2世紀以降徐々に聖書とは異なる教えが浸透して行った事実 歴史の中で一体何が起きたのか | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

エペソ2:14-16で、「隔ての壁」をイエシュアが壊したとパウロが言った理由は、それまでは、当時イスラエルは、異邦人と元々

完全に交わりがない、別世界で別々に生きて互いに関わることもなかったからです。

人の作った教えにより、民族同士を離れ離れの状態にさせていたからです。互いに、敵対心もあり、一切交流もない。

 

イスラエルの神の教えを知らない異教神の文化に生きる異邦人達は、汚れたライフスタイルをしているので、汚れている、そして

汚れたものを無差別に食し、汚れた行為をして生きる異邦人は、当然神の教えに生きるユダヤ人達に取っては汚れた行為をする人

達であるとしか見えない存在だったからです。

 

使徒15章にあるように、イエシュアを信じながら、神の教えを理解していない、異邦人信者たち。

1異教神の神殿娼婦と多産の儀式をして交わり、

2神が禁じている人間の食するべきものではない動物を食し、

3動物の血を飲み、

4神が禁じている屠殺方法、動物を苦しめて殺す〜しめ殺す事を平気でし続けている異邦人信者たち。

イエシュアを信じて愛してますと心が燃えていても、実際の生き方は神の目にはおぞましい生きかたを相変わらず知らないまま

続けても気が付かないのは、神の教え=言葉を知らなかったからだと書かれています。

ペテロでさえも、そのような異邦人に対する当時のユダヤ人達の間にあった慣例、教えがあったので、異邦人達の家に行って、

泊まったり、まして親しく食事を共にしたりする事などは、考えられない事、躊躇する事だったのです。

 

だからイスラエルの神は、ペテロに異邦人もイエシュアの血で

贖われたらユダヤ人と同じように聖なる民となった事を天から

降りて来た無差別にどこから来たのか分からない動物の幻を通して教えたのです。使徒10章。

でも一方、使徒15章にあるように、異邦人もイエシュアを信じたならば、何が神のまえにおぞましく汚れた行為であるのか、

神の言葉=教えから知らなくてはならないという異邦人の側の

責任がある事を忘れてはならないのです。

神の宮は聖別されたものであり、神が伝える汚れを物理的霊的

精神的に一切取り込んではダメである!と教えられている事に

いち早く気が付く必要があるのです。それらは自分を、他者を

周り全体を確実に汚染し、破壊するものだからです。

 

この箇所以前にも話しましたが、1つ1つ聖書に記述された内容を誤解している事を、紐解き、聖書の真実の正しい理解に戻す必要があるので、ゆっくりゆっくり聖書の事実にだけ基づいて考え続けてみてください。

 

ペテロに見せられた幻は、「食規定が廃止になった」幻などでは

ありません。そんな事天地がひっくり返ってもあり得ません。

なぜなら神は永遠普遍=神ご自身であるご自分の言葉を覆す、

翻す矛盾、嘘はつけない!とはっきり宣言しているからです。

神の言葉は1つで完全であり繋がっていて、切り離せません。

臓器を切り離して生きる事ができないのと同じだと考えれば

理解できます。神が真実なら、神は神の言葉のどの箇所も終了、否定、削除、破棄などしないという神の言葉の性質の基本中の

基本を理解して初めて正しい聖書理解に入る戸口に立つのです。

 

ペテロがこの幻を見たら、ヘブライ人としてどう考えるのか知れば良いのです。無差別に集められた、どこから来たのかも分からない動物、これは神の祭壇の前に捧げられる判定が大祭司により無い、野生動物です。

それらの動物は神の祭壇には捧げられない、ふさわしくない動物なのです。

もちろん、レビ記11章に記された祭壇の上に捧げられる、同時に人が食せるきよい動物は神が永遠普遍の教えとして教えています。

それらの動物の中でも、祭壇に捧げる動物は、出どころが決まっている動物、大祭司が判定して傷、しみ、不具合、欠陥が無い動物として判定されなくては、ならないのです。

単に普通に食する動物ではない!

