神の家、宮、神殿が地上に造られた理由は何?イエシュアを教えるため | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

創造主であられる方が初めて地上に物理的な神の家を建てなさいとモーセに言われました。

何で神は神の家を地上に作る事をモーセに託したのか、神の意図目的を見ていきたいと思います。

神の家に関する事に行く前に、異教の神々とイスラエルの神の性質の違いはどんなものなのでしょう?偶像礼拝とは何でしょう?

 
異教の神々は、人々に様々な要求をします。この世の宗教も全く同じ事を要求します。似たり寄ったり同じ共通点があります。
多額のお布施、無償の労働、奉仕、犠牲、ある時は結婚を禁じる、楽しみを禁じる、社会生活を捨てるetc etc etc冷酷で残忍な儀式、実践を礼拝者に要求します。
古代異教の神々、聖書に記されている異教の神々への礼拝、
異教の神々は礼拝者の初子=人に取り一番大事なものを犠牲にする、神々に捧げる様に要求するのです。これが聖書に記されている偶像礼拝の根であり、イスラエルの神は異教の神々に仕える
関わる思考回路で、イスラエルの神と関わらないで!と言う事を
ずっと教え伝えています。
これがモレク神に子供を捧げる儀式であり、イエシュアがカイザリア、ゴラン高原の”バニアス”にあるパンの神々、異教の神々の神殿がある場所で弟子たちと話した事がマタイ16:13
に記されています。この箇所は説明が必要な箇所ですが、イエシュアがこの場所に弟子達と居て発言した意味は深いものなのです。ちなみにペテロと言う人物の上に新しいグループ=異邦人教会を建てるなどとイエシュアが言ったと誤解された解釈をされる箇所ですが、そんな事イエシュアは言っていません、全く意味が違います。神の家族は最初から存在する1つのカハール=エクレシアしか存在しないのです。2つの家族が存在すると言うのは
異邦人の思想、置換神学やデイスペンセーション神学と言う異邦人が編み出した非聖書的教えの主張なのです。2つの分裂家族は
聖書には記されていません!1つ神、1つ契約、1つ家族が最後には1つ神の中に1つになると言うのが聖書の最初から最後まで同じ福音のテーマだからです。
このバニアスで、又はイスラエルが古代異教徒と一緒になって
自分の子供を異教の神々に捧げて殺していた事がタナック=創世記〜マラキには記されて居ます。バニアスは岩で出来た場所でその神殿の上から子供を突き落とし、下にある水たまり、川の流れの中に印を見たら、異教の神々に受け入れたとか拒否されたと言う、呪いみたいな儀式をやって居た場所なのです。イスラエルさえその様なおぞましい偶像礼拝をやってしまった記録が書いてあるのです。
ここで誤解してはならないことがあります。イスラエルの神も
アヴラハムにイサクを捧げる様に要求したでしょう?と考えるかもしれません。この箇所は深く掘り下げるとイエシュアに繋がる様々な事が見えてきます。神は最初からアヴラハムにイサクを神に捧げさせる事など考えていません。結末を見たら分かる通りです。神ご自身が身代わりの動物を用意していたではありませんか。
このテストは、アヴラハムそしてイサクも同様に神の約束を理解しているかも問われたものです。イサクだって大きな大人ですから逃げ出す事だって出来たからです。でも両者神が代わりの生贄を用意して下さると言う確固たる信頼は揺るがなかったのです。
 
異教の神々は礼拝者の一番大事なものを神々に差し出す様に要求し続けます。この思考回路が偶像礼拝の根なのです。それは
個人個人の中に巣食う、神の思考とは違うズレた考え方なのです。
こんな教えを聞いた事ありませんか?あなたの一番大事なものを神に差し出さないなら、あなたは神を愛していないのだとか。
この思考回路は、異教神に対する関わりと全く同じ性質であり、神々のために自分を犠牲にしなければ神に喜ばれない、自分の一番大事なものを差し出さないとならないと言う思考回路が、イスラエルの神の考えとはズレている、それが聖書で説明する偶像礼拝なのです。偶像、銅像を拝む事が偶像礼拝と思うかもしれませんが、偶像の神に仕えるがごとくの思考回路を話しているのです。神に喜ばれないと言う言葉=翻訳が相応しくないので説明が
必要なのです。神に造られたデザイン通りを生きる事、それが
本来の生き方である!シンプルな事実を述べているだけです。
 
神が命をかけて提供した神との関係に喜び生きる事ではなく、
ギブアンドテイク、神々に奴隷の様に仕える思考回路、それには一番大事なものを犠牲にして捧げれば、神が自分の願い叶えてくれる、自分の努力や捧げ物で自分が神を喜ばす事が出来る、
許してくれる、近づいてくれるなどなどのズレた思考回路の事です。だから繁栄の神学だとか、恵みの倍返しなどと言うスローガンが生まれるのです。その様な思想はよくよく考えると、人が神をコントロールしている!と言う事実をはっきり把握したら見えます。異教徒が神々を持ち上げて運ぶ事と同じです。
自分達の努力で神の思考や行動を人が支配する思考回路です。
異教の神々は曲がったおぞましい儀式を通して礼拝者から搾取するのです。そして人に対して実は何も相応しいものを与えない、何の修復、癒し喜び、本来の生き方も与えないままずっと礼拝者に犠牲を払わせ続け、礼拝者から何かを吸い上げると言うものなのです。神々に願いを請う人々を永久的に搾取する。
世の中の宗教も同じです。結局イスラエルの神以外の神々は悪霊であり、悪霊は人々を通して働くから、異教神に仕える祭司達が人々から搾取し、おぞましい生贄を捧げさせる儀式をし、子孫繁栄のための淫らな儀式を神殿娼婦達を通して行って居たのです。
神々は元々偽物であり、礼拝者を誘い出し、奴隷にするのです。
宗教の教えは人を奴隷にします。麗しいまやかしで人を奴隷にするものです。
礼拝者の欲に訴えかけて、何かを叶えるかの様にアピールしても
結局奴隷を作る構図です。神の純粋な性質=教え=言葉に根付かない生き方は人をどの道奴隷にするのです。

その中には正義など存在しない。罪に陥った人間の欲と罪を満足させるためのものです。本物の創造主から離れた人々は自分の神々に呼びかけ訴え仕えるのです。

 

一方イスラエルの神は神の創造された人を大事にし、修復し、

癒し、永遠に守る事をする神なのです。だから神は人に何をして命を守るかを神の言葉を通して教えているのです。異教の神々は礼拝者との関係はありません。礼拝者に要求してくるだけです。永遠の約束も保証もありません。直接話しかけても来ない。

そして唯一、イスラエルの神だけが人々に語りかけ、直接関係を持ち、永遠に神の子ら守られる唯一のお方であるのです。しかも、イスラエルの神だけが人々に文字で記された証拠=神の言葉=契約=保証=約束を与えている、これを頭に置いて、神の家に関して見ていきます。

 

神がモーセに地上で神の家=ミシュカンを建設する様に言いました。神がミシュカンを作らせた目的は何でしょう?

神が人々=イスラエルと神の共に住まう場所を造ってと言われました。

神が地上で神の家=ミシュカンを造られた理由があります。

日本語訳ではミシュカンを幕屋と訳していますが、“ダビデの幕屋” “幕屋”と言う名前のある思想グループに関連してしまうので

幕屋と言う言葉は使わずに、本来のヘブライ語であるミシュカンと言う言葉をそのまま使います。英語の翻訳だとタブナクルと言う言葉で、仮庵と言う言葉と同じです。

 

ミシュカンは神が神の人々と共に住まう場所です。

 

出エジプト25:8 また、彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである。

神が伝えた通り、ミシュカンは神のためにである!と言うのが

第一の目的です。

ミシュカンとは何も新しいアイデイアではありません。

神のミシュカン=神の臨在が住まう場所は、出エジプトに初めて記されている事ではありません。カナンの地には、カナン人が建てた彼らの異教の神々、女神の家がたくさん建設されていました。

イスラエルの神は人々に話しかけました。

ミシュカンがユニークである事は、イスラエルの民が神が直接、神の家を建てよと話しかけた世界の中で唯一の国民である事です。その他の神々の寺、聖所、神殿などは、人間の考えで建てただけのものです。それらは木、金属、石で出来た異教の神々の偶像は人々に話しかける事が出来ないからです。

異教の神々と違いは、イスラエルの神はリアルで現実の音声、

理解できる言葉を通して直接人々に話しかけました。

 

イスラエルには話しかけてくださる神がいる、神は他の異教の神々とは違う、無言の神ではないと言う違いが異教の神々との

違いです。イスラエルの神は人の間に住まわれる方です。

他の人々は異教の神々の家へ行き、そこで犠牲を捧げて神を喜ばせる、又は神々に許しを請うと言う事をしました。その過程で、彼らは様々な不法、不謹慎、淫らな行為など表現出来ない事をしたのです。

 

イスラエルの神は人々に神の家を建てその人たちの中に神が住まうために、その家を作りなさいと言われました。

それはイスラエルの神が人々と共に居ると言う目的のために神の家を作らせたのです。

イスラエルの歴史の中で様々な時に、神は特別な方法で彼らと共にいると言われました。イスラエルの神はイスラエルがエジプトの奴隷であった時も、神は彼らと共にいました。

神はバビロン捕囚の時もイスラエルと共にいました。

神はイスラエルと共に捕囚の地から共に上って帰らせて下さいました。今神は神の民と共に住まいたいと言われたのです。

だから共に住まう家を建てなくてはならなかったのです。

 

このことによりイスラエル神は神の子らを愛し彼らを大事に考えていると言う事を表している、証明しているのです。

イスラエルの神は人々が神を喜ばせないとならないなどの要求などしていません。

神は単純に神の民は神の臨在の中に住まい、神に語りかけ、神と共に歩んで欲しいとに願っているのです。あなたと共に居たい、

あなたと共に住まう家がある。

 

これ重要なポイントです。あなたと共に住まいたい。

あなたを奴隷の様にこき使いたいとか、あなたの一番大事なものを命や子供まで捧げて犠牲にせよとか、そんな事をイスラエルの神は言わないのです。逆にイスラエルの神が命を投げ出して人を救い出して下さったのです。雨は下から上に降らないのです。上から注がれる祝福と恵みを人は意図通りに受けて生きる!その事実を発見しないとならないのです。神は人と関係の中に住まいたいと伝えているのです。純粋なピュアな真実な関係。

一方異教の神々=悪霊ですが、それは人から搾取し、人の命や

尊厳まで奪い、骨の髄まで吸い上げる奴隷と仕立て上げる様な

勝手な神々です。人の健やかな状態やシャローム、幸せ、平安、本来の姿を生きるなど考えない、人の癒しなど考えない、おぞましい存在です。

神の家=宮、””ミシュカンの名前を学ぶ事で知る事が出来ることがあります。

ミクダシュ(מקדש)=この言葉の意味は“聖なる場所、又は”神の目的のために特別に取り分けられた“と言う意味です。

 

神は特定のものを聖別して居ます。それらは人々、場所、物、そして時です。神の家=ミシュカンもコデシム=聖別されたものとして、神の上に聖なるものとして取り分けられています。

 

聖別されているもの、それらは特別な取り扱いをして、ガードし守る様に教えられています。これはミクダシュに確かに関しても適用されるものです。

ゆっくり1つ1つの事実を考えてみて下さい。人の生活の中にも

自分が大事にするものがありますよね。例えば、家宝、ダイヤモンド、金、真珠などの宝石を他の雑貨品の中に放り込んで置かないでしょう。特別な場所に特別大事に保管するのではないでしょうか?

大事な証書や権利書などそれこそ金庫などに鍵をかけて保管する

でしょう?

神は神が聖別したものを特別な時、場所に大事にガード、キープ

保管する様に教えているのです。

 

 

続く

 

 

モレク神に自分の大事な子供の命を捧げる偶像礼拝

 

 

マタイ16章、この岩の上=ペテロが答えた”あなたがキリスト”と言う言葉の上に、岩=イエシュア=救いの岩の上に、エクレシア=カハール=最初から存在し継続し人が加え続けられる神の唯一の家族を建て続ける!とイエシュアが宣言されたのがこの場所です。カイザリア地方、ゴラン高原にあるバニアスです。

この場所に数回夏に行った事があります。ここは岩で出来ています。洞穴に見える場所に異教の神々の礼拝の神殿がありこの岩の上から子供を生贄として下に突き落としていたのです。