シャバットは神が創造され神が人を呼び出している日 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

この世界は、エデンの園の最初の最初から、情報戦争です。

神の語る教え、言葉を塗り替える、サタンの作戦、攻撃。

人類の問題の根、死が入り込み、罪が入り、人を破壊する事に

陥ったのは、神の言葉を曲げること!これが、全ての問題の根、出どころである事が、私達への警告として、神が語られています。

エデンの園は美しい場所で、食べ物も最高に美味しい味がして、

空気も澄んでいて、そして神が共に人と語り合い、エデンの園に

満ちて過ごしていた、楽園、天国でした。

エデンとは、歓喜、喜びという意味です。ヘブライ語をそのまま

音訳して訳されていないので、”エデン”とありますが、エデンという名の園ではないのです。喜び〜神の中に神の意図通りに生きる

時、エデンの状態に人は住まうのです。

 

それが、今や世の中は、悪が堂々と表に現れ出て好き放題、言いたい放題、やりたい放題。でも、残りの民は、どの時代にも神が置かれて、敗れた戸口を修復する役割、地の塩、世の光の役割をして来たのです。

私達、今の時代も一人一人、神の目的、プラン通りの役割を生きているという自覚が必要なのです。

 

今や子供達のゲームや漫画も、極悪、テレビ番組も、歌やエンターテイメントの世界も全てがトランスジェンダー。そして、公共放送までが、子供番組で、LGBTQ体操?友達がサイトを送ってくれましたが、卑猥、下品と普通の感覚の人達がそう抵抗するほど悍ましいものを流しています。サタンは神のデザインを歪め

曲げます。神の言葉を曲げることと同じく、別物に変身させます。

そして、以前もマヤ文明?の歌で、悪魔崇拝儀式を歌う狂った歌を子供番組で流す。世の中、破壊、人の命の破壊を堂々とやっている事に、目覚めている人は気が付いているのです。

 

偽情報、偽の教えの潜入は、知らない間にされています。そして人が気がつけないほど、ガッチリ偽情報に汚染され、洗脳されています。私達異邦人の世界で見聞きする教えが、聖書ではないのに、聖書であるが如くに信じられて、教えられ続けている多くの偽情報があるのです。まさか、正当な神学校を出た人が、正しい教えではないことを教えるなどと考えてもないのです。

でもそれらは、聖書に照らし合わせれば簡単に分かるはずなのに

分からない理由があるのです。

 

それは、昇天以降、神の教えが変わった、古い教え十戒は、十字架に釘付けにされたのだ〜その様な数々の人造の教えが、1900年近くも、雪だるま式に膨れ上がり、流されているからです。

 

神の言葉を、教えを正しく理解する絶対的な条件があるのです。創造主が人に伝えているように、神の言葉は全てで丸ごと完全で

完璧であり、永遠に変わらない!という事実を曲げては、神が人に伝える真理は見えてきません。

異邦人クリスチャンの世界の教えは、絶対で永遠で変化のない神の言葉が2000年前に終了した!と聖書ではない教えを聖書であると不真実な事を教えています。それは神の言葉に照らし合わせたら完全に永遠に偽りの教えなのに、気がつかないままそう

信じているのです。

それは、2000年前に福音、救い、聖霊、新しい一番優れた教えがメシアにより与えられたと完全に誤解、勘違いしているからです。

そのような教えを異邦人は教えられ続けてしまっているので、

聖書に書いてあることを書いてある通りにさえ読み取れなくなっているのです。

神の教えは変わらないのです。福音書以降に書かれている教えは10000%モーセの五書の内容で、しかも短い抜粋が記されているだけです。だから聖書の最初の部分を知らない場合には、

福音書以降が新しい契約、新しい教え、別の福音、新しい完全な救いが現れたと誤解、勘違いしているのです。

永遠の中から福音は1つしかない、救い=イエシュアは1つしかない、人が神の元に戻るのは、イエシュアの贖いの血を通してしか方法はない!これはどの時代も同じ内容であり、モーセの五書預言書、諸書に、同じ救い、同じ聖霊を受けた人達の事が書かれているのに、聖書を正しく読み取れないままいるだけなのです。

 

さて、神の言葉を捨てよ!と教える教えは、サタンから出ている事に気が付いてください。エデンの園と同じ声!教え!誘惑!

神は神の教えのどの箇所も曲げるな!変えるな!付け足すな!