イエシュアも「子羊」として語られています。過越の子羊は、

ベツレヘム=パンの家という意味の町で祭壇に捧げれる目的で

飼育されていて、そしてそこからエルサレムの神殿に過越の子羊として運ばれて来たのです。

それなのに、野生動物がいきなり天から降りてきて、汚れた動物と一緒くたに居る、それらの動物は神の祭壇に捧げられるものではないのです。

でもペテロは、神に”屠って食べよ”と言われた。その「屠る」という言葉は、神殿の中でコルバンを屠り祭壇に捧げるという意味の言葉なのです。だから、無差別の動物=きよい動物でもそれらは屠って祭壇にささげるものではない!ペテロはそんな事はできない!と神に言ったのです。

でも、天の大祭司である神ご自身が、それらの動物=きよい動物は神の前に聖別されていると判定しているからと教えたのです。その動物=野生動物は、異邦人をなぞらえているのです。

 

幻が消えたあと、ペテロは考えを改めたのです。それは詰まり、汚れていると思っていた異邦人も神にきよめられ、聖別されているから、異邦人に対する偏見を解きなさいと神に言われた事を理解したのです。

だから、ペテロは、幻を見たあと、「食規定が変わった」などという事ではなく、異邦人に対する意識が変わった事を話しているのです。現にペテロは何を言っていますか?ペテロは「食規定がかわったぞ〜」などと言うわけもなく、ペテロの異邦人に対しての意識が幻により変えられた!と書いてあるのです。聖書を神の意図する教えの通りに正しく読む訓練は必要不可欠です。
自分の中の空想〜異邦人は神のトラー=教えが終わりありきとい
う先入観を通して聖書に書かれた意味、意図を読み違える事をしているのです。

 

使徒10:28 ペテロは彼らに言った、「あなたがたが知っているとおり、ユダヤ人が他国の人と交際したり、出入りしたりすることは、禁じられています。ところが、神は、どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、わたしにお示しになりました。

 

もし神が食規定が変わったと言ったとするならば、モーセの五書預言書に記された教えはなし崩しになり、神は嘘つきになる事に気がついていないのだと思います。神の言葉はどの箇所も正しく変化なく同じだからです。

未来預言で、けがらわしい行為をする民への警告があります。

 

イザヤ65:2 よからぬ道に歩み、自分の思いに従うそむける民に、わたしはひねもす手を伸べて招いた。

65:3 この民はまのあたり常にわたしを怒らせ、園の中で犠牲をささげ、かわらの上で香をたき、

65:4 墓場にすわり、ひそかな所にやどり、豚の肉を食らい、

憎むべき物の、あつものをその器に盛って、

66:16 主は火をもって、またつるぎをもって、すべての人にさばきを行われる。主に殺される者は多い」。

66:17 「みずからを聖別し、みずからを清めて園に行き、その中にあるものに従い、豚の肉、憎むべき物およびねずみを食う者はみな共に絶えうせる」と主は言われる。

 

このような箇所をクリスチャンは寓話化して語りますが文字通り汚れた動物、豚やネズミを食する事、これらが神の前に何を意味するのかを話しているのです。

書いてある意味を変えたら、神の教えている教えは見えなくなります。

この点をよく注意して考えたらよいのです。使徒15章にあるように、ユダヤ人パリサイ派の長老のイエシュア信者達が、イエシュア を信じた異邦人達を自分達ユダヤ人の交わりに入れるために

4つのことだけ、神の教えの最低4つ、ユダヤ人と交わる上で

神が禁じていることを神の教え=言葉=トラーからはっきり知ってそれを守って!と提案しています。

 

使徒を読んで、新しい宗教=キリスト教=当時2世紀なら西洋宗教の原型=カトリック、プロテスタンとは16世紀に出現したものですから、その前衛のカトリックが聖書に書かれている?と考えて、教会という異邦人が新しい契約を受け取った、新しい教え=キリストの血の贖いで許されることを初めて知った時代〜などと考えるから見えなくなってしまうのです。

