創造主であられる方が初めて地上に物理的な神の家を建てなさいとモーセに言われました。
何で神は神の家を地上に作る事をモーセに託したのか、神の意図目的を見ていきたいと思います。
神の家に関する事に行く前に、異教の神々とイスラエルの神の性質の違いはどんなものなのでしょう?偶像礼拝とは何でしょう?
その中には正義など存在しない。罪に陥った人間の欲と罪を満足させるためのものです。本物の創造主から離れた人々は自分の神々に呼びかけ訴え仕えるのです。
一方イスラエルの神は神の創造された人を大事にし、修復し、
癒し、永遠に守る事をする神なのです。だから神は人に何をして命を守るかを神の言葉を通して教えているのです。異教の神々は礼拝者との関係はありません。礼拝者に要求してくるだけです。永遠の約束も保証もありません。直接話しかけても来ない。
そして唯一、イスラエルの神だけが人々に語りかけ、直接関係を持ち、永遠に神の子ら守られる唯一のお方であるのです。しかも、イスラエルの神だけが人々に文字で記された証拠=神の言葉=契約=保証=約束を与えている、これを頭に置いて、神の家に関して見ていきます。
神がモーセに地上で神の家=ミシュカンを建設する様に言いました。神がミシュカンを作らせた目的は何でしょう?
神が人々=イスラエルと神の共に住まう場所を造ってと言われました。
神が地上で神の家=ミシュカンを造られた理由があります。
日本語訳ではミシュカンを幕屋と訳していますが、“ダビデの幕屋” “幕屋”と言う名前のある思想グループに関連してしまうので
幕屋と言う言葉は使わずに、本来のヘブライ語であるミシュカンと言う言葉をそのまま使います。英語の翻訳だとタブナクルと言う言葉で、仮庵と言う言葉と同じです。
ミシュカンは神が神の人々と共に住まう場所です。
出エジプト25:8 また、彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである。
神が伝えた通り、ミシュカンは神のためにである!と言うのが
第一の目的です。
ミシュカンとは何も新しいアイデイアではありません。
神のミシュカン=神の臨在が住まう場所は、出エジプトに初めて記されている事ではありません。カナンの地には、カナン人が建てた彼らの異教の神々、女神の家がたくさん建設されていました。
イスラエルの神は人々に話しかけました。
ミシュカンがユニークである事は、イスラエルの民が神が直接、神の家を建てよと話しかけた世界の中で唯一の国民である事です。その他の神々の寺、聖所、神殿などは、人間の考えで建てただけのものです。それらは木、金属、石で出来た異教の神々の偶像は人々に話しかける事が出来ないからです。
異教の神々と違いは、イスラエルの神はリアルで現実の音声、
理解できる言葉を通して直接人々に話しかけました。
イスラエルには話しかけてくださる神がいる、神は他の異教の神々とは違う、無言の神ではないと言う違いが異教の神々との
違いです。イスラエルの神は人の間に住まわれる方です。
他の人々は異教の神々の家へ行き、そこで犠牲を捧げて神を喜ばせる、又は神々に許しを請うと言う事をしました。その過程で、彼らは様々な不法、不謹慎、淫らな行為など表現出来ない事をしたのです。
イスラエルの神は人々に神の家を建てその人たちの中に神が住まうために、その家を作りなさいと言われました。
それはイスラエルの神が人々と共に居ると言う目的のために神の家を作らせたのです。
イスラエルの歴史の中で様々な時に、神は特別な方法で彼らと共にいると言われました。イスラエルの神はイスラエルがエジプトの奴隷であった時も、神は彼らと共にいました。
神はバビロン捕囚の時もイスラエルと共にいました。
神はイスラエルと共に捕囚の地から共に上って帰らせて下さいました。今神は神の民と共に住まいたいと言われたのです。
だから共に住まう家を建てなくてはならなかったのです。
このことによりイスラエル神は神の子らを愛し彼らを大事に考えていると言う事を表している、証明しているのです。
イスラエルの神は人々が神を喜ばせないとならないなどの要求などしていません。
神は単純に神の民は神の臨在の中に住まい、神に語りかけ、神と共に歩んで欲しいとに願っているのです。あなたと共に居たい、
あなたと共に住まう家がある。
これ重要なポイントです。あなたと共に住まいたい。
あなたを奴隷の様にこき使いたいとか、あなたの一番大事なものを命や子供まで捧げて犠牲にせよとか、そんな事をイスラエルの神は言わないのです。逆にイスラエルの神が命を投げ出して人を救い出して下さったのです。雨は下から上に降らないのです。上から注がれる祝福と恵みを人は意図通りに受けて生きる!その事実を発見しないとならないのです。神は人と関係の中に住まいたいと伝えているのです。純粋なピュアな真実な関係。
一方異教の神々=悪霊ですが、それは人から搾取し、人の命や
尊厳まで奪い、骨の髄まで吸い上げる奴隷と仕立て上げる様な
勝手な神々です。人の健やかな状態やシャローム、幸せ、平安、本来の姿を生きるなど考えない、人の癒しなど考えない、おぞましい存在です。
神の家=宮、””ミシュカンの名前を学ぶ事で知る事が出来ることがあります。
ミクダシュ(מקדש)=この言葉の意味は“聖なる場所、又は”神の目的のために特別に取り分けられた“と言う意味です。
神は特定のものを聖別して居ます。それらは人々、場所、物、そして時です。神の家=ミシュカンもコデシム=聖別されたものとして、神の上に聖なるものとして取り分けられています。
聖別されているもの、それらは特別な取り扱いをして、ガードし守る様に教えられています。これはミクダシュに確かに関しても適用されるものです。
ゆっくり1つ1つの事実を考えてみて下さい。人の生活の中にも
自分が大事にするものがありますよね。例えば、家宝、ダイヤモンド、金、真珠などの宝石を他の雑貨品の中に放り込んで置かないでしょう。特別な場所に特別大事に保管するのではないでしょうか?
大事な証書や権利書などそれこそ金庫などに鍵をかけて保管する
でしょう?
神は神が聖別したものを特別な時、場所に大事にガード、キープ
保管する様に教えているのです。
続く
モレク神に自分の大事な子供の命を捧げる偶像礼拝
マタイ16章、この岩の上=ペテロが答えた”あなたがキリスト”と言う言葉の上に、岩=イエシュア=救いの岩の上に、エクレシア=カハール=最初から存在し継続し人が加え続けられる神の唯一の家族を建て続ける!とイエシュアが宣言されたのがこの場所です。カイザリア地方、ゴラン高原にあるバニアスです。
この場所に数回夏に行った事があります。ここは岩で出来ています。洞穴に見える場所に異教の神々の礼拝の神殿がありこの岩の上から子供を生贄として下に突き落としていたのです。