神の言葉 記念日は変わらない 歴史の中で一体何が起きたのか | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

宗教、イズムとは、神の言葉、教えの中に、人間の教えを混ぜたもの、純粋な神の言葉ではなく、人間主体の思想が入り込んだものです。

イスラエルの神の言葉、教えは純粋であり、宗教ではない。

神には神の教える永遠普遍の教えと、そして神が創造された神が神の子らを呼び出している記念日を知らせる「神の暦」があるのです。

人が考えて人が作って人が人を呼び出している人間の宗教の記念日の暦は、イスラエルの神には属さない、人が人を召集して呼び出しているだけ、人間由来、人間が考えた、人間発祥の宗教の

記念日、教えです。この違いが見えれば、神の言葉の真実の光がさしてきます。そして、西洋宗教は、神の教えや記念日を却下し

その代わりに人間が編み出した教えや、記念日にすり替えてしまったのです。

異邦人が聖書〜神の言葉が変化したと勘違いしている原因の1つは、福音は2000年以降、救い、赦し、贖いは2000年前

イエシュアが地上で処刑されて初めて可能、有効になったという異邦人が考えついた教えに妨害されて、神の伝える真実が覆われて見えて来ないだけです。

 

イエシュアも言われた通り、モーセの五書を学び知っている、

モーセの五書を教えるニコデモというトラー学者に、「新しく生まれ変わる事=聖霊を内側に受ける、トラー=神の言葉に記されている事を、あなたは学者なのに体験的に知らないの?」と質問しているでしょう。ヨハネ3:2どう言う意味でしょう?

 

イエシュアは木にかけられ処刑され昇天する前、イエシュアは、ニコデモに対して、モーセの五書に記された事実、子羊の血の贖いで、生まれ変わる、聖霊を受け取る事実を、確認し話しているのです。

アヴラハムが、イエシュアの日を未来に見て、信仰により楽しみ喜んだ!と言われた意味と同じです。どの時代のどの人も、同じ

贖い、救い、信仰により義とされ聖霊を受けていた事実がモーセの五書に記されています。そして、モーセの五書の解説の預言書、諸書に記されているのです。

 

福音、贖い、救いは永遠の中から存在し、完了していて、2000年前イエシュアが地上に来られて、モーセの五書に記された現実を物理的に地上で証明された、その違いだけで、受け取る救い、贖いの実態はどの時代もどの人種も全く同じなのです!

永遠の中から存在している救い=イエシュアをどの時代の人も信仰により受け取るだけ!!!

イエシュアを通して以外、誰も父の元に来る事はできない!イスラエルの神は2000年以前の古代、過去の人を放置するような、異邦人が語るような、そんなひどい神ではない!どの時代のどの人にも同じ贖い、救い、赦し、恵、助けを与えているお方であることを聖書から読み取れないのは、聖書の最初の部分を捨てて聖書を書いてある意味通りに正しく学び教えられていないから、神の言葉を廃れただのイスラエルの神を知らない異教徒が言うような教えの嘘を信じこんで言い続けているから。聖書を正しく教えられていない、それが、真実を聖書から読み取れない本当の原因です。

怒りの神〜恵みの神、怒りの時代〜恵みの時代、律法時代〜聖霊時代などと2面相の神像を対比させ、人間の宗教の思想で語る、偽物のイスラエルの神像を信じ続け語り続け教え続けるから、

神が伝えている、神は永遠に変化しない!言葉も変化しない!

イエシュア=神は昨日も今日も永遠に同じ!と口で唱えながら聖書とは真逆のこと信じているとも聖書=神の言葉を読んで、気がつかない、聖書を書いてある通りに読んで、はっと嘘と本当の

違いに気が付かないとならないのです。

「正しく神の言葉を教える人、導き手がいなくては、どうして分かるのでしょう?」と言われた通りです。まして、トラーを先祖代々教えられていない、異邦人、一般、普通の人は、最初から正しく教えられなくては分からない。まして、聖書とは違う教え、

人の思想、偽のイスラエルの神像〜変化する神、変化する教えなどという、聖書ではない偽り、嘘を教えられてしまえば、真相は闇の中になっているのです。

 