差し引くな!と警告しているのに、その警告がまるで耳に頭脳に届かないのは、人の教えで脳が占拠されているから、分からないだけなのです。

特に聖書を曲げて教える人〜神の言葉は2000年前に廃れた、終了と教える人には、聖書の真実など見えてないという事にさえ気がつけないまま、不真実な非聖書的教えを唱え続けているのです。

ある部分は真実な聖書解説でも、神の言葉の大元、土台を揺るがす偽物の土台、砂の上に建てた建物を人に建てるように教えてしまっているのです。それは、神が伝える真実ではないのです。

 

どうして、福音が変えられてしまったのか?どうして、神の教えが捨て去られるようになったのか、それは使徒たちが亡くなった後に起こりました。でも、2世紀当時は、未だ現代のように、

シャバットを日曜日に変更などと考える人も多くなく、実際には

異邦人、ギリシャ人も第七日目にシャバットを祝っていたのです。

聖書のどこに、昇天以降、神が教えを変えたとか、神が考えを変えた、神がシャバットを第七日目から日曜日に変えるように命じたと書いてありますか?そんな事1つも書いてなどいないのに

どうして、異邦人はそのように聖書=神の言葉を取り扱って

いるのでしょう?

神は、創造の初めから、神の造られた時、日の意味、特別な日

”モアデイム”というヘブライ語で、季節と訳されていますが、

実際には神が”定めた時”を人に教えています。

 

神は、1週間を7日間と創造し、そして、第七日目だけを、特別に聖別し、祝福し、シャバットという特別な名を与えています。この日は永遠に祝われる”わたしの記念日”と人に教えています。そして、このシャバットを中心に、1年にわたる神が創造された全ての記念日を、神の子らが祝うように教えているのです。

神の記念日は全て、福音の根幹を生きて体験し学習し神と特別な出会いをする日として創造されました。神の記念日はイエシュアがされた業そのものを表しているのです。

 

聖書を正しく教えられ、神の記念日を生きる体験を続ける人は

必ず気が付く事があります。神の記念日を生きる中で福音を教えられる事。そして、それらの日は全て”主の日”であり、歴史的に

重要な事が起きた日であり、これから未来に起きる日でもあるのです。それは預言的祭りだからです。主の日は日曜日などではありません。そんなことは聖書に書いてない人が考えた教えです。

4月には、過越の祭りがありました。4月22日は、過越の祭りの最初、種無しパンを食べる7日の最初の日でした。

 

殆どのクリスチャンは神の記念日を教えられていませんから、それらが何か、何を意味して何を祝うのか知らないのですが、現在は、多くの異邦人クリスチャンもイエシュアが教えて生きたオリジナルの神の教えに戻ることをする人達が呼び起こされていますから、英語圏では、主の過越の祭りが語られるようになりました。

過越の祭りは、イエシュアの子羊の購の血、罪〜奴隷状態から

偽の神々、偽の人生目標から切り離されて、神の子として生きる

人生の旅路に導き出された事を全ての神の子らに対して教えている、歴史の中で実際に起きた出エジプトの出来事で教えているのです。

朽ちる体でありながら、既に聖霊が内側に住まう事を、荒野で与えられた神の移動式神殿〜ミシュカンを通して、イエシュアに贖い出された人達の内側に住まう聖霊、神との関わり、贖い、許し、そして、神の前に新しくされて芳しい香りとして受け取られている事、さまざまな事を神のミシュカンの中で教えているのです。

聖書を書いてある意味通りに教えられないと気が付かない、神の言葉を捨てる場合には、大事な事に気が付けないまま、ただ聖書を素通りして読むだけになってしまいますが、その中には宝石、宝が満載で、私達神の子ら天の祝福を受け継ぐ身分である人の生き方が書かれているのです。

 

大体、神の言葉が終了などという異邦人が考え出した教えは神から出たもの=聖霊から出たものではありません。聖霊=言葉であり、神の言葉は聖霊そのもの、神ご自身であることが聖書に書かれているのに気が付いていないからです。私達、すべての創造物は神の言葉で造られているという意味を考えたら良いのです。

神の言葉を離れて、人は本当の意味では生きることはできないのです。

ヨハネの福音書の冒頭には、神=言葉=イエシュアと書かれているのに、私は教えられるまで気が付きなどしませんでした。

 