西洋宗教や、変化した神の教えや記念日は聖書には書いてない!という明らかな事実に気がついて神の言葉の永遠の真実を認識しないとならないのです。

聖書に書いていない事は、後から人間が考えて付け足した教え!人造宗教の教えであり、神の教えではないのです。

使徒に書かれているのは、異邦人の教会という新しいグループではなく、エデンの園から存在する、永遠の中から存在する1つのイスラエルの神の家族、唯一この家族しか聖書には存在しない、

その群れの継続が書かれているだけです。

その大家族=”群”と訳されているカハール(ヘブライ語)エクレシア(ギリシャ語)で呼ばれる家族、ユダヤ人が土台、主体

そのかしら、土台はイエシュアである大家族に新しく異邦人も

多く加えられることが始まったのが使徒の記録なのです。

 

ユダヤ人達とそして、生まれが生物学的にイスラエルではない

異邦人も同様に、イエシュアを通して同じイスラエルの神の元にイエシュアの代価で贖われ買い戻されたので、イスラエルの神の家族天の共同相続人になったとエペソ2章で教えているのです。

 

この事実だけからも、イスラエルと異邦人が2つ別のグループで

2つ別の教え生き方を生きるという”主張”は聖書とは異なる人が

作った教えであることが分かるはずです。

自然のオリーブの木=イスラエルと、野生のオリーブの木=異邦人は、自然のオリーブの木に接木されると書かれています。

ローマ11:17-24,

イエシュアも、イスラエルの羊以外に、他の羊=異邦人がいる

それらの羊を同じ囲いに入れる!と言っているでしょう。

 
ヨハネ10:16 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。
1つの群れ!1つのカハール、エクレシアになる!と書いてあります。神の民の人種により二つ分裂したグループは、異邦人の思想空想発想です。

別の2つのグループ、群れという思想は、異邦人が勝手に考えた思想、教理であり、聖書ではないのです。

 

それともデイスペンセーション神学を唱える教師が言うように、

2つ別の救い=イエシュアがいるとでも考えているのでしょうか?イスラエルは、父なる神と婚姻し、異邦人はイエシュアと

婚姻する。ユダヤ人は地上、クリスチャンは天を治める?こんな

非聖書的空想ファンタジーを教えている人も今もいるのです。

肉の生まれはユダヤ人らしいですが。

2つ別のイスラエルの神が存在して、救い贖いの方法が時代ごと人種ごとに違うなどという、異邦人が語るような別の福音は

聖書には書いていない、それこそパウロが警告した別の福音!を語る思想です。

聖書に記された様々な事実だけを繋げれば、神の語る永遠普遍の事実は益々明らかになるのです。

人の思想を語り、聖書に戻らないから、見えないだけなのです。

 

神との関係は、神が提示した”婚姻契約”モーセの五書に記された事が土台、根拠であり、これ抜きに神との関係を保証されない、定義されないのです。神の子らは神が伝える生きかたを神の

家族の中で生きるように招かれたと書いてあるのにそれに逆らう教えをしているのです。

その事実が丸無視されて、今は律法が廃れたので聖霊時代になったのだと分かったようで意味不明なことを言うのです。

聖霊時代で神の教えが廃れたら、神の言葉を破棄して聖霊だけに教えられる時代が来たというなら、どうして今も聖書を読んでいるのですか?不思議な教え、矛盾した教えです。

神=聖霊=言葉、言葉により神の深い考え、教え、意思が人に伝えられているのに。

神は、エハッド=1つ、複数以上で全く1つと書いてある。

その意味は、異邦人思想のように、神を別々に切り離して考える方が聖書とはズレているのです。

聖霊=言葉であることも見えてない、言葉で人は神に創造され、神の口から出る1つ1つの言葉=トラーにより人は生きると聖書に書いてあっても、その意味が見えてないからです。

神の言葉を否定する、それはイエシュア=聖霊=神ご自身を否定する行為!!!と聖書の事実から気がついていないから、

主張できるのでしょう

人の世界でも、誰かが伝えることを他人が否定する行為が何を

意味するのか、考えたら良いのです。

 

続く