見ないで信じるもの〜永遠の中に既に完了、完結、存在している同じ救いの現実、聖霊を内側に受けて生きていた人々の事が、「モーセの五書、預言書、諸書」に記されているのです。その事実を、人が神の言葉から読み取り理解しているのか、いないのかだけ、その違いがあるだけなのです。太古(いにしえ〜永遠)から語り継がれた同じ福音!とある通りです。昇天を境に古い教え、別の救い、新しい教え、レベル最強の救いが出てきたなんていう事は聖書に書いてない空想話。全て1つで同じ福音、同じ一つの方法で救われる、イエシュアの贖い血、永遠の中に屠られている子羊の血の代価で人は神の元に贖い買い戻されることしか聖書には書いてないのです。

福音はエデンの園から、それらがモーセの五書全体で説明され、最初から同じ福音、同じ救い=イエシュアが記されている。

1世紀の人々は、モーセの五書に記された、神の子羊〜イエシュアの血の贖いに救われる事実を、モーセの五書から理解していた。理解していない人は、今の時代と同じ、書かれていても霊的目が開かれていなら、見えないだけなのです。

 

イエシュアが来て、新しい教えや宗教が出現したり、トラー=モーセとは違う別の教えが初めて伝えられたのなどではないのです。この誤解を解かないことには、聖書=神の永遠普遍の言葉を正しく理解することへは進めないのです。

 

イザヤ61:1 主なる神の霊がわたしに臨んだ。

これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、

捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、

 

テトス1:2 偽りのない神が永遠の昔に約束された永遠のいのちの望みに基くのである。

 

テトス1:2上の日本語翻訳では見えませんが、ギリシャ語では、「この世界が造られる前、永遠の中に約束された永遠の命=贖われた新しい命が約束されて、与えられていること」と書かれています。

詰まり、2000年前、イエシュアが処刑され昇天する以前、

永遠の中に遡り最初から、イエシュアの贖いの血、子羊の血の

代価は存在している!だから、バプテスマのヨハネ=大祭司で

あったヨハネ、神のみ前に捧げられるコルバン=子羊イエシュアを見て、”見よ、世の罪を取り除く神の子羊!”と宣言されたのです。全部繋がり、意味が見えてきます。

大祭司ヨハネは、思いつきで「世の罪を取り除く神の子羊」と宣言したのではなく、モーセの五書に中に記された永遠の中に存在している神=イエシュア=贖いの子羊の事実を宣言しただけです。

預言書に書いてある福音と、イエシュアが来られた後の福音は

全く同一であり、1つの福音、1つの救いの方法=イエシュアの贖いの血を通してしか救い贖いはないからです。

 

1世紀、使徒、弟子達が、全て亡くなった後に何が起きたと思いますか?

パウロが警告しているように、既に使徒たちが地上に存在していた時でさえ、違う福音、聖書とは異なる別の教えをしている人達

教師達が居た事が何度も何度も警告されています。

1世紀当時、弟子達が居た時でさえ、聖書とは異なる教えがされてしまったこと、別の福音=モーセの五書に記されたものとは異なる人の教えをする人達が蔓延って、純粋な神の言葉に人の教えが潜入してきたのです。

当時は聖書は、「モーセの五書、預言書、諸書」のみですが、

そこに福音の全て、神の教えの全てが記されているのです。

福音書〜黙示録は、「モーセの五書、預言書、諸書」の後書きの補足なのです。何も最初の教え=モーセの五書、預言書、諸書に相反する、否定する教えなど聖書には書いていない!という正しい聖書理解に戻らない限り、人が編み出した教えが続出し続けて行くのです。

2000年前、イエシュアの昇天以降、聖書に記されている

イエシュア信者達はほぼほぼユダヤ人でした。ごく少数の異邦人がユダヤ人信者の間に混じって居ただけです。その事実をまず考えて下さい。そして、イエシュア昇天以降も、モーセの五書を皆が熱心に学び、シャバット、過越、仮庵の祭りを祝っていたことだけが聖書に記されている事実なのです。

聖書の中には、日曜礼拝も、モーセの五書を否定した新しい教えも、イースターもクリスマスの祭りも書かれてさえもいませんし、存在もしていません、誰も知らない、祝ってなどいない!

