永遠の中に屠られているイエシュアの完了の業による子羊の血です。この血を受け取り実際に

鴨居に塗る行動に移した人たちの家は、初子の死を免れたのです。

イエシュアは初子です。そして、その初子の代価で、命を継承する事実を得た、福音は最初から同じです。そして、エジプト人の

初子の死は、「死に繋がる生き方が絶える、断ち切られた」事を

表しているのです。だから、イエシュアに属する人は死を体験しない、死んでも生きるとある事と同じです。

 

そして、出エジプトの前に起きた10の災いは神々の神々に対してのイスラエルの神からの裁きです。この10の神々は私達を縛っている偽物の神々、基準なのです。

そして、過越でエジプトから出ました。私達もイエシュアの子羊の血で贖われて、奴隷脱出=出エジプト、そして本物の神=主人に繋がれたのです。この事も並行しています。

もっと詳しく見ていけば、イスラエルの歴史、彼らの歩みは全て

私達の人生の重なる出来事です。

 

出エジプト12章に、エジプトを出る前に何をするのか、神が伝えています。そして、この事を永遠に代々覚えて、過越の祭りとして祝う事を神が教えているのです。これはイエシュアの業を覚えて、記念日を生きて覚えて学習するという神が創造された祭りのデザインなのです。この中に、罪が削ぎ落とされる事、そして

神の言葉を聞いて実行した人、鴨居に子羊の血を塗った家が初子の死を逃れた事、パン種除去で、罪が取り去られていることを実際にみんなで除去掃除して体験すること、種無しパンを7日間食べること。種無しパン〜子羊の血の代価で神に買い取られ、罪が削ぎ落とされた人にされたこと、福音の中核を様々な教え、そして実践を通して学習するように神がデザインしているのです。

 

続く