神の言葉と記念日を変えたのは人間 神ではない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

創造主はお一人しか存在しない。その創造主は、一つ以上で全く

1つの存在。だから、聖霊とかイエシュアとか父と分割出来ない

1体の神。理解不能ですが、そうだからそうだと受け止める以外にないのです。人が体心精神魂霊全部丸ごとで一人の人であるのと同じです。切り離せない。

 

同じ神なのに、人により神が別物に変わってしまうのは、人間の側の理解、誤解の問題なのです。人が考える神像に沿って、神が

変身するわけではないからです。人間の側の理解の問題。

 

同じ神を信じているのに、どうしてある人は神の言葉が終了、

シャバットは、昇天以降は、日曜礼拝に変わった〜と言い礼拝するの?と言われましたが、それは人の側の問題で、神の側では昇天以降以前、何1つ教え、言葉、性質、記念日は変えてなどいないのです。

クリスチャンは、イスラエルの神を怒りの神から恵みの神、

怒りの時代から、恵みの時代、律法から聖霊時代などと、聖書に書いてもない事を真実のように語っていますが、それってイスラエルの神とは違う神像を語っているのです。時代ごとに変化する神と、変化する神の言葉、教え、変化する別の福音、変化する

救いの方法、それは聖書とは異なる異端的教えです。

 

神は最初の最初から警告しているでしょう。神の言葉に付け足し差し引き変形するなかれ!と言っているのに、人間が神の言葉を勝手に曲げて良いとしているのです。

カトリックは、ペテロがユダヤ人であると認識していないのでしょうか?ユダヤ人であるという意味が何であるのか分からないのだと思います。ペテロがモーセの五書を否定して捨てて、西洋人

人間が作った宗教、カトリックのローマ教の教皇などに絶対になる訳などない、天地がひっくり返っても絶対にそのような事などあり得ない!

ペテロは生涯、モーセの五書を生きて教えた人なのに、その事実さえ聖書から読み取れない、見えないほど、別物に変形させられたペテロ像がカトリックでは教えられています。

プロテスタントも度合いは違えど同じような事を教えています。

 

しかも、教会と造語で訳されている神の家族はカハール、

ケヒラ、エクレシア〜神に呼び出されて応答した人々の群れ!

創世記からマラキは、カハール、ケヒラ、エクレシアを”群れ” ”集会”と訳して、福音書以降は全く同じ言葉を、教会などという造語をあてがい、人に別物が出現したかの如くの印象を与えるために、違う言葉であえて訳している翻訳トリックなのです。

聖書に書かれて教えられているのは1つの同じ群れ!であり、

別の群れなど無い!聖書の事実だけに戻り考え直す読み直して、正しい理解を再習得しなくてはならないのです。

 

エデンの園から神の家族は1つの群れしか存在していない、

2000年前に教会という別の家族が出現したのではないのです。全てが最初からの継続、同じ1つのイスラエルの神の大家族に全ての神の子らが加えられ続けて行くだけであり、その土台は、ペテロ=ペトラス(小さい石)が宣言したイエシュア=大きな岩=ペトラ、救い主であると宣言したペテロの宣言=この岩=イエシュアの上に神の家族を建てあげ続ける!とイエシュアが言っている言葉を誤解して、ペテロの上に新しい別物、教会という異邦人グループを作るなどと解説しています。

 

この様な聖書に記された意味を完全に誤解して解説し、誤解を

生み、聖書に書いてもない聖書解説をし続け、宗教という教えが今も編み出し出され続けているのです。

 

ペテロは、イエシュアが教えた通りに、モーセの五書を人に教え

生きて伝える任務をイエシュアから任され、与えられただけで、神の言葉をペテロの判断で、勝手に変形して違う教えに変えて良い権威などを神から与えられたとカトリックは教えていますが、それは聖書に記されている事実ではないのです。

そういう教えが、空想、人造、聖書とは異なる人間の考えを伝えているだけ!という事に気が付いて聖書を読み直さないとならないのです。

プロテスタントも同じように神の言葉が変化したと信じて教えていますが、それらは聖書とは全く異なる非聖書的、聖書とは異なる違う教えなのです。

今の時代は、人の判断で、神の教えを変えてよい、選んで良いと教えています。人が何を食べようと、言い争いになるから、今はそれぞれが考える事を選んで、汚れた動物=神が禁じているものを食しても良いのであると教えていますが、そんな事神は教えてなどいません。モーセの五書トラーが十字架に釘付け処刑されたから終わり??本当におかしな馬鹿げた話です。