神が昇天以降、神の教えを変えたり、記念日を変更せよ!と命じてもない命じるわけなどありえない!事実命じていない。

 

聖書に記された事実だけに基づき聖書を読んでみて、もしそんなことが書いてあるとすれば、それは翻訳で、「過越の祭りをイースター」と不適切な訳をしているか、聖書の記述を曲げる反則をして、原典聖書にない事を付け足して書いているだけです。

「イースター」とは、調べてみれば分かる通り、異教の女神の名であり、イスラエルの神に対して異教の女神の名前の祭り?

聖書に記された神の記念日の祭りではない。

復活の命を祝う日は、最初から神が創造されてデザインし、人がずっと祝っていた、「初穂」という日が種無しパンを食べる7日間の真ん中に設けられているのです。神の記念日の暦は神が造り人に教えている、それはレビ記23章に神の記念日の暦の完全版として

記されている事を知ればよいのです。人の暦と、神ご自身が造られた暦は異なるのです!

異邦人は神の創造された記念日、神の暦があることさえ教えられない、神が創造された本物の呼び出し日=記念日を祝わないから気が付かない、分からないだけなのです。

日本人がお正月の祝いの一連を体験的に知っているように、それらを祝うから分かる。イエシュアが、神が教えている神の本物の記念日、神が人を呼び出して集めて祝う日を異邦人は、はじめの愛=婚姻契約=神の教えから遠くはなれたため、祝ったことが

一度もないからその体験に欠けるから分からないのです。

 

翻訳聖書には、原典に書いてない文章や言葉を付け足したり、神の祭りを別の名前にすり替えること、それが可能だからです。

でも原典聖書、ヘブライ聖書にはそのような反則はできないし、存在しないのです。なぜなら文字数も書かれている言葉も全く同じでぴったりであり、人の手が加わっている翻訳ではないからです。神は、一つの言語と一つの民族を呼びだして、神の純粋な言葉を生きる残りの民達の頭を保存している理由が見えてきます。他と交わったら何が本当か分からなくなってしまうからです。区別、それが聖別の本当の意味です。神の目的通りに生きること!神が伝えた通りを生きること、それが聖書に記された神が伝える聖別の意味です。

異邦人グループ=教会というものが昇天以降初めて出現したのではなく、イエシュアを知る異邦人も、ユダヤ人の信者〜最初から

救い主の実態を知って居た人、イエシュアが来られてからその事実に出会った人、混合のグループに異邦人が、歴史の中で初めて多く加えられ始めたのです。それまで、パウロが説明するように、ユダヤ人は、トラーを生きない異邦人達を、汚れた人たちとして、一切関係も、交わりも持たない生活をしていたのです。

これは今イスラエルに行っても肌で感じます。汚れた異邦人と考える正統派の人など、異邦人とは街中でもスーパーでも目も合わせないで素通りします。

 

ペテロが異邦人の家に行き共に食事をしたりすることを躊躇していた記事でも、分かる通り、使徒15章で、異邦人がイエシュアを信じたと言いながら、今までと同じく、異教徒の神殿で、汚れた動物=豚を捧げ、その血を飲み、神殿娼婦と交わり、動物をしめ殺していたと書いてある通り、信じても神の教えを知らない異邦人の状態が記されています。

そのような事は、モーセの五書=トラーに記されている禁じられいている行為だから、異邦人は、ユダヤ人との交わりに入る場合には、それらだけは絶対にしないで、最初からトラー=神の教えが全部分からないだろうから、その4つだけは理解して絶対にやめるように!と書いてあるのです。

 

分かりますか?異邦人の解説では、めちゃくちゃな聖書解釈、

理解をしている根拠になる箇所でもあるのです。異邦人はこの箇所を、「異邦人はこの4つだけ守れば良いのだ!」モーセの五書は終わりだとする根拠としていますが、これらはトラーに基づいた教えです。きよくない動物を食してはならない!血を食してはならない!これ今異邦人が聞く耳もって守っていますか?

これだけ4つだけ、という事も無視してます。

異邦人は今でも汚れた動物を食べ、血も食することを平気でしているでしょう。聖書に書いてある意味を正しく理解しないと、

聖書を完全に誤解して受け取ってしまうのです。

 

続く