でも古代のヘブライ人なら分かるのです。

そう書かれているから。だから、イエシュアが地上に来られた時

肉体を取って来られたトラー=神の言葉、教えと呼ばれたのです。神の言葉が終わり、終了、それを捨てよ?変な教えだと気が付いた方が安全です。しかも、福音書以降、イエシュアが教えた教えは、モーセの五書のみであり、イエシュアがモーセの五書を教えて生きたから、もう私達は神の教えを生きる必要などないなどと、一体聖書のどこに書いてありますか?????本当に、

嘘の教えが蔓延ると、神の言葉が分からなくなる、神と共にエデンの園を歩いて生きてたアダムとハヴァでさえ、まんまと蛇の嘘=神の言葉を曲げて騙した嘘に騙されたのですから、異邦人など神の言葉の永遠の重さ、完全さがまるで分からない異教神背景の人々は本当に注意して、軽々しい態度で神の言葉を捨て去れと

教える教えにこそ警戒しなくてはならないのです。

 

異邦人は、律法主義と、神の言葉を混同しているのです。

悪いのは、律法主義〜自分の努力や行いで救いや義を獲得しようとする意識は、ずれている!でも神の言葉は完全であり、私達を守るものであり、神の子らの生き方を神が教えているものであり神の言葉=トラーには何も非がない、変化ない、訂正する内容は1つもない!という基本中の基本を理解しないとならないのです。神の言葉を捨てる人には、神の教えていることなどわからないままになります。

クリスチャンの世界では、イエシュアが来られたら、古い人を縛る教え〜律法が十字架に付けられ、それらの束縛から解放されたなどと、とんでもない嘘、聖書に書かれていない嘘を教えられています。

そんな教えは聖書ではないということさえ、見抜けないほど、

聖書=神の教えから遠くかけ離れてしまったと言う悲惨な事実に気が付いたら良いのです。

1世紀の聖書に登場する人々で、弟子達で、今のような宗教の

教えを信じて実践している人など一人もいなかったのです。

人が勝手に教えを作り出して、それを定着させて、神の言葉の方を変え続けてしまったから、聖書とは違う事を信じて実践しているだけなのです。

パウロも警告しています。

 

2テモテ4:3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、

4:4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。

 

聖書ではない、神の言葉の方を曲げて作り変えるものがパウロが

警告している”作り話”であり、神の教えなどではないのです。

 

神は神の言葉、教え、神の記念日は永遠で変わらない!と言いながら、いつ神は考えを変えたのですか?聖書のどこにそんな事が

書いてありますか?書いてないのに、書いてあるように語るのは

偽りの行為であり、神に対する偽証である事を認識しないとならないのです。私達は、神が伝える通りの神の真実を人に伝える役割を与えられているのに、人間主体、土台、出所の人の教えを人の伝えてもそれらは嘘であり無意味どころか有害なのです。

 

神はいつが神の創造され定めたシャバット(止まる日、安息日)であると言いましたか?

 

創世記2:1 こうして天と地と、その万象とが完成した。

2:2 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。

2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

 

神が時を造られ、神が神のシャバットを定め、そして神が6日の間、創造の業をされたように、人も神と同じように6日の間働いて、第七日目に止まると神が人に教えているのです。どうして、人間が神の言う事に反する事を主張し、神が伝える事とは違う事を実践し、人に教えるのか?それは、歴史の中で人間が神の言葉を塗り替え、それに乗って伝統で浸透し継承し恒久化されただけであり、神が神の考えを変えたからではない!という永遠の事実があり、神は人に神の言葉、記念日を塗り替えることを断固として禁じて警告していることを聖書から読み取ればわかります。

イスラエルが約束の地から吐き出された理由の1つは、神の聖別されたシャバットを破り続けたらからである警告は永遠の真理であり、神の子らに対する同じ警告なのです。

 

週の第7日目が、シャバット 安息日です。これは、神の前に

今日も永遠の真実であり、神が人を呼び出している日です。

他の日は、神が呼び出している日ではなく、人が決めて、人間が人間を呼び出している日で、神が人を、シャバットを祝う目的で呼び出してなどいない日です。神は人が作った教えなど喜んで受け取らないのです。神は神が言う通りにしてと人に伝えているからです。神のデザインに反する事を神は認証などしないからです。

その違いを理解すれば良いのです。どの日に集まってもそれは素晴らしいフェローシップですが、神が定め聖別された日などではない!こんなシンプルな事実が見えなくなってしまっているのです。