イエシュアも汚れた動物を食せるなどと人に教えてもいませんし

今も教えていません!なぜなら神の言葉は変わらないからです。

マルコ7章でイエシュアは汚れた動物がきよいなどとも宣言していません。原文に無い文章が挿入されている、プラス、もし”全ての食べ物”と言われたら、それはレビ記11章にある、人間が食せる全ての食べ物の中での食べ物のことなのです。

日本人で食べ物と言ったらネズミなどと考えないのと同じです!

ここの箇所の議論は、異邦人の市場に行って手を洗わないまま

食べ物に触れたら、汚れる〜手洗いの儀式をしない手はどんな

食べ物をも汚すと言う人間の言い伝えを信じていた人達との議論をイエシュアがしていることを考えれば、何を言っているのか

理解出来るでしょう。汚れた動物を食することは、神の前には

大変けがらわしく忌み嫌われる行為であると教えられているのです。聖別、神の宮である人を実際に物理的に汚染、汚す行為であることを異邦人は聖書を正しく教えられないから、理解していないのです。霊的肉体的物理的は一体で切り離して考えるから見えないのです。十戒=本当は10の言葉を与え時、神は”あなたのために!別の顔=偽の教えを神の上においてはならない!”と警告しているのです。私たちのために!神が教えているのに、その教えを無視する行為は本当に愚かなこと、自分に対して危険な行為。

実際に汚れた動物は本当におぞましく、汚れているのです。

ありとあらゆるゴミ、死骸、糞、菌、を食べる動物!!!

人は、ゴミ=神に属さないものを取り入れない!と言う教えにも繋がっているのです。安全に守られるために。

清掃動物として造られたものをわざわざ食べる〜それが異教神々の世界に生きている異邦人の習わしだから、平気なのです。

しかも聖別の定義は、食べ物を通しても教えられているのに、

その深い意味を異邦人は理解していないから見えないのです。

神の宮=神殿=ミシュカンの中に、祭壇の上にでどうして汚れた動物が入れられたり、捧げられないのか?神が教えているその意味を聖書から知っていますか?

実際にそれらが分かり、聖別を生きる事、それは神の教え通り

生きる人は、神がどんなに深いことを教えているのか初めて理解出来るようになっているからです。それをしない人には見えない世界がある。

汚れた動物は今も汚れた動物、昇天以降進化変化していない=人に、環境に毒、菌、ウイルスを撒き散らすものであり、人が食してはならないものです。

そんなシンプルな事も理解できなくなるのは、エデンの園と同じ

神はそんな意味では言ってないと言い続けるから、分からなくなり、自分の体に害毒、他者にも害、疫病、ウイルスを与えるようなことになってしまっているのです。

 

神がダメ!!と言われた事は、昇天以降も変わらない。神がそうしなさい!と教えていることは昇天以降も同じ!それが神の子らの生き方だから。至極シンプルなのに、人間が神の教えを複雑にし変形し、勝手に言い換え塗り替え、神を否定しているのに気が付いてない冒涜をし続けて、結局自分に他者に害を与えているのです。

詰まりこういう事が起きているのです。

聖書に記されていない教え、聖書に書いてない人間が考えた伝統の教え〜聖書とは異なるイスラエルの神像イエシュア像を人間のペンキで塗り替えて人に教えている!!!

そんなことしていると、クリスチャンはもちろん考えてません。

なぜなら、2000年前にキリストが来られて、神の教えが変わったと言う人の創作した教えを本気で聖書だと信じているから、神の言葉が廃れたという聖書に対する矛盾を平気で信じられるのです。

詰まり、神の言葉を曲げている事にさえ意識が向いてもいず、

神の言葉が途中で変化したと、聖書にない教えを信じているからです。

イエシュアの死、子羊の血の贖いで許されて救われたことだけさえ分かればそれでおしまい!なんて考えていたら、見えてきません。神はもっと壮大な救いのプランがあるからです。

全世界の修復、全人類、そして個人に関する全ての面での修復。

生まれた赤ちゃんは成長する過程があるのです。

生まれたらどう生きる!?を教えられないと分からないのです。

神の言葉により生きると言うことを教えられないとならない。

 

異邦人クリスチャンは現在日曜日を礼拝しています。

でも、聖書は、明らかにはっきり、シャバット=安息日は、第七日目であると記しています。それ以外の週のシャバットはないからです。

黙示録に至るまで、誰も日曜礼拝などしていませんでした。

神の教えによれば、日曜日は、労働の第一日目であり、止まる日休む日、神が聖別した日でもありません。普通の日。だから聖書では第一日目〜第6日目には名前が付いていません。

言い過ぎ?聖書〜神がなんと言っているのか、人が神を愛し、

尊重するなら、神の言葉の方が正しい、絶対であると認める、

人の作った宗教の教えではなく、神の言葉の方を尊重し生きるべきだと理解しないとならないのです。

神は、神の教え、言葉を否定する、人の思いつきや考えを、認めないし、それらは神には全く無意味であり、いや神はそれらを忌み嫌うとはっきり警告し、歴史の中でもイスラエルが神のシャバットや記念日を蔑ろにした為、約束の地を追放されたことでも

教えられています。

なんでも許す神?それは空想のイエシュア像、イスラエルの神像であり、聖書に書かれているイスラエルの神とは異なります。

神はご自身の言葉を矛盾させたりするようないい加減で不誠実な

お方などではないからです。

 

では、誰が、シャバットを第七日目から、第一日目に変更したのでしょうか?神はどうしてご自身のものとは違うものを拒否されるのでしょう?

 

イエシュアは神が人として肉体を取って来られたお方です。

イエシュアは、シャバットを聖なるものとして生きて取り扱うようにずっと教えています。

福音書以降にも、シャバットに関して60回以上も記されているのです。1世紀当時、聖書の中に登場する人の中で、現代の異邦人の中にある教えや日曜礼拝など微塵も考えない、実践していない事実、聖書の事実から考えたら良いのです。

聖書に無い教えや記念日がどうして出現したのか?それは神由来の教えや命じではなく、人由来、人間創作のものだからです。

 

イエシュアはシャバットを聖なるものとしていかに生きるかを

教えていました。

イエシュアが福音書の中で、60回以上シャバットに関して

書かれていますが、時のリーダー、トラー学者達と議論されている記事があります。

異邦人クリスチャンは、イエシュアがシャバットはもう無用だとか、第七日目は聖別された特別な日ではないと主張していますが、そんな事聖書に書かれている訳など10000%ありえませんし、実際に書かれてもいません。もし書かれていたら、イスラエルの神は嘘つき、不誠実な神であり、信頼に値しないという事になります。イスラエルの神がどなたかを異教徒の世界で育った人には分からないのは無理ないのです。

永遠に、代々祝われるべき神の記念日であり、人がシャバットを

汚すことは死に匹敵すると言われたその事実は変わらないからです。

イエシュアが議論されているのは、シャバットをどのような意識で、どのように過ごすか?という事に関して時のリーダー達と議論しているのです。

 

ルカ4:16 それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書<モーセの五書、預言書、諸書>を朗読しようとして立たれた。

 

イエシュアが、神の教えや、シャバットを私達のために守って生きたから、もうクリスチャンは神の教えやシャバットを行なわななくて良いですという教えをしますが、その教えは聖書、イエシュアの教えではなく、人が勝手に言っている教えです。

殆どのクリスチャンは、聖書とは矛盾した事を信じてても全く気が付いていません。気が付いたら本物に戻ろうとするからです。十戒を唱えながら、同時にモーセの五書は終わりだと言いますし、十戒がモーセの五書の題目だとも気が付いていない事もあります。そして、十戒を信じていても、モーセの五書は終わりという人、そして、十戒を信じてていても、安息日=シャバットに関してだけは、終了と言う、本当に矛盾した、それぞれ勝手な考えを言っている事にまず気がついてください。

 

いつ人間が神の座に座る権威を与えられたのですか?

いつ人間が神の言葉を塗り替えて変える事を許されたのですか?

カトリックはそう信じていますがプロテスタントも同じです。

神の言葉が終了したと、信じて、人の作った教えの方を買っているからです。

 